goo blog サービス終了のお知らせ 

夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

山本常朝 ――『葉隠』の死生観

2007年12月11日 | 芸術・文化

山本常朝 ――『葉隠』の死生観

人間は文化的な生物である。だから、その成育の環境と伝統のなかで「教育」を受けてはじめて人間になる。教育や伝統などの文化的な環境が人格形成に決定的な影響を及ぼす。人は誰でも、両親を第一として、故人であれ、また海外であれ、青年の頃から多くの人格に接することを通じて人格形成を行う。そして、多くの人がそうであるように、私もまた、様々な出来事や人格から何らかの影響を受けながら、意識的にかあるいは無自覚的に自分の人格を形成してきたといえる。

その中にも、もちろんその影響の強弱はある。人格の中にも、強い影響力、感化力を持つものとさほどでもないものがある。

最近でこそ特に関わることもないけれども、二十歳前後の青年時代に触れる機会があって、かなり強い印象を残した人格に山本常朝という人間がいる。常朝とは、いうまでもなく『葉隠』の語り部である。私はそれを当時刊行されていた「江戸史料叢書」の中の上下本として読んだ。

『葉隠』といい山本常朝といえば、その武士道の主張で戦前の右翼思想家のイデオロギー形成に寄与したことから、左翼からは批判的な眼で見られることも多いようである。けれども、それは山本常朝自身の責任ではない。常朝自身の考え方には、右翼とか左翼とかいった狭い範疇を越えた普遍的な真実がある。


常朝の思想の核心は、武士の身分として「死の決意をもって主君に奉じる」ということにあった。武士の生き方としての死の覚悟である。彼の人生観、死生観はそれに貫かれている。

「毎朝毎夕改めては死に死に、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく家職を仕果たすべき也」と語っている。
ある意味では彼は最高の「モラリスト」であるとも言え、少なくとも江戸、明治期には、我が国にこうした人格は少なくなかったのだろうと思われる。そして、まさにそれと対局にあるのが、戦後民主主義の人間群像なのだろう。

常朝自身は、また、それなりに風流人であったようである。彼の言葉の節々にも、詩人的な風格が香ってくる。彼自身は仏道修行や風雅の道は隠居や出家者の従事することとして、無学文盲を称して、奉公一篇に精を出したが、詩人としての気質に不足はなかった。「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候」というのもそうである。彼自身がきわめて聡明であったことはその発言からもわかるが、また、なかなか美男子であったようだ。しかし、器量がよく、利発者であっても、それが表に出るようでは人が受け取らぬ事をよく知っていた。それで毎日、常朝は鏡に自分の顔を映して自分の器量を押さえたのである。 

                    
江戸と今日の平成の御世では大きく異なるのは言うまでもないが、それでも本質的に共通する部分もある。そこに、『葉隠』が今日にも普遍的に通用する真理を語っている一面も少なくない。たとえば彼は「武篇は気違ひにならねばされぬ者也」と言う。

現代の私たちが、ふつうに暮らしていても、特に男子には日常的にその誇りを試される場合が多い。その誇りを守る必要があれば、いつでも狂い死にせよ、と常朝は教えるのである。

だから、その配偶者は、いつ何時でも彼女の夫が街の路頭で狂い死にすることがあったとしても、その死には何らかの事情があることを思う必要がある。人生の伴侶として、その覚悟を求められるだろう。昔の武士の妻たちは皆そのことは心得ていたはずである。

また、常朝は次のような言葉も残している。「人間一生誠に僅かの事也。好ひた事をして暮らすべき也。夢の間の世の中にすかぬ事計りして、苦を見て暮らすは愚か成る事也。此の事はわろく聞きて害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手也。」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セザンヌのりんご 

2007年02月20日 | 芸術・文化
 

セザンヌのりんご        拡大図

人間はなぜ絵を描くのか。絵や景色などは、ただ楽しめばよいものを、こうした不粋な問いでしらけさせてしまうのも、哲学愛好者の悪い癖なのかもしれない。

それにしても、なぜ人間は絵を描くのだろう。いや、単に絵だけではなく、音楽を作曲し、詩や小説などの文学を創作する。芸術を創作し、楽しむ。猿などの動物たちがそんなことを楽しんでいるとは考えられないから、それは人間だけの特性であり、特権であると言える。

人間はなぜ芸術にかかわるのか。それは根源的な問いでもある。この問いには、さまざまな答えが用意されるだろう。そこに、回答者の数だけの人間観が現われる。あなたならどのように答えられるだろう。

それは人間が神の子であるからだ。あるいは少なくとも、人間が精神的に神に似せられて造られたからだ。神が世界を創造したように、人間も神に似て、神のように世界のなかに自分の創造物を刻もうとする。それが芸術行為にほかならない。神が創造の御技を楽しむように、人間も芸術作品の製作と鑑賞を楽しむ。神も人間も精神的な存在だからである。そこに祈りも会話も成り立つ。

人間が人間として世界に登場して以来、歴史的にも芸術においてさまざまの創作に従事してきた。その中でもとくに近代絵画の扉を開いた画家としてセザンヌは知られている。なぜ、セザンヌの芸術が近代のとば口に立つのか。それは画家セザンヌの精神がもっとも近代人のそれだったからである。

近代人の精神とはどのようなものか。それは二人の人物に、ルターとデカルトの精神にそれを見ることができる。ルターは信仰における個人の自立を果たした人間である。そしてデカルトは、思考に存在の根拠を見出した人間である。彼らはそのような精神をもって神に、世界に、そして自然に絶対的に対峙した。(ここではその歴史的な由来は問いません。)

セザンヌもまた近代人として、自然を光と色彩の感覚で捉えようとした印象派の画家たちの跡を受けて、美術の世界に登場した。しかし、セザンヌは世界を単に感覚で捉えるだけでは満足できなかった。もちろんセザンヌは画家としてなによりも視覚の人である。モネたちの印象派のあとを受けて、光と色彩の価値は十分に知り尽くしていた。しかし、セザンヌが印象派に感じた不満は何か。印象派に欠けていたのは何か。それは堅固な構想力である。

印象派は世界を自然を光と色彩に分析しただけである。そして、外からの自然の美を、自分たちの感覚にただ感受するままにキャンバスに映したに過ぎない。それではまだ自然の真実を捉えきったことにはならない。光と色彩にあふれた自然の奥行きにはさらに何があるか。それは何をもって構成されているのか。それをセザンヌは追及した。そして、そこで彼が発見したのは、色彩の光学的な原理と自然の空間が球と円筒と円錐からなるという単純な原理の発見だった。

セザンヌは、絵画の世界ではじめて立体を、三次元を、空間を発見した画家であった。もちろん、ダビンチもレンブラントもかねて対象を物体を物体として描いてはいたが、対象を三次元の空間として分析してとらえたことはなかった。そこにセザンヌの近代人として知性が、その精神が明確に見て取れる。

しかし、セザンヌは単に分析に終始するのではなく、それを自我の意識において再構成しなおし、それを第二の自然として、みずからの自我の生産物として、自然から独立したセザンヌの独自の世界として、それを自然のなかに打ち立てるのである。それはあたかも近代世界で科学的な工業製品を芸術の世界で実現するようなものである。

セザンヌの絵画の世界では、一度は分析され分解された色彩と空間が、セザンヌが理想とする色彩と立体によってさらにふたたび再構成されて世界に置かれる。それは自然から感受した美を、印象派のように単に写し取るだけではなく、セザンヌみずからの自我によって分析され構想されて、人間の精神によって新たに創造された美として、より深い真実の美として主張されているのである。

   セザンヌの絵画は次のサイトでも楽しめます。

   Cezanne's Astonishing Apples

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの

2006年06月21日 | 芸術・文化
 

 

今もワールドカップは順調に進行しているようだ。だが、日本は残念ながら対オーストラリア戦で惨めな敗北を味わった。特に試合終了間際に、なし崩しに得点されたのを見ても、日本サッカーがまだ多くの問題を抱えていることを示している。そして、アルゼンチンやスペインやブラジルなどの世界的な強豪チームの試合を見るにつけても、多くの点で日本チームが、まだ国際的な水準にすら立ちえていないことが明らかになってきている。

 

将来、民主主義が人類の支配的な国家形態となり、剣を鋤に打ち代えて、国家と国家の間の戦争の止む時が来ないとも限らない。そんな時には、戦争に代わって、こうしたスポーツ大会を戦場にして、国家や民族が威信をかけて戦うようになることだろう。ワールドカップ大会もその一つになることは間違いない。

 

日本のJリーグが生まれてからも、すでに十余年が経過しているが、ブラジルのロナウジージョのような世界的にも数本の指に入るような選手はまだ日本には生まれていないようである。しかし、これまでのワールドカップに参戦することすらおぼつかなかった一昔に比べれば、世界大会に常連になりつつあるのはそれなりに選手たちの実力が向上してきているからだろう。


経済の領域では、日本は最近はアジアの隣国、中国や韓国の追い上げに、アジアでも多少影が薄くなりつつあるとはいえ、国際的にはG8国の一国に収まるなど、相応の地位を築いてきたといえる。しかし、民族や国家の評価というのは、単に経済の分野での小さな成功のみで決まるのではなく、サッカーのようなスポーツ、芸術、宗教、学問、科学、道徳などの総合的な文化の水準によって、その価値が決まるというのは、個人の場合と同じではないだろうか。サッカーのワールドカップ大会などでは、サッカーのイレブンたちが代表して、文字通り世界中の人々の眼の前に、国家や民族の具体的な現象をさらすことになる。


先の対オーストラリア戦における日本チームの敗北からも、多くの問題や事実が読み取れると思う。このサーカー戦を観戦して、感じたこと考えたことを書いてみたいと思った。


特にサッカーの試合のようなものには、時の利、地の利など試合の勢いというものがあるから、その時々の試合の勝敗の結果は必ずしも実力と一致しない。しかし、もちろん、実力というのは、客観的にきっちりと評価出来るものである。試合の回数が多くなればなるほど、その実力の差は、はっきりと客観的に現れてくるだろう。


サッカーの試合も国家間の総力戦も、いずれも戦争という本質においては変わりはない。おりしも、アメリカチームが「ワールドカップで戦争に来た」と発言したとかで、イタリア人がアメリカチームに反発しているらしいが、子供じみた態度だと思う。ワールドカップをアメリカチームのように一つの戦争として捉えること自体悪いことではないし、また、そうした認識をもつことに意義もある。むしろ国家意識の薄く弱い日本国民を代表する日本チームに、どれだけ国家の威信を賭けているのだという自覚があるのか、それが問題にされてもよいと思う。


それはとにかく、サッカーも勝負を賭した一つの戦いである以上、そこには、戦争やその他の勝負事に共通する論理がある。そこには、戦術と戦略の総合的な実現の場として、試合が存在している。それは、柔道や剣道などの個人の格闘技などとも、論理的な構造は同じである。


ただ、サッカーのような集団戦の場合は、勝敗に決定的な要素としては二つある。一つは、チームを構成する選手一人一人の資質と能力、もう一つ、チーム全体としての組織力、この二つである。その二者は有機的な相互関係にある。

つまり、あらゆる有機体がそうであるように、部分と全体がどのようにかみ合い、調和しあって一つのより高い戦力を構成するかが課題である。そのためには選手一人一人の戦闘能力を高めるとともに、それが、チーム全体の組織力に生かされなければならない。

 

対オーストラリア戦の敗北では、選手の個人としての能力が十分に高められていなかったのみならず、チーム全体としても組織的な戦術や戦略も高められていなかったように思う。というよりも、チームとしての戦術や戦略といった確固たるものが日本チームには見られなかった。場当たり的な対応に終始していたように思う。その弱点が出たと思う。これでは日本チームは、武器を持たないで戦争するようなもので、到底勝てない。

 

チームとしての戦術や戦略が、一つの論理として選手一人一人に自覚され、かつ、様々な事態や戦況に対応できるように、選手一人一人の身体に記憶されるまでトレーニングされていなければならないが、そのためには、まず、一つの組織として戦争を戦うには、どのような武器が必要で、その武器をどのように駆使しなければならないかという問題意識が選手のみならず、監督やコーチに必要である。

しかし、統一した戦術や戦略を選手たちが共有するまでトレーニングされているようには思えなかった。パス送りによる正面突破戦術や、サイドロングパスによる、サイドからの攻撃など、サッカーとしての戦術の基本を十分に駆使ししえていると感じられたのは、オーストラリアチームの方だった。また、グランドの後方に布陣したために攻め込まれ、受身となって「攻撃は最大の防御なり」ということわざの真理を日本チームは実現できているようには思えなかった。先の試合を見る限り、日本18位、オーストラリア42位という、FIFAの評価は、明らかに正当な評価ではないように思われる。


企業や国家間の競争や戦争と同じく、サッカー戦においても、最終的に勝敗の帰趨を決めるのは、選手一人一人の資質と能力と、それを、指導し指揮する監督、コーチの資質と能力である。


ジーコ監督は、個人的な選手能力としては、まぎれもなく世界一級であるだろうが、それはジーコ監督自身が自らの個人的な資質と能力と努力によって形成し、獲得してきたものである。しかし、ジーコ監督は、その能力を十分に論理化して、それを改めて選手たちに、戦いのための武器として、日本選手たちに共有化させていることに成功しているとは思えない。むしろ、監督やコーチ自身に本当に必要なものは、きわめて高度な論理的な能力なのである。


さらに一般的に、日本の文化の特徴としても、物事を論理化して自覚する傾向は弱い。その必要についての自覚もなく、その問題意識も弱く、その能力も低い。サッカーというスポーツにおいても、その他の生活現場と同様に相変わらず、精神主義的根性論が強いのではないだろうか。

 

この傾向は、先般ベストセラーになった『国家の品格』の著者、藤原正彦氏らにも典型的に見られる。国家間の戦争にしてもサッカーの試合にしても、その勝敗を最終的に決するのは、個人や組織や民族や国家の持っている「物事を論理化して把握する能力」、理論的な能力だと思う。これは科学する能力である。しかし、この論理能力の決定的で深刻な重要性について、藤原正彦教授をはじめとして、ほとんど自覚がないようである。今日の学校教育の現場でもそうである。

 

理論のない本能的で盲目的なトレーニング。つまり、論理の分析のない、非科学的なトレーニングや戦術では、本当の意味では強くなれない。究極的には、「情の民族」は「理の民族」には勝てない。日本人の民族としての弱点は、そのまま、サッカーにおける日本チームの弱点ではないだろうか。

だから、本当は「論理軽視の文化」では絶対に駄目で、民族の骨の髄まで、論理偏重ぐらいにまでに、それを我が民族の体質としてゆく必要がある。それなのに、藤原氏のように、しかも数学者でありながら、日本の過剰な「美的情緒感受性」文化を、民族の弱点としてさえ自覚する問題意識がほとんどない。それが現状ではないだろうか。この弱点を本質的に克服することなくして、日本サッカーは永遠に欧米のチームには勝てないのではないかと危惧するのは杞憂だろうか。


日本サッカーチームが、真の意味で強くなるために必要なことは何か。そのためには、たとえば、世界的な半導体の研究者といわれる、元東北大学学長の西沢潤一氏ような、できれば工学系や自然科学系の優れた学者を召集して、サッカーをあらゆる側面から研究させるのである。


もちろん、単にサッカーの勝負の構造という観点からのみならず、その国民文化に与える影響、健康や教育的効果から、サッカーの試合の勝敗の論理の解明、そして、個々の選手たちのトレーニング法とそのためのツールの開発にいたるまでを、サッカー協会の中枢に、文化を含めた総合的なサッカー研究学校を設立して研究させるのである。そして、その研究の成果を、全国に散らばるクラブチームの拠点を通じて、全国に青少年から浸透させてゆくのである。優れたコーチ陣の自覚的な育成も重要である。W杯にようやく再登場したオーストラリアチームもそうして強くなったはずである。


その能力訓練の目的と核心は、選手一人一人が青少年の頃から始める「論理的な能力」、「理論的能力」の開発と向上である。そのために選手たちに、研究論文を実践的な練習と平行して書かせてゆくぐらいのことも始めるべきだ。それは、サッカーを入り口とする現代日本の教育と文化の革命にならなければならない。そうして、まず身体能力以前に「頭」を鍛えなければ、本当には強くはなれない。

日本チームの対オーストラリア戦の敗北を観戦して思ったことだった。

2006年06月17日 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の哲学史(1)──ルソー(自由について)

2005年09月27日 | 芸術・文化

 

私の哲学史(1)──ルソー(自由について)

  

私がルソーを読むようになったのは、いわゆる自我の目覚めのとき、中学生から高校生に至るときである。ルソーには社会思想家、教育思想 家として、『社会契約論』や『エミール』などの作品がある。だが、当時の私には、そのような著作は十分に理解する力はなかったし、ルソーにそのような作品 があることも知らなかった。私が出会いもっぱら読んだのは『告白録』である。一種の小説や伝記のように、青少年にも読みやすかったからだと思う。だから、 私のルソーの理解は、文学的なものだった。

ルソーはスイスのジュネーブに時計職人の子として生まれ、フランスに渡り、そこで初恋の人であるヴァラン男爵夫人に庇護されな がら独学で学問の素養を蓄えた。そして「文明は人間性を向上させたかどうか」というアカデミーから提出されたテーマの懸賞論文に『学問芸術論』で応募して 入選し、それを背景に『人間不平等起源論』を書いた。そこから、ディドロやダランベールといった学者との交流が生まれ、思想家としての生涯が始まる。下層 階級の子供として生まれ育ったルソーだったが、運命の経緯から上流階級の世界で生活することになり、そこで疎外と階級矛盾を体験する。それは、ちょうどル ソーの死後、わずか11年にして起きたフランス革命という歴史的な事件の社会的な前兆を反映している。

 



私が高校生のころは、1960年代の後半にあたり、日本がいわゆる高度経済成長期のピークを迎えつつあるころだった。東京オリンピック が開催され、東海道新幹線も走るようになった。新幹線のいわゆる新幹線ブルーとアイボリーのツートンカラーの優雅な車体は、その頃の私たち中高生の目にも 新鮮だった。阪急京都線の電車の車窓から眺める外の景色も日々刻々に変化し、見る見るうちに田畑は埋め立てられ、新興住宅地に変わっていった。しかし、そ こには統一ある都市政策や都市計画などの片鱗も見られず、アジア的な無秩序で乱雑な郊外の風景が現れた。

お隣の中国では毛沢東が紅衛兵を使って文化大革命をはじめた。冷戦の構造はいささかの揺るぎも見られなかった。アメリカはベト ナムで北爆を開始した。ベトナム戦争の泥沼化はまだ始まっていなかった。街にはビートルズの音楽があふれ、彼らが来日したときには、大勢の女性ファンが羽 田空港に押し寄せた。

ルソーの『告白録』では年上の女性であるヴァラン男爵夫人に愛される場面などに惹かれた。学校では中学高校とも男女共学だった が、徐々に生まれつつあった異性に対する関心は同級生にではなく、宝塚歌劇の再演を文化祭で演じた上級の女子生徒や、また、通学の電車の中で時折出会う美 しい女性に惹かれた。近所に住んでいるきれいな既婚婦人が家の前を通り過ぎるのを窓から眺めたりもしていた。まだ女性に幻滅も失望も持たなかった時代であ る。

上流階級との生活の中で、やがてヴァラン夫人の寵愛も失い、彼自身の出身階級を自覚させられたルソーは、次第に民衆の階級に自 己のアイデンティティーを見い出すようになる。ルソーは下着や服装なども、豪奢な貴族階級のものから、質素で素朴な庶民のものに着替えはじめる。当時の隣 国の中国でも、周恩来や毛沢東たちの指導者たちは、人民服をまとい、民衆といっしょに貨車を引いたりしていた。江青や王洪文たちが毛沢東の支持を受けて権勢 を振るっていた。当時の朝日新聞やいわゆる進歩的な知識人は、それらを理想社会実現の試みとして評価する者も少なくなかった。

プロレタリア階級の独裁を目指していた共産主義革命は、フランス革命にひとつの模範を見ていた。そして、フランス革命はルソー の『社会契約論』などに現れた思想の影響を受けている。ルソーはそこで「全体の意思だけが国民全員の幸福のために国家権力を行使できる」という思想を明ら かにした。ヘーゲルはこの「全体の意思」を単なる多数意思ではなく、概念として理解しなかったことがルソーの限界であるといっている。

いずれにせよ、ルソーは「全体の意思」が「共同体の意思」となり、それが国民の個々の意思と一致しない限り自由はないことを明 らかにして、民主主義が国民の自由と不可分であることを明らかにしたのである。こうしたルソーの民主主義思想は、日本国民にどれだけ自覚されているか否か はとにかく、国民主権の思想となって現代の日本国憲法の原理にもなって流れている。民主主義とは、国民全体の意思が、市民共同体や国家の意思となることで ある。ルソーの思想に民主主義の淵源を見ることができる。

しかし、ルソーは英国流の代議制民主主義の限界にも気づいていた。国民は政治家を選挙することによって、代議士に自分たちの意 思を代弁させていると一見自負している。しかし、それは一時的なものである。やがて、政治家代議士は、国民の利害から離反し、さらには特権階級化して対立 するまでに至る。

日本の場合には、国民によって選挙された政治家が、職業的行政家である官僚を、支配することも管理することもできないでいる。 そうして彼らは選挙されずに行政権を手にしている。それは、政治家のみならず、官僚の(国民主権を標榜する日本国には「官僚」は存在せず「公務員」が存在 するのみであるはずであるが。)特権化をも許すことになっている。「統治される国民が、同時に統治する者でもある」という、治者と被治者の一致にこそ、国 民の自由があるとすれば、日本国民はまだ真の自由を手に入れていないといえる。不幸な国民は、自分たちの政治家や「官僚」を自由に入れ替える能力をまだ完 全には手にしてはいない。

それにしても、ルソー流の「自由」は、まだ、自由の真の概念を尽くすものではない。その自由と民主主義の思想には、嫉妬や怨恨 からの自由はない。それは基本的に否定の自由であって、肯定の自由ではない。だからこそ、フランス革命も、中国文化革命も、後期においてはその自由は、剥 き出しの凶暴性を発揮することになった。ここにルソー流の民主主義の限界を現実に見ることができる。

そのもっとも象徴的な事件が、連合赤軍などに属する若者たちによって引き起こされた、浅間山荘事件や日航機ハイジャック事件などの一連の事件だった。それらは当時の学生運動の論理的な帰結としておきたものである。ルソーの思想と深いところでつながっている。

晩年のルソーは、植物採集などに慰めを見出しながら『告白録』を完成させ、また、『孤独な散歩者の夢想』を書いて、後年のロマ ン主義文学に影響を残した。また、その自由と民主主義の関する思想はカントなどにも影響を与えている。わが国においては、植木枝盛などの自由民権論者に、 また中江兆民などのフランス系学者を通じて、幸徳秋水や大杉栄などの社会主義者、無政府主義者たちに影響を及ぼしている。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーラーの絵

2005年09月20日 | 芸術・文化

スーラーは後期印象派の画家として知られている。

印象派がなによりも捉えようとしたのは光である。丘の上で風に吹かれながら日傘をさす貴婦人に注がれる陽光のきらめく自由な美しさ、水平線の彼方から霧を透かして朝日が上るとき、海原に揺らめき反映する赤い光の美しさを画布に捉えようとした。ルノアールやモネらの印象派の画家たちは型にはまりつつあった古典派の画家たちから離れて、色彩にあふれた自由な自然を再発見し、光の変転極まりない動きと色彩を瞬間において捉えようとする。


新興のブルジョアが機械と動力を用いた工業的生産によって豊かな富と作りだし、それによって自由と快楽に満ちた個人主義の都市生活を享受しつつあるとき、伝統的な貴族社会が崩壊して、かっての宮廷画家たちの長い徒弟修業の後に習得される古典的な技巧によって確立された様式美は、時代精神には合致しなくなった。


資本が産業や工業の世界で作り出す都市での豊かな富と自由な生活は、モネやマネ、ドガたちの絵画にも見られるように、古典的な技巧から絵画を解放し、色彩という人間の感覚と不可分な光を捉えることによって、精神は自由な色彩の表現へと、さらに、具象から抽象へと進もうとする。やがてそれらはカンデンスキーらの純粋抽象へ橋かけるものである。

絵画は線と面と色彩という二次元の世界で思想や精神を表現するものである。上の「アニエールの水浴」と呼ばれているスーラの絵は、セザンヌの水浴の裸婦たちのような、三次元の立体を色彩と線と面によって抽象化を力強く進める芸術家の対象把握と自然の理念化とは少し異なり、ロマン的な感情移入を色濃く残している。

キャンバス画面は、遠景の橋によって、上下1対2に分割構成され、さらに、左上から右下へと大きく伸びる対角線によって斜めに二分割されることによって、静かな画面に動きを呼んでいる。私たちの視線は導かれるようにして、画面の中央に座っている少年へと注がれる。

川辺の芝草の上に座し、あるいは寝そべっている男たちの視線はみなそれぞれ対岸へと向かっている。ただ、中央の少年の右脇にあって、背をこちらに向けて、胸まで浸かっている金髪の少年だけ、他の人物たちとは視線の動きが逆になっている。

画面右下で、川の瀬に半身を浸からせている小年の口に手を当てるしぐさは、水平と垂直の構図から漂う静寂の中に、何らかの音の響きを感じさせる。

画布の中の男たちのそれぞれの造形は互いに自由で独立的で共通性がなく、都会生活の中の孤独と不安を感じさせる。遠く橋の向こうにたちこめる煙りは、工場の煙突から吐き出るものだろう。スーラの精神的内面はすでに現代人のものを予感している。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野バラと撫子

2005年07月28日 | 芸術・文化




野バラと撫子

ゲーテの有名な詩で、日本でも広く知られている『野バラ』という詩がある。原文と訳文は次のようなものである。シューベルトやウェルナーの歌曲としても知られている。

--------------------------------------------------------------------
  Heidenroslein      野薔薇
Rose blossom on the heath

Sah ein Knab’ ein Roslein stehn,  少年は小さな薔薇の      
     
[za ain  kna p ain ’ro z・lain te n]       咲いているのを見つけた。

Saw a boy a little-rose standing,

Roslein auf der Heiden,                 荒れ野に咲いていた小さな薔薇。
 
[’ro z・lain  auf  de ’hai・d n]
     

little-rose on the heath,

War so jung und morgenschon,  朝露のようにみずみずしく咲き初めたばかり。
                                              
[va zo jnt’  m r・ n・, o n]   
was so young and morning-beautiful,

Lief er schnell, es nah zu sehn, 少年は急いで近くに走りより、

[li f e nl s na tsu zen]       見つめた。
 
Ran he fast it near to stand,
 
Sah’s mit vielen Freuden.  とってもうれしそうに見つめた。
 
[za s mt ’fi ・l n ’fr・d n]
  
Saw-it with much joy.

 
Roslein, Roslein, Roslein rot,  小さな薔薇、小さな薔薇、              
[’ro z・lain ’ro z・lain ’ro z・lain ro t]  小さな赤い薔薇。
 
Little-rose, little-rose, little-rose red,    

Roslein auf der Heiden.            荒れ野に咲く小さな薔薇。
[’ro  z・lain auf de ’hai・d n]

little-rose on the heath.

Knabe sprach: Ich breche dich,   少年は言った。        
     
[’kna ・b pra x ’br・d]                        君を摘んでしまおう。
 
Boy said: I will-pick you, 
 
Roslein auf der Heiden!            荒れ野に咲いている小さな薔薇さん。  
      
[’ro z・lain auf de ’hai・d n]
  
little-rose on the heath!
 
Roslein sprach: Ich steche dich,    小さな薔薇は言った。

[’ro z・lain pra x ’t・d]                  私はあなたを刺します。
 
Little-rose said: I  will-stick you,

Das du ewig denkst an mich,        いつまでも私を忘れないように。
 
[das du ’e ・v dkst an m]
 that 
you forever will-think of me,

 Und ich will’s nicht leiden.        そして、私はあなたの            
    [ ntvls nt ’lai・d n]               思うようにはなりません。          
 
and I will-from-it not suffer.  

(I won’t put up with it.)
 
Roslein, Roslein, Roslein rot,          小さな薔薇、小さな薔薇、                        
[’ro z・lain ’ro z・lain ’ro z・lain ro t]    小さな赤い薔薇。
 
Little-rose, little-rose, little-rose red,  

 

Roslein auf der Heiden.      荒れ野に咲く小さな薔薇。

 [’ro z・lain auf de ’hai・d n]
 
little-rose on the heath.

Und der wilde Knabe brach   そして、その野育ちの少年は

[ nt  de ’vl・d ’kna ・b brax]   摘み取った。
  
And the wild boy picked

‘s Roslein auf der Heiden;         荒れ野に咲いていた小さな薔薇を。

[’s ro z・lain auf de ’hai・d n]   
 
the  little-rose on the heath;

 
Roslein wehrte sich und stach,  小さな薔薇は争い、

[’ro z・lain ’ve ・t z nt tax]           そして刺したが

little-rose defended itself and stuck,
 
Half ihm doch kein Weh und Ach,    どんな嘆きも叫びも助けにならず、               
[ halfimd x kain ve nt ax]                       少年は摘み取った。
 
helped it though no woe and ah,
 
Mußt  es  eben  leiden.         野薔薇はただ苦しみ
 
[msts’e ・b n’lai・d n]
                    忍ばねばならなかった。
must it just  endure.

Röslein,  Röslein,  Röslein rot,     小さな薔薇、小さな薔薇、                    
[’ro z・lain’ro z・lain’ro z・lainro t]           小さな赤い薔薇。

Little-rose,little-rose, little-rosered,

Roslein auf der Heiden.       荒れ野に咲く小さな薔薇。

[’ro z・lain aufde’hai・d n]  

little-rose on the heath.
 
            Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832)
 
この詩は、後年の『ファウスト』のモチーフにもなった。少年をゲーテ、ファウストに、そして、野薔薇をグレートヘンに置き換えれば、若き日に女性を不幸に陥れたことが、ゲーテにとって深い精神的な傷として生涯残ったことが容易に見て取れる。これが、ゲーテの実体験に基づくのか否かは分からない。文学にとってそれが作者の体験を背景にしているかどうかは本質的なことではない。
 
しかし、いずれにせよ男女関係が、男性にとっても切実な倫理的問題であることは、ゲーテの例をみるまでもなく、古今東西を問わず普遍的である。日本の『源氏物語』も、主人公光源氏の若き日の過失を宿命として生涯背負って行く物語としても読める。ただ、同じ倫理的な、罪を問題にしても、仏教とキリスト教では、若干その意識内容に相違があるし、民族によって、また、時代によって倫理観にも相異はある。
 
日本にも、このゲーテと同じ苦悩を歌った和歌がいくつかある。平安時代の貴族たちは、女性との出会いを求めて徘徊することも多かった。その際に、築地や垣の間から美しい姫君と垣間見る機会を望み、そこから恋の発展することを期待していた。源氏物語では、主人公の光源氏が、侍者惟光と下町あたりをこっそりしのび歩いているとき、桧垣の間に見出したのが夕顔だった。



草径集に収められている、大隈言道の「なでしこ」と題される次ような歌もある。しかし、あたかも平安貴族の恋歌を思わせるこの歌だけからは、大隈言道の心情の内容を読み取るには限界がある。この歌で歌われている、なでしこの花が、言道の垣間見歩きで出会った女性を象徴し、その花を見出して摘み取り手折ったことに、この女性と何らかの関係が芽生えたことを暗示していると読めないこともない。作者がそれを寓意していたと考えることもできる。

だが、その男女関係について、言道がどのような感慨を持っていたのか、この歌からだけでは読み取れない。後悔か、懺悔か、自慢か、虚栄か。あるいは、この歌に象徴や寓意を読み取るべきではなく、ただ、淡々と事実をのみを叙述した歌としても、この和歌の価値は損なわれない。作者が何らかの寓意を意図していたかどうかは証明はできない。いずれにせよ、この歌のモチーフも、可憐な花を摘み取ることの感慨にある。このモチーフから何をどう連想するかは鑑賞者の自由であるだろう。
              
     放つ矢に、ゆくへたずぬる草むらに、見いでて折れる、なでしこの花
 
ただ、西行にも次のような和歌があることを考えると、作者にそのような象徴を寓意していたと想像してもそれほどに的外れではないと思う。

234   かき分けて、折らば露こそ、こぼれけれ、浅茅にまじる、なでしこの花
 
茅に混ざって咲いているなでしこの花を見つけ、草かき分けて手折ると花から露が零れ落ちました。
これは恋の歌である。恋に付きものの涙を歌っている。

235   露おもみ、園のなでしこ、いかならん、あらく見えつる、夕立の空

激しく降った夕立の空の下で、どうなっていることでしょうか。庭のなでしこの花も、露の重みにもしっかり耐えて咲いているでしょうか、心配です。

西行はなでしこの花に、都に残してきた妻子を連想し気にかけている。ここでも、西行の心は痛んでいて、癒されていない。

ドイツではゲーテが野ばらに少女を託し、わが国では歌人たちが撫子に妻女の面影を託し、それぞれの時代を生きた男たちが、自身の行為によってきたるその思いを歌に残している。

 
※202405026追記
Heidenröslein [German folk song][+English translation]
 
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渚の院の七夕

2005年07月07日 | 芸術・文化

今日は七夕の日。子供の頃、笹飾りを作って、近所の人たちと淀川にまで流しに行った時の記憶が懐かしくよみがえる。子供の心の世界は分裂を知らず、この世で天国を生きている。思春期を過ぎて、心は二つに分裂し、人は悪を知りエデンの園から追放される。
 

残念ながら、夕方から雷をともなったかなり激しい雨。六時ごろには止んだが、天の川は眺められそうにもない。七夕という言葉から、伊勢物語の中で業平が、昔、交野で詠んだ歌を思い出した。今の枚方市に「天の河」という地名があるらしい。つい眼と鼻の先に暮らしていながら全く疎い。


狩り暮らし、たなばたつめに、宿からむ、天の河原に、我は来にけり


八十二段の渚の院の桜に因む七夕の歌。

渚の院とは、水無瀬にあった惟喬の親王の離宮で、惟喬の親王はよくここに出掛けて狩をされたことが伊勢物語に記されている。皇子は業平をつねに伴われた。今も阪急京都線に水無瀬駅があり、我が家からも近い。

曇り空の今宵、部屋の中で、業平のこの「たなばたの歌」についての小論を書いて、七夕の記憶にする。

水無瀬に惟喬の親王の離宮があった関係で毎年、桜の花の盛りの頃には皇子は御幸せられた。その際にはいつも右の馬の頭をお連れになられた。ある春の出来事でした。交野の原での狩はいいかげんにし、お酒を飲み交わしお楽しみになった。そのとき、離宮は渚の院と呼ばれていましたが、そこに咲いていた桜があまりに美しかったので、その桜の樹の許にすわって、桜の枝を折ってかんざしに刺して、身分の高い者も低い者もすべて和歌を詠んだ。 そのとき馬の頭は、この世の中に桜という花が、全く無かったとすれば、春も物思いにふけることもなく、どんなにのどかだろうと思って、

 世の中に、たえて桜のなかりせば、春の心は、のどけからまし

 と、こんな歌を詠んだ。この右の馬の頭がどんな名前だったのか、もう遠い昔のことになってしまったので忘れてしまいました。

そうすると、お側でお仕えしていた他のもう一人が、次のような歌を詠んで反論しました。

散ればこそ、いとど桜は、めでたけれ、うき世になにか、久しかるべき

 桜の花は、はかなく散るからこそ、すばらしいのですよ。このつらく悲しい世の中に、桜と同じように散りもしないで、いつまでも永らえるものが一体あるとでも言うのですか。

 こうして歌を詠んだりして、やがて、みんなは桜の樹の下から離れ、立って帰って行きます。すっかり日も暮れてしまったとき、御神酒を下げたお供の人が野原から出てきました。そして、このお酒を飲んでしまおうということになり、よい場所を探して行くと、天の河というところに来ました。業平が親王に御酒を差し上げると、皇子は「交野を狩りしてきて天の河のほとりに来てしまった」という題で、歌を詠んでから杯を注ぎなさいと言われた。そこで、業平が詠んだ歌、

狩り暮らし、たなばたつめに、宿からむ、天の河原に、我は来にけり

一日中狩り暮らしていて、とうとう天の河原のほとりにまで来てしまいました。今宵はこの近くにおられるはずの織姫さまに宿を借りることにしよう

 親王はこの歌を繰り返し繰り返し朗誦されましたが、歌がすばらしくて、返歌なさることができませんでした。それで、いっしょにお供してきた紀の有常という人が、この人は業平の舅にあたる人でしたが、代わって次のような歌を詠みました。

 一年に、ひとたび来ます、君待てば、宿貸す人も、あらじとぞ思ふ

織姫さまは、一年にただ一度だけ訪れる愛しい牽牛さまを待っていますから、 今宵、宿を貸してくれる人はいないと思いますよ

 こんな歌を詠みながら業平に反論します。こうして皆は渚の院にお帰りになった。

これらは、過ぎ去った昔の、惟喬親王と業平らのまだ若かった日々の楽しい思い出で話である。もちろん、伊勢物語の読者は、後年、惟喬親王の、雪深い小野の里に隠棲しなければならなかった運命を知っている。

そして、業平の時代からほぼ七〇年後に、まだ彼らの記憶も生なましいとき、土佐での勤めを終えて京に帰る途上にあった紀貫之が、渚の院の傍らを船で行き過ぎる時、惟喬の皇子と業平の故事を思い出して、

千代経たる、松にはあれど、いにしえの、声の寒さは、変わらざりけり

 千年という歳月を経た松ではあるけれども、その梢を吹き抜ける、松風の荒涼とした騒ぎは、今も昔も変わりません

 という歌を詠んで、時間と自然の非情の中に生きざるをえない人間と、悲運の生涯を生きた惟喬親王や業平たちを懐古すると供に、

  君恋ひて、世を経る宿の、梅の花、昔の香にぞ、猶匂ひける

かって主君のそばで美しく咲いていた梅の花は、その主人がいなくなってからも、長い歳月を経て朽ちつつある屋敷の庭にあっても昔と同じままに、今も猶あなたを慕って美しく咲き匂っていますよ

 という歌を詠んで、不如意に生きざるをえなかった惟喬親王の魂を鎮めようとした。

皇后高子や業平とはゆかりの深い大原野神社は、我が家とはつい眼と鼻の先にある。今度訪れる折があれば、伊勢物語の世界を思い出しながらゆっくり歩いてみたいと思っている。

 

 

 

 

さん

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊勢物語の杜若(かきつばた)

2005年06月24日 | 芸術・文化

 

 

梅雨の季節で、本来ならもっと雨が降ってもよいはずだが、かなり長いこと晴れ間が続いている。雨が降っても、すぐに止んでしまう。今年の夏は空梅雨かもしれない。

梅雨入りどきには、アヤメやカキツバタがきれいに咲く。カキツバタを見て、いつも思い出すのは、伊勢物語の第九段の東下りの中で、この物語の主人公である在原の業平が、八橋で見たとされるカキツバタである。

業平自身は平城天皇を祖父とし、父を阿保親王とする名家の出だった。しかし、祖父や父が「薬子の乱」に連座して失脚したこともあって、政治の中枢を歩むことは難しかった。彼の仕えた惟喬親王も、没落しつつあった貴族、紀名虎の娘清子を母とし、業平自身もこの紀の家と姻戚関係にあった。父、阿保親王の悲運の生涯と、当時興隆しつつあった藤原家に比例して時の権力の中枢からはずれざるをえなかった業平自身の宿命が、伊勢物語の背景にある。

伊勢物語には、業平が多くの女性を愛したことが記されている。その中でも、とくに業平の運命に大きな影響を及ぼしたのは、二条の后、高子との恋だった。この身分違いの恋が、京の都での生活を絶望的なものにし、業平に関東行きを決意させる。友人と連れ立つ旅の途上、業平が惑いながら行きついたところが、今の名古屋鉄道の三河八橋駅付近だという。

昔、そのあたりには沢があり、橋が八つ掛かっていた。その沢のほとりに、カキツバタがとても美しく咲いていた。それを見て、ある人が、カキツバタを句の上に据えて歌を読めと言い出した。そのとき業平が読んだ歌。

  

から衣、きつつなれにし、つましあれば、はるばるきぬる、たびをしぞ思ふ

 

 私には着馴れた衣のように慣れ親しんだ妻が都にいます。都を遠く離れて来てしまったこのつらい旅のことを思うと、妻がますますいとしくなります。

 
高校の古典の授業などで誰もが習うこの歌は、歴史に残る旅の名歌として、藤原定家は古今集にも選び、江戸期の尾形光琳はこの業平の故事を念頭に、八橋蒔絵硯箱を造っている。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする