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夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

橋下徹氏の思考水準――悟性的思考と理性的思考3

2013年05月29日 | 教育・文化

 

5月24日、アナポリスにある海軍兵学校で卒業式が行われ、841名の海軍少尉と206名の海兵隊少尉が誕生しました。伝統の帽投げ(Hat toss)の様子→ ow.ly/lrDPn お帽子には名前が書かれていて、みんなで拾って最終的に本人の手に戻るそうですよ。

shuzo atiさんがリツイート | 74 RT
 

政治家が二項対立の概念しか持ち合わせないのは問題だとおもいますが、それはさて置き、橋下氏はある部分では政府見解を述べ、別の部分はおかしな発言をしていますよ。 RT @kitayokitakita: …とある番組で百田尚樹さんが仰っていたんですが。「彼は白か黒か」しか無いんです。

shuzo atiさんがリツイート | 5 RT
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@onoderamasaru 甘いというか、これは、とある番組で百田尚樹さんが仰っていたんですが。「彼は白か黒か」しか無いんです。彼の思想だとかそういう所ではなく、そのスタンスで橋下市長を選ぶ人は多いと思います。

shuzo atiさんがリツイート | 1 RT
from web
 

橋下徹氏をはじめ二項対立の概念でしか思考できない政治家は多いと思います。※とある番組で百田尚樹さんが仰っていた んですが。「彼は白か黒か」しか無いんです。彼の思想だとかそういう所ではなく、そのスタンスで橋下市長を選ぶ人は多いと思います。」「政治家が二項対立 の概念しか持ち合わせない」

from web
 

「二項対立の概念でしか思考できない」ことを哲学では「悟性的思考」と言います。この思考方法の本質は、すべて活ける 生命を殺し破壊してしまうことです。 橋下徹氏や大衆革命家狂信的信者が「危険」であるのは、「物事を二項対立の概念でしか思考できない」こと「悟性的思考」しかできないからです。

from web
 

物事を「白か黒か」はっきりさせること、それを哲学では「悟性的な思考」といい、それ自体はとても大切な判断能力です が、この段階に止まっているだけでは、子供のように物事を一面しか見ることができず、より高い正しい「大人の判断」は出来ません。物事の両面、それぞれの 是非を見極めた上で、

from web
 

それぞれの肯定的な側面を活かす形で、より高いレベルで矛盾を解決する思考能力が必要です。それを哲学では「理性的思 考」と言います。国民大衆の生活と幸福に関わる政治家にはこの思考能力は絶対的に不可欠です。橋下徹氏には「白か黒かしか無い」とすれば、彼が政治家とし て不適格だということです。

 

 
 
 
 
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朝日新聞における文章修行

2012年09月27日 | 教育・文化

 

朝日新聞における文章修行

脳科学者の茂木健一郎氏が朝日新聞の文章批判をおこなっていることを、池田信夫氏のブログで 知りました。文章を書くうえで、「他山の石」とすべきかとも思い、記録しておきます。果たして朝日新聞の論考が本当に受験小論文の練習に参考になるので しょうか。論理的な文章、科学的な文章はどうあるべきかについて、さらに考えてゆきたいと思います。こうした記事が多くの人に読まれて、日本国民の国語 能力がより高まってゆくことを期待したいものです。

>><<

2012年9月27日(木)付  朝日新聞

http://www.asahi.com/paper/column.html

天声人語

 3年前の秋、自民党は落ち武者集団を見るようだった。政権を明け渡し、「自民党という名が国民に嫌われている」と党名を変える動きもあった。「和魂党」やら「自由新党」やら、まじめに考えていたらしい▼支援団体は離れ、陳情は減り、食い慣れぬ冷や飯のせいか無気力と自嘲さえ漂った。その斜陽から、新総裁が次期首相と目される党勢の復活である。「ある者の愚行は、他の者の財産である」と古人は言ったが、民主党の重ねる愚行(拙政)で、自民は財産(支持)を積み直した▼とはいえ総裁に安倍晋三元首相が返り咲いたのは、どこか「なつメロ」を聴く思いがする。セピアがかった旋律だ。当初は劣勢と見られたが、尖閣諸島や竹島から吹くナショナリズムの風に、うまく乗ったようである▼1回目の投票で2位だった候補が決選投票で逆転したのは、1956年の石橋湛山以来になる。その決選で敗れたのが安倍氏の祖父の岸信介だったのは因縁めく。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった年のことだ▼以降の自民党は、国民に潜在する現状維持意識に根を張って長期政権を保ってきた。人心を逸(そ)らさぬ程度に首相交代を繰り返してきたが、3年前に賞味期限が切れた▼思えば自民は、原発を推し進め、安全神話を作り上げ、尖閣や竹島では無為を続け、国の借金を膨らませてきた。景気よく民主党を罵倒するだけで済まないのは、よくお分かりだと思う。たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい。

>><<

茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート

第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」

http://togetter.com/li/380308


連続ツイート第728回をお届けします。文章は、その場で即興で書いています。本日は、今朝読んだある文章について。
kenichiromogi 2012/09/27 09:12:17

kenichiromogi
てせ(1)英語のessayは、日本語の「随筆」とは似て非なるものである。前者は、例えばEconomistの文章に見られるように、evidenceに基づくcritical thinkingの結晶であり、科学論文にもつながる。後者は感性に基づく主観の文章であって、曖昧さの本質がある。
kenichiromogi 2012/09/27 09:14:31

kenichiromogi
てせ(2)もちろん、日本語の「随筆」にも美質がないわけではない。枕草子や、徒然草、漱石の「思い出す事など」は「随筆」の傑作であって、生きることの中で私たちが感じる心の揺れ、動きをとらえる。私自身も、「生きて死ぬ私」や「脳と仮想」などの随筆を書いてきた。
kenichiromogi 2012/09/27 09:16:03

kenichiromogi
てせ(3)「随筆」の文体は、日本の一つの財産であるが、すべてのテーマを論じるのに適切ではない。例えば、政治的課題については、evidenceとcritical thinkingに基づく英語のessayの文体で論じるのがふさわしい。ところが、日本では「随筆」で政治を論じてきた。
kenichiromogi 2012/09/27 09:17:41

kenichiromogi
てせ(4)「随筆」の文体で政治を論じることの愚、悪影響、不幸を、今朝の天声人語(http://t.co/unbYa9Ox)を読んで改めて思う。安倍晋三さんが自民党総裁になられたことを論じているが、全体として意味不明。主観や曖昧さの羅列で、何を主張しているのか一向に伝わってこない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:19:18

kenichiromogi
てせ(5)思いついて朝刊紙面で添削してたら、紙面が真っ赤になった。まず、「党名を変える動き」から論じることが適切だとは思わぬ。「和魂党」や「自由新党」が検討されたというが、どれくらいsignificantな動きだったのか。ニュースバリューを検討するバランス感覚がない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:20:40

kenichiromogi
てせ(6)「斜陽」という言葉で下野を論じているが、ナンセンス。そもそも、健全な議会制民主主義の下では野党になるのは当たり前。必ずと言っていいほど、数年後には政権に返り咲く。実際、今の流れはそうなっている。「斜陽」という感性的、主観的表現は、政治プロセスの本質にかすってもいない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:22:17

kenichiromogi
てせ(7)さらに、天声人語は、安倍氏の再登場を「なつメロ」と表現する。小学生でも考えつくような、陳腐な表現だ。読者に提供されるべきは、再登場の背景分析だろう。さらに、「ナショナリズムの風に、うまく乗った」という表現は失礼だ。「うまく」という言葉に、筆者の対象蔑視と低俗さが表れる。
kenichiromogi 2012/09/27 09:24:16

kenichiromogi
てせ(8)その後の文章も、感性に流され支離滅裂。「人心を逸らさぬ程度に」は、政治的プロセスを論じる表現としては不適切である。あげくの果てが、結語の「たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい」。自分を何様だと思っているのか。何を安倍氏に期待しているのか、全く伝わってこない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:26:06

kenichiromogi
てせ(9)今朝の天声人語の筆者には、以上の失礼をお詫びするが、考えてみていただきたいのは、朝日新聞の一面に載っている以上、天声人語には、公共性があるということである。この文体とスタンスが、日本の政治を語る時の精神風土を作る。その事の罪を、よくよく考えていただきたい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:27:25

kenichiromogi
てせ(10)テレビの政治討論番組でも、使われる言語が(特に政治評論家と呼ばれる方々において)感性的、情緒的であることの責任の一端は、天声人語にあるのではないか。このようなスタイルで政治を論ずることの愚に、もうそろそろ朝日新聞、および天声人語の筆者は気づいてほしい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:28:37

kenichiromogi
てせ(11)もちろん、天声人語にも、良い回はある。「花鳥風月」や「社会事象」を論じた回である。そのような時には、文体と対象がはまる。天声人語は、もし今のまま継続するならば、政治を論じることをやめるか、あるいは政治を論じる時には硬質な文体で議論する、第二の創業を目指してはどうか。
kenichiromogi 2012/09/27 09:30:18

kenichiromogi
てせ(12)「脳トレ」で天声人語を書き写すという動きがあるようだが、特に政治を論じた回については、今のままではますます日本人の思考が情緒的かつ非論理的になるので、私は絶対反対である。再読、未読に耐えるような文章に、特に政治について書かれた天声人語はなっていない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:31:56

kenichiromogi
てせ(13)吉田兼好流の「随筆」ではなく、論理と証拠に基づく「essay」の伝統を、日本でも根付かせるしかない。新聞は、多くの読者が触れる公器として、日本の言論空間を前に進める社会的責務がある。新聞の顔である一面に、情緒的政治論を載せるのは、いい加減やめて欲しい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:33:47

kenichiromogi
てせ(14)最後に。橋下徹氏のツイッターでの文章は、時に論敵への烈しい言葉などがあり十分に伝わっていないかもしれぬが、日本語で政治的事象を論ずるスタイルの一つのイノベーション。冷静に読めば、論理的に緻密な構成になっていることがわかる。政治の季節は、ふさわしい言葉で語りたい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:35:34

kenichiromogi
以上、連続ツイート第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」でした。

>><<終わり



茂木氏は12回目で「味読」(精読?)とすべきところを「未読」と転換ミスしているようなので、老婆心までに。

 

 

 

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自由と人権

2012年09月22日 | 教育・文化

自由と人権

「自由」と「人権」のかねあいの問題である。個人の人権が侵害されてはならないのは言うまでもないが、そのために言論などの「自由」が冒され、また制限されてよいか、あるいは、「言論の自由はどこまで認められるか」という問題がある。

基 本的な考え方の前提としては、人間には「悪」をも犯す「権利」も保障されなければならないということである。なぜなら、ここにこそ「自由」の核心があり、 人間の尊厳も本質もここにあるからである。人間の自由は「善悪」を知ること、意識できることと、その二者のいずれを選択するか、その自由にあるからであ る。人間は動物とは異なり、環境や必然性に完全に制約されるのではなく、少なくとも意識においては、完全に自由な存在であるということである。

ここで問題にすべきは、一般にいわゆる「人権」論者や「社会主義者」「共産主義者」たちが、彼らの妄想する「理想主義」を実現するためと称して、人間から「悪」をも犯すことさえ、強圧的に禁じようとする傾向があることである。

「無菌状態」の社会、「聖人君子」ばかり「善人」ばかりの社会をどう考えるか。

先 に述べたような人間の本質から言って、実際には完全な「理想社会」はあり得ないのであるが、往々にして、「理想」を実現しようとして、かえって最悪の「現 実」を招くことも多い。社会構成の構成原理として、人間性悪説か人間性善説のいずれの立場に立つか、ということである。いずれの人間観に立つかによって、 構成原理は根本的に異なる。

とくにこの傾向は、プロレタリア独裁として、敵対するブルジョア階級の「搾取」の暴力的禁圧という現象に象徴的に現れている。かってのソ連邦などのいわゆる共産主義国家の実験によっても、その歴史的な帰結は、体験され証明されている。その浅薄な人間観と思想の現実がある。

「人 権」と「自由」という二律背反することがらをどのように克服するか。「人権」と「自由」の価値を比較考量する時、どちらに根本的価値を認めるかによって、 いわゆる人権法案などの制定問題にどのような立場を選択するか、が決まる。というよりも、自由こそが人間にとっての至高の人権であるから、「自由」は「人 権」に優先する。「自由」を制限する法案は、必要最小限にとどめておかなければならない。

このたび民主党や自民党の一部の議員たちによって提出制定されようとしている、いわゆる「人権救済法案」については、このような理由から賛成できない。

我 が国の人権状況については、現行法で「人権」は十分に守られうると考える。あらためて、「人権救済法案」などを法制化して、新たに行政組織をつくることは 政府機構の簡素化に逆行するし、官僚公務員や人権団体関係者らの「利権化」にもつながりかねない。行政の肥大化と硬直化を招くことになる。国民の人権は、 すでに現行法規によって十分に守ることができる。

民主党内閣は、人権救済法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙って閣議決定したそうである。民主党の情報隠蔽体質、陰謀体質は、自民党時代に輪をかけて悪質である。

 

 >><<

【主張】人権救済法案 強引な閣議決定おかしい

2012.9.20  産経新聞社説 http://goo.gl/RPsjm

 野田佳彦政権は、新たな人権侵害や言論統制を招きかねないとの批判が出ていた人権侵害救済機関「人権委員会」を法務省外局として設置する法案を閣議決定した。

 今回の閣議決定は不可解な部分が少なくない。藤村修官房長官は「政府として人権擁護の問題に積極的に取り組む姿勢を示す必要がある。次期国会提出を前提に、法案内容を確認する閣議決定だ」と強調した。

 だが、国会提出時には再度、閣議決定を経る必要がある。人権救済法成立に前のめりな党内グループに過度に配慮しただけではないのか。同法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙った節もあり、疑念がつきまとう。

 人権委員会は政府から独立した「三条委員会」で、公正取引委員会と同様の強大な権限を持つ。調査の結果、人権侵害と認められると告発や調停、仲裁などの措置が取られる。

 最大の問題は、人権侵害の定義が相変わらず曖昧なことだ。「特定の者」の「人権」を「侵害する行為」で憲法違反や違法行為を対象とするというが、 これでは何も定義していないに等しい。恣意(しい)的な解釈を許し、言論統制や萎縮、密告による新たな人権侵害を招きかねない。

 こうした法案への疑念や危惧、抵抗感は国民は無論、与党や閣内にも根強い。にもかかわらず、いま行われている民主党代表選、自民党総裁選で、この問題が問われていないのは重大な欠落だ。

 閣議決定に対し、自民党の林芳正政調会長代理は「なぜ、この時期なのか」と政府の意図に疑問を投げた。安倍晋三元首相も法案に対し「大切な言論の自由の弾圧につながる」と指摘した。石破茂前政調会長は以前、法案に反対としながらも、救済組織の必要性は認めていた。

 政府・与党は先の通常国会終盤にも法案提出に意欲を示したが、批判を受けて見送ったばかりだ。国論が二分している法案を閣議決定して既成事実化するやり方は、到底適切な手続きといえない。

 自民党内にも人権法案に前向きな意見もあるが、言論統制とは無縁の自由な社会を維持するために果たしてこの種の法案が必要なのか。民主、自民両党首選の立候補者は少なくともこの問題への立場を鮮明にし、国民的な議論を積み重ねてもらいたい。

© 2012 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

 

 

 

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二つの時代の日本人の顔――大日本帝国と戦後民主主義

2012年07月27日 | 教育・文化

 

二つの時代の日本人の顔――大日本帝国と戦後民主主義

さきに大津市の中学二年生のいじめ自殺事件について自分のブログに意見を書いていたとき、たまたま佐藤守氏という元航空自衛隊に所属して今は軍事評論を行っている方のブログで「2012-07-17 人相から窺えるもの」という記事を読んだことがある。


2012-07-17 人相から窺えるもの
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20120717/1342501213

私もこの大津市の中学2年生いじめ自殺事件に関連するテレビ報道などを見ていて、そこに登場する教育関係者たちのご面相の印象について、佐藤守氏と同じような印象を持っていたので、なるほど私個人の印象だけでは必ずしもなかったのだな、と自分の印象の「普遍的性格」に確信を得た気がした。

リンカーンだったか「人は誰でも四〇歳を過ぎれば自分の顔に責任を持たなければならない」と言ったとか、またラテン語に「顔は魂の符丁である」という諺のあることを思い出した。昨夜のロンドンオリンピックで、サッカー男子チームは初戦で強豪スペインを破ったが、そこでのサッカー選手やサポーターたちの表情を見ていて、以前に「生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣」という記事を書いたことを思い出していた。

「生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣」
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20100618

そこであらためて大日本帝国の日本人と戦後民主主義の日本人の二つの時代の「日本人の顔」を比べてみようと思って、YOUTUBEなどを暇に任せて「明治人の顔」などで検索してみたが、次のような動画があった。

「幕末から昭和初期の日本人の顔  Old Japanese Face」
http://www.youtube.com/watch?v=UUohJUf02fs&feature=player_embedded

この動画を見ながらすぐに思い出したのは、現代の自民党や民主党などの政治家たちの表情だった。昭和初期の政党政治も相当に堕落していたらしいから、明治期の政治家や軍人、文学者たちが比較的に「立派な」面立ちをしていた(個人的にそういう印象をもつ)のは時代としては例外であったのかもしれない。

今回のサッカー試合に登場した若い選手にも「茶髪」が多かった。茶髪を受け入れるかどうかは教養水準にも比例するとも思われるが、それにしても印象に残っていていつも思い出すのは、昔テレビでアメリカ在住の日本人青年が一重まぶたを二重に整形手術したのを、なぜそうするのかと白人の女性アンカーにインタビューを受けていた様子を見た時のことである。詳しい内容は忘れてしまったが、その青年の受け答えのなかに、彼が日本人や東洋人としての自負とアイデンティティーを完全に失っている様子を、その女性アナウンサーが哀れみの眼で見つめていたことが、いまだに忘れられない。

その日本人青年がアメリカ暮らしのなかで、敗戦国民としてどのような屈辱を体験したのか、私には想像も及ばないが、「二重まぶたと茶髪」という彼の自己の肉体の改造に、日本人としての自己嫌悪の感情を読みとることは難しくはなかった。

こうした感情の根源には先の第二次世界大戦、太平洋戦争における日本の完膚無き敗北と、その後のマッカーサーの巧妙な占領政策の存在することは言うまでもない。その影響は深刻で、最近の中国の台頭もあり、民族として腰を抜かされた日本人が歴史的に再び立ち直れるか否かはわからないと思っている。とくに戦後教育を典型的に受けた政治家、財務省や外務省などの「高級官僚」たち、高学歴の女性や「一般庶民」にアイデンティティー喪失の根が深いからである。

敗戦国民の悲哀は続いている。マッカーサーの占領政策と戦後民主主義の克服のためには、歴史的敗戦の軍事的のみならず文化的にもさらなる全面的客観的な検証、世代の交代と一世紀二世紀にわたる民族精神の回復のための忍耐づよい戦いが必要なのだろう。それを通じてはじめて「Old Japanese Face」を再び回復できるのかもしれない。日本人の顔の問題の根本的解決の鍵は日本国の軍事的独立である。 

 

 

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大津市中学二年生自殺問題と日本の民主主義の水準―――相変わらずの教育現場

2012年07月14日 | 教育・文化

 

大津市中学二年生自殺問題と日本の民主主義の水準―――相変わらずの教育現場

大津市にある中学校で、中学二年生の男子生徒が同級生のいじめにより自殺したそうである。本来もっとも楽しくあるはずの学校生活が一転して、亡くなった生徒にとっては、地獄の日々に取り替わっていただろう。この「いじめ問題」はいまだ本質的に解決されてもおらず、日本全国の多くの学校、学級で類似の事件の存在することが予想される。

この問題にかかわる大津市の学校や教育委員会の対応が、さらには警察署の対応が果たして正しかったか、それが問われている。いずれにしても、いじめは犯罪行為でもあるから、もっと早くから司直の手が学校にも入るシステムが確立されていれば、これほどの最悪の結果を招くこともなかったのではないだろうか。

テレビなどで教育委員会の役職者たちが謝罪している場面を見かけることがあるけれども、それを見て直感的に感じることは、教育委員会の人たちこそもっとも再教育、訓練改革されなければならないのではないかという印象をもつことである。こうした会見での役職者たちが口にする弁解を聞いていても、まるで事なかれ主義で当事者能力がないように思われるからである。なぜ、こういうことになっているのだろうか。こういう人たちが教育委員会という地方自治体の教育組織のトップという重責の座にどうして居座ることのできるシステムになっているだろうか。

いじめ問題の解決は、「人間性悪説」とも絡んで容易ではないとも考えられるけれども、いずれにしてもこのような悲劇の再発はなんとしても防がなければならない。学校や学級内に悪の芽がはびこることのないよう、早期に刈り取り摘み取ってゆくこと、いじめの環境や状況、雰囲気、状況の発生しないクラス環境が確立される必要があると思う。

まず学校や学級内のこうした事件で、もっとも責任が追及されなければならないは、この学級の担任教師であり、この学校の校長である。学級内の事件や学校内の事件で担任教師や学校長の責任が追及されてしかるべきであるのは言うまでもない。犠牲となった生徒の保護者が警察や司法、裁判の場でその責任の有無を追及して明確にして行くのは当然だ。

同時に考えることは、こうしたいじめの問題が学級内で起きたとき、クラス全体の問題として、自分たち自身の問題として解決しうるシステムが相変わらずできていないことである。クラスメートや学級、学校内自体に自己解決して行く能力を今なお持ち得ないでいるということ、それが最大の問題である。

少子高齢化やTPP参加や北方領土、消費税などといった国内外の問題をどのように解決してゆくかは、国民が政権を選択して自己解決してゆくのが民主主義国家としてのシステムだけれども、これと同じ論理で、学校内学級内の問題も生徒たち自身の直接民主主義によって生徒たち自身がみずから自己解決してゆくシステムが、つまり学級内に民主主義が確立されていなければならない。

大津市の中学二年生のいじめ自殺に問題に見られるように、学級内の問題を、クラス内に生じた問題を、学級担任教師をも含めたクラス全体が、自分たち自身の共同生活体の問題として、主体的に解決して行く能力がないこと、それを指導して行く能力を担当教師がもちえないでいること、それが根本問題だと思う。

数年前にも類似の「いじめの問題」が発生したときも、こうした問題の解決のための手法として「学級教育において民主主義の倫理と能力を育成すること」を提言したことがある。(下記参照)

学校教育の中に「道徳の時間」として、「民主主義の倫理と能力を修練する時間」を確保し、実行することを提言したけれども、学校関係者、教育研究者の誰一人の目にも留まらなかったようである。「民主主義の倫理と能力を修練する時間」を小学校、中学校、高等学校の学校教育のカリキュラムに導入して、生徒一人一人に民主主義の倫理と能力を骨身に徹するまで教育訓練してゆくこと、そのことが「いじめ問題」をも含めて、学級内の問題を自分たちの問題として自主的に解決してゆく「自治の能力」も育成にもつながる。それがひいては日本国民をして真に自由で民主的な独立した国家の国民として形成してゆくことになる。

時間はかかるかもしれないが、また、一見遠回りであるかもしれないが、「民主主義の倫理と能力を修練する時間」のなかで国家国民道徳の根本規範として、国民自身が自己教育して行くしかないのである。

かって戦後間もない1949(昭和24)年頃、文部省著作教科書として『民主主義』という教本が刊行されたことがある。そうして日本全国の中学生及び高校生の社会科教科書として使用され、民主主義の精神の普及と浸透に大きな意義をもったことがあった。しかし、それもたった五年間で廃止になった。どうしてこの教科書の使用が廃止になったのか、その経緯は詳しくはわからない。

しかし、日本国が世界に冠たる『民主主義モラル大国』として復活して行くためにも、政権交代によって金権主義の自由民主党が政権の座から陥落した今現在こそ、あらためてかっての文部省著作教科書『民主主義』を復刻して、日本のすべての中学生、高校生たちに配布して行くべきである。もちろんこの教科書も完全ではないが、民主主義の核心を教育して行く教材としては十分だと思う。

そうして民主主義の精神と方法を、学校教育、学級教育で日常的に修練して能力にして行かなければならないのである。沖縄県民の一部や小沢一郎氏のように民主主義を「単なる多数決」という次元でしか捉え切れないレベルで終わるのではなく、また、そうした浅薄な認識にとどまっている「政治家」や「公務員」や「官僚」の存在を認めることなく、またそうした「政治家」や行政マンしか育てられない現在の日本の教育界の腐敗と堕落と無能力こそが改革されなければならないとしても、第一歩としてまず国民一人一人が、政治家や教育者に頼ることなく自己研鑽してゆくべきであるだろう。

クラス内でいじめ問題がこうした事件として存在するということは、事実として民主主義が倫理精神として、正義として教えられておらず、学級や学校内に民主主義の「倫理原則」が確立していないことを示している。

学校教師自体が、「真の民主主義の精神と方法」が教えられ訓練され能力として確立されていないから、それを現在の生徒たちに教えられるはずもないのである。事実としてそれを実行する能力と問題意識のある者が政界のトップにも教育界のトップにもいない。しかし、そうであるとしても、この悪循環を断ち切って、学校教育の中に「真の民主主義の精神と方法」を能力として育成してゆくこと、そのことによって国家と国民の道徳を再建して行くしかないのである。

最近になって学校現場でも、武道の必修化が取り入れられるようになったそうである。もちろんその意義は否定しないけれども、より深刻で緊急を要するのは「倫理と能力としての民主主義の修練」を学級と学校現場で必修化して行くことであるだろう。


参考までに

 「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ

 民主主義の人間観と倫理観

 学校教育に民主主義を

 悲しき教育現場

 

 

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図書館検索サイト

2012年04月09日 | 教育・文化

 

「カーリル」という図書館検索サイトがある。それによって、ほとんど日本全国の、どこの図書館に、どのような本があるか、即座にわかるし、また貸し出しの予約も簡単にできるようになっている。とても便利になったと思う。

カーリル
http://calil.jp/

インターネットの普及にする時代になって、たしかに多くの点で実に便利になった。世界中の情報が、世界中の新聞や図書など、もちろん玉石混淆、いかがわしいものから、世界中の古典や名著、珠玉の作品に至るまで、家に居ながらにして閲覧できるようになった。このような情報社会の進展、科学技術の進展こそがもっとも強力な社会変革の条件をなすのだと思う。社会の経済的な基礎的な条件の、マルクス流に言えば「下部構造」の変革に比べれば、特定の個人や思想家、哲学者などの思想は、その社会変革に与えるインパクトも取るに足らない微弱なものでしかないのかもしれない。

一昔も前になるけれども、西尾幹二氏らが「新しい教科書を作る会」等を組織して、いわゆる「自虐史観」の克服を訴えておられた頃、千葉県舟橋市にある公共図書館で、そこに勤務する司書が西尾幹二氏らいわゆる「右派」とされる人たちの著書、図書を一括して廃棄したとして、裁判所に訴えられるという事件があった。

「最高裁(第一小法廷)平成17年07月14日判決」
〔憲法・公共施設・国賠1条-公立図書館司書による特定書籍廃棄と著者の権利/船橋西図書館〕
http://www.hiraoka.rose.ne.jp/C/050714S1.htm

「船橋焚書事件」
http://homepage2.nifty.com/busidoo/Shihou/funnsyo9.htm

たしかに公共の図書館というのは、特定の思想、党派、宗教に偏在することなく、機会均等の全面的な情報開示を原則とすべきだろう。たとい個人がどのような思想的立場にあるとしても、憲法によっても思想信条の自由や、宗教、学問の自由が保障されているように、公共の施設のあり方としては、あくまで公平で公正な図書閲覧の機会均等が保障されるべきだと思う。そうしてこそ、歪められることなく真理が顕らかにされる社会が構成されるのだと思う。

このうような図書検索システムが公衆に広く明らかにされ、その使用も公開されることは、そういった点からも、情報公開の原則と市民的な自由と拡大、強化に、さらに役立つことだろうと思う。

閉塞する時代には、進歩的な歴史観というのは概して軽蔑されがちだけれども、科学技術の、とくに情報技術の発展にともなって情報の開示の原則が深まり、さらに普遍的なものとなりつつあることは、その多くの否定的な側面を乗り越えて、明らかに肯定的に評価できるものだと思う。

 

 

 

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「山本太郎」現象について

2012年02月05日 | 教育・文化

 

山本太郎」現象について

池田信夫氏が自身のブログの中で、今になって反原発に生き甲斐を見出すようになっている俳優の山本太郎さんについて、次ぎのようにまとめている。

トリックスターとしての山本太郎
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51771856.html


>>引用はじめ、

「結果を考えないできれいごとを主張する「平和ボケ」は、反原発運動に受け継がれている。山本太郎は、こうした日本の伝統を象徴するトリックスターである。」

<<引用終わり。

確かにそうした観点から「山本太郎現象」を分析できるかもしれないが、私の視点はもう少し異なっている。池田信夫氏とは異なって、私は山本太郎氏については、「戦後民主主義」体制の申し子、というべきかある種の「犠牲者」であると考えている。彼もまた国家と民族にとっての一つの損失である。

一昔前に、多くの有為な青年たちが「オーム真理教」の山師教祖である松本智津夫の詐術に不幸にも惑わされ、彼らの貴重な人生を棒に振ったように、もし山本太郎氏が、まともな国家に育ち、まともな教育を受けてさえいれば、現在のようにトリックスターを演じることもなく、尊敬される立派な男として成長できたであろうに、ということである。惜しむべきことである。ここで池田信夫氏もまた「日本の伝統」を意図的に曲解している。

問題は、現代日本の国家社会体制そのものにあり、その現象の一つとしての教育にこそ根本問題があるのであって、もともと虐められっ子であった丸山眞男の自虐史観の創始者としての「日本の伝統」観でもって、山本太郎氏を断罪しても問題の根本的な解決にはならない。

 

 

 

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日本に原爆は必要か?

2011年11月09日 | 教育・文化

日本に原爆は必要か?

武田邦彦教授がご自身のブログで「日本に原爆は必要か?」と問うておられる。そして、ご自身の論考によれば武田教授は「①原発廃止に賛成であるゆえに②核武装に反対」と結論されておられるようだ。

■日本に原爆は必要か?
http://takedanet.com/archives/1013802090.html

武田邦彦教授の働きについては、今年の三月十一日の東北大地震と大津波による福島第一原子力発電所事故以来の東北地方の放射能汚染に対して、良心的なその警告と啓蒙活動に対して一定の評価もし、このブログでもリンクさせていただいたりしていた。

しかし、放射能汚染とはまた異なった日本の原子力発電に関する政策問題や核武装といった軍事問題に対する武田教授のこれらの結論に本当に問題はないのだろうか。

武田氏はご自身の論考のなかで、「原子力発電」と「核武装」を論理的に直結させておられるようであるが、これは必ずしも正しくないのではないか。というのは、西尾幹二氏などがブログなどで主張されているように、「脱原発には賛成であるが、核武装は必要である」という立場もあるからである。その一方に今の武田邦彦氏のように「脱原発と同時に核武装にも反対」という「平和主義的脱原発」という立場もある。

いわゆる「右派」に属すると思われている西尾幹二氏らの認識によれば、現実はむしろ日本は「原子力発電」ゆえに核武装ができないでいるのである。

WiLL8月号「平和主義ではない脱原発」(六)
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1098

原発と核武装は論理的に必ずしも直結するものではない。国内に必ずしも原子力発電所がなくても、強固な意志さえあれば、インドやパキスタン、イスラエル、さらには北朝鮮からだって核兵器を輸入することは論理的には可能であり、それによって核武装はできる。もちろん、原子力発電とは無関係に、核武装のためだけに原子力核科学技術を開発育成することもできる。

だから、「日本は原爆を持たなければならないから、原発は必要」と考えているいわゆる右派を、原発不要派に転向させるための論理として、武田氏が「1、地震国日本は原発に耐えられないから、脱原発に進むべきだ。2、「日本兵ほど世界で強い兵士はいない」から「日本に核武装は要らない」という持論を保持しているのであれば、問題は大きい。

その理由の一つとして、第二次世界大戦で日本のヒロシマとナガサキに原爆が投下されたのは、当時の日本にはまだ原子爆弾を開発出来ておらず、アメリカに対して核報復攻撃を行う能力がなかったからであると考えられること。

それに、もし武田氏が「日本兵ほど世界で強い兵士はいない」から「日本に核武装は要らない」と考えておられるとすれば、本当にそうであるなら、諸外国の核兵器に向かって、戦前の武士道日本軍のお得意の万歳突撃をさせてみればいい。そうすれば、現実によって「日本兵ほど世界で強い兵士はいない」が本当かどうかが教えられるだろう。

私の立場は基本的には櫻井よしこ氏のそれとほぼ同じである。ついでにいえば、最近に問題になっている、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加問題についてもそうである。

国家基本問題研究所(国基研・JINF)
http://jinf.jp/

またさらに、私自身としては、「1、自衛隊と防衛省をそれぞれ新日本国軍(国防軍)と国防省に発展改組すること。2、核弾頭を搭載した原子力潜水艦を15隻を、日本全国の秘密基地に配備、常時巡回させること」それ以外に日本の自由と独立を現実に担保する方法はないと考えている。

参考
10月21日(金)のつぶやき
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20111022

 

 

 

 

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生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣

2010年06月18日 | 教育・文化


生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣


pfaelzerweinさんが、
ご自身のブログログの中に、サッカー日本チームの対カメルーン戦での、気の抜けたような試合を評されている中で、日本のサッカー選手たちのその気の抜けた表情が、アメリカ人監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ脚本で、1953年制作になったかっての「日本映画」『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)に登場する「生き残り日本兵の顔付き」のようだと述べられていた(『スカンポンなカメルーン西瓜』)。この記事読んでいて、pfaelzerweinさんが、映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)の取り上げるにしても、あまりにもその「批判精神無さ」が気になって、コメントを差し上げようと思った。けれども、コメントとしては長くなりすぎたので、一つの記事として投稿することにしたものです。


pfaelzerweinさん、日本サッカーの根本的な弱点について以前に私も考察したことがあります。そして、この弱点は、オシムから岡田に代わっても、克服され改善されるどころか、さらに退化し悪化しつつあると言えます。選手たちの個人的な能力が同等であるとすれば、監督がサッカーチームの戦力の八割を構成します。それほどに監督に人材を得なければ、世界の強豪チームに伍してゆくのはむずかしいということです。

日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの

ジーコとオシム


それはさておき、この記事で私がとくに批評したいと思うのは、サッカーのことではなく、この記事の中に取り上げられている映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)についてです。

太平洋戦争の日本の敗北を契機にそれ以降、旧大日本帝国軍人とその軍隊を貶め揶揄する映画が、数多く作られました。日本人の意識改造と民主化政策の名の下に、GHQの占領政策とそれに便乗する反日日本人たちによって、とくに共産主義勢力と、民政局などに所属して当時のアメリカ政府に一定の勢力を占めていた「進歩的知識人」たちは、日本国憲法の制定など、日本人と日本国の改造に深く関与しました。

同時に彼らは、自分たちの太平洋戦争を正当化するために、旧大日本帝国軍人とその軍隊の「残虐さ」や「醜さ」「愚かさ」を、とくに映画などによるプロパガンダを通じて、日本国民を徹底的に洗脳しました。ここでpfaelzerweinさんが取り上げておられる映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)もそうした目的で作られた数多くの映画の中の一つです。

その結果、戦後育ちのいわゆる「戦後民主主義」で教育された日本国民のほとんどが、そうした無自覚なバイアスをもって、旧日本帝国軍人とその軍隊を見るように仕組まれています。

だから事実として、戦後世代のほとんどの日本人は、―――よほど、自覚的に努力して自らの生きる時代と受けてきた教育を相対化して認識しようとしている者を例外として―――自覚的にせよ無自覚的にせよ、旧帝国軍とその軍人に対して否定的で拒絶的な悪感情を持っています。その教育の影響は、とくに戦後世代以降の日本女性に顕著に現れています。

英文学を専攻し英国に留学もしてイギリス人を夫にした元法政大教授の田嶋陽子女史や、フェミニストで社会学者の上野千鶴子女史などはそうした女性の典型的な存在だろうと思います。実際、彼女たちの旧日本帝国軍人に対する憎悪の背後には、何十万何百万の小「田嶋陽子」女史、小「上野千鶴子」女史が存在しています。そして、おそらくpfaelzerweinさんご自身もそうした戦後世代の人たちのお一人であろうと思います。この洗脳の徹底ぶりのために、未だに日本国民の大多数は旧帝国軍人や軍隊に対する深い嫌悪感と憎悪を克服できないでいるのです。それは当然に彼女らの父や祖父、夫や兄弟など男性に対する潜在的な忌避感情につながります。それに併行して国民の間に伝統的な倫理観も破壊されてしまいました。そのために、国民として自らのアイデンティティーを彼ら自身の多くが確立することができないでいます。そして、そのことを彼ら戦後世代は自覚していません。現代日本の退廃と堕落とエゴイズムの深い根もここにあります。

もしそうでないとすれば、アメリカ人が日本人を揶揄しからかうために作った反日プロパガンダ映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)を取り上げ引用するにしても、ここまで徹底的に「批判精神無し」に、日本人と旧帝国軍人を揶揄しからかい貶めることなど考えることができません。さもなければ、大日本帝国憲法国家体制に対して、憎悪と反感を持つ確信犯的な反日日本人か、あるいは、帰化日本人たちの行う意図的な引用としか考えられません。その場合にはもはや議論の余地もないでしょうが。

映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)はもともとアメリカ人監督、脚本制作による反日プロパガンダ映画なのですが、アメリカ映画とするにはあまりにも露骨なので、日本映画として配給されたものです。そこまで日本人がこけにされていることにさえ、ほとんどの日本人は気づかずに、今回のpfaelzerweinさんのように、まったくに「批判精神無しに」、この映画のことを引用したり、語ったりするのです。

太平洋戦争の敗戦以降、戦後世代の精神構造から、さらに幾世代にわたってますます浸透し深刻化しつつある、こうしたGHQの占領政策による洗脳から、日本人が解かれない限り、pfaelzerweinさんのおっしゃるように、「「君が代」を口ずさむ日本人サッカー選手たちの顔付や日本人サポーターの顔付きから、「島で一人の女を争そう「あなたはん」物語の生き残り日本兵のような情けなさ」は消えてなくならないだろうと思います。
 
 
 
 
 
 
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民主党の倫理感覚

2010年04月28日 | 教育・文化
 

首相「このまま頑張って」 小沢幹事長続投を支持(朝日新聞) - goo ニュース

ふつうの倫理感覚の持ち主であれば、あるいは、かっての自民党でさえ、政治家の秘書が逮捕されたりすれば、政治家は責任を取って議員の職を辞したものだ。それに比較しても、民主党の政治家たちの倫理感覚は何ともひどいというしかない。鳩山首相が母親からの政治資金の贈与を知らなかったと言い張り、個人献金に見せかけていたのに、政治資金法の違反の罪に問われず、総理の職に留まったままでいるのがすべての発端だった。首相がこれであるから、それ以下の者たちも、トップの首相に倣って、小沢一郎氏のように、秘書が検察に起訴されたくらいでは、職を辞して責任を取るということなど、考え及ぶこともない。

北海道教職組合(北教組)の委員長代理と経理担当が政治資金規正法(企業・団体献金の禁止)違反の罪で、起訴されたときも、献金を受けた民主党の小林千代美衆議院議員は離党も議員辞職もしなかった。これでは、自民党と比べてもあまりにも酷すぎる。日本国民の倫理感覚は、こうした「選良」たちを見本に今後さらに、ますます麻痺してゆくことになるだろう。国民は来るべき参議院選挙で、民主党に鉄槌を下さなければならない。

 

 

 

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浅田真央選手、バンクーバー冬季五輪で銀

2010年02月26日 | 教育・文化

 

浅田真央選手、バンクーバー冬季五輪で銀

バンクーバー冬季五輪でフィギュアスケート女子のフリーが行われ、浅田真央選手が銀メダルを獲得した。安藤美姫は五位、鈴木明子選手は八位に、アメリカの代表選手としてオリンピックに参加した長洲未来も四位に入賞した。

女子フィギアスケートは、バンクーバー冬季五輪でもそれなりの成績を残したが、全体として客観的にみれば日本チームは惨めな状況にある。かっては表彰台を独占したスキージャンプなども全く振るわない。国力からいって、本来ならドイツくらいの成績は残せるはずだが、残念ながら、今は壊滅的な状態である。その象徴がスノーボードの日本代表である國母和宏選手である。彼はまた戦後の劣化した日本人の象徴でもある。

オリンピック選手の競技能力も、人間性や国民性と深く関連している。國母和宏選手のように堕落した人間性の持ち主が、競技においても最強の選手に成れるわけがない。専門馬鹿のようにスノーボードだけ強くなることはできないのである。人間性の美しさは運動能力とも無関係ではないからである。

冬季オリンピックにおける日本チームの弱体化も、政治経済における国力の低下も、国民性の腐敗、堕落、劣化と決して無関係ではない。アメリカ議会の公聴会に呼ばれたトヨタ自動車の豊田章男社長のように、後に残された哀れな敗戦国世代が、戦前世代の築きあげた「企業の栄光」をいつまで保持し続けることができるかどうか。

浅田真央選手は銀メダルに終わったが、よく戦った。ただ、今回の女子フィギアスケートの中継放送を見ていても、前回のトリノオリンピックでの荒川静香選手ほどの域に達している選手はいなかったように思う。(荒川選手の金メダル、『NHKの言論自主規制)たしかに、キム・ヨナ選手はミスなく堅実に滑って金メダルを手にした。演技にふさわしい勝利だったと思う。韓国民にはうれしい結果だったろう。

それにしても、韓国民は何かにつけて日本の統治を植民地支配だの、従軍慰安婦だの何だのといって文句を付けて来るが、もし、日本の統治がなければ、今日のような韓国があったかどうか、自分たちの国が今果たしてどんな国家社会の姿をしていることになったか、よく胸に手を当てて想像してみるがいい。

日本は戦後のGHQの占領統治によって、日本らしい良さの多くが惜しくも失われ、忘れ去られてしまっているが、昔の日本の良さは、むしろ、日露戦争後から三十数年にわたって日本統治の続いた韓国人や台湾人にこそ残されている。戦後の日本人の多くが、GHQによる占領統治によって、國母和宏選手のような腐った植民地人のようになってしまったのと好対照になっている。戦後の日本はむしろ改悪されたが、韓国人や台湾人や戦前からのブラジルの日系人に、日露戦争を戦った頃の明治日本の良き面影が残されているといえる。

 

 

 

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忌野清志郎さんの死と日本の戦後民主主義の死

2009年05月05日 | 教育・文化
 

 

武田鉄矢 天国の清志郎にメッセージ

天国の清志郎にメッセージ

忌野清志郎さんの死と日本の戦後民主主義の死

最近のニュースに由れば、ロック歌手の忌野清志郎(本名  栗原 清志)さんが亡くなられたそうである。享年五八歳だったという。だから、忌野清志郎さんは団塊の世代といってよいか、そのすぐ後の世代に属するといえる。良くも悪くも世代的にも、典型的な戦後世代の植民地文化を一身に体現した人であるということができる。「昭和の、戦後の申し子のような方」だったそうである。

しかし、私のように「戦後の日本文化」を日本の歴史上においてもっとも不毛と荒廃の文化と捉えているものにとっては、忌野清志郎さんの死は、「戦後の日本文化の死」の象徴のように映る。また、そのようにあって欲しいという願望につながる。むしろ戦後世代の死とその世代の交代によって、日本の長い歴史の歳月においてふたたび、日本の歴史を通じたより普遍的な正統的な日本文化への復帰の傾向が強まるのだろうと思っている。またそれを期待もしている。

「昭和の、戦後の申し子」たちは、自分たちの生育した時代と環境を相対化できず、それが自明で普遍的なもののように主観的には思いこんでいるかもしれない。しかし、悠久の日本の歴史からすれば、むしろこの「戦後の申し子の時代」こそが異常で特殊な時代であったことが、やがて理解されるだろう。

ただそのためには、この世代は、若気の過ちから自分の身体の全体に刻み込こんでしまった入れ墨を消し去るような、七転八倒の苦しみを通じることなくして、古来の水脈である伝統の本流に回帰することがむずかしいのだと思う。

 

 

 

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第二の敗戦―――戦後60年、強姦被害者の心の敗北

2008年12月27日 | 教育・文化

 

昨夜の夕食後、たまたまテレビを付けると、東京の市街地が空襲を受けている場面が出ていた。ほかにとくに見たい番組もなかったので、そのままチャンネルも変えずにそのままつけていた。

とくに気も入れずに見ていたが、先の太平洋戦争の末期頃の東京大空襲が描かれているようだった。その場面では東京の市民がアメリカのB29から焼夷弾を投下され、市街地も人命もすべてを焼き尽くされるような攻撃を受けて、人々の逃げまどう光景がくりかえし描かれていた。それは「東京大空襲スペシャルエディション 」とかいう番組で、この春に放映になったものの再放送らしい。

そして、最後の近くの場面で、堀北真希さんの演じる女の主人公が、アメリカ空軍機からの機銃掃射を受けて殺されるのであるが、その時に彼女がその敵機に向かって何か叫んでいた。その時のせりふに、ただ私は何となく違和感を覚えた。彼女がその時にどのようなせりふを叫んでいたのか、くわしい記憶がなかったので、今一度ネットでこの番組についての情報を調べながらこの記事を書いている。

要するに、この女性主人公がラスト場面の近くで、空から機銃掃射で彼女を殺しに来る敵機に向かって懇願する様子が、ちょうど私にはそれが、完膚無きまでに痛めつけられ脅しつけられている「か弱き女性」が、彼女を殴りつけている強姦野郎に泣いて許しを請うている哀れで気の毒な姿のように見えたことだった。

それほど、当時の東京市民や広島市民など普通の日本国民にとっては、先の太平洋戦争は腰の抜けるほどの体験で、徹底的にやられたと言うことだろう。先の戦争での大空襲や原子爆弾の投下によって、普通の一般国民にまで戦争の「恐ろしさ」を思い知らされたということになるのかもしれない。

そして、60余年後の今なお日本国民は、その結果、すでに敵と戦う以前に精神的に完全に崩壊させられていることがこのドラマを見てもわかる。それほど、この戦争によってこうむった日本国民の精神的なトラウマが深刻だったということだろう。そこから日本人が回復できるのかどうか、それはわからない。いずれにせよ、哀れな日本人はこの不幸な歴史的体験を今なお引きずって生きているのだ。

 

 

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森元首相の戦後教育批判

2008年10月21日 | 教育・文化

 

<森元首相>「戦後教育の過ち」日教組を批判

自民党の文教族で、総理大臣在任中は、もっとも無能な総理大臣と言われて支持率も最低だった森喜朗元首相が、日本の戦後教育を批判しているらしい。

だが果たして、この森喜朗氏に戦後の日本の教育について批判する資格があるのだろうか。

日教組の教育に対する批判は国民がよく知っている。むしろ、戦後の日本の教育にもっとも責任のあるのは、日教組以上に文部省、文部科学省の無能かつインモラルな官僚たちと自民党文教族政治家たちではないのか。

森元首相は、世論の尻馬に乗ってすでに池に落ちたイヌ日教組批判をして自分たちの責任を棚上げにする前に、戦後教育のみじめな現実を前に跪いて、まず自民党の戦後の文教政策そのものを文部科学省の役人たちと一緒に反省してからの話ではないだろうか。しかしその反省をするにも能力がいる。

 
<森元首相>「戦後教育の過ち」日教組を批判(2008年10月20日 22時26分毎日新聞)
 自民党の森喜朗元首相は20日、名古屋市での講演で、日本教職員組合について「親や子供を殺すようなことが珍しくもない世の中になったのはなぜか。やはり戦後の日教組教育の大きな過ちだ。それが民主党の支持団体じゃないか」と批判した。同党では、中山成彬衆院議員が同様の日教組批判などで失言をし、先月末に国土交通相を辞任している。  森氏は、衆院解散・総選挙については「(年内選挙であれば)常識的には11月30日投開票になるが、国際金融問題で主要8カ国(G8)などの首脳会合をやろうと、ブッシュ米大統領が呼びかけている。麻生太郎首相も少し悩みが多いかと思う」と述べた。【近藤大介】

 

 

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オルフォーさんに

2008年10月20日 | 教育・文化


オルフォーさん、はじめまして。コメントありがとうございました。たぶん西尾幹二氏の「インターネット日録」のリンクから来られたのだと思います。

あなたは、西尾幹二氏を「興味深い人物」だとおっしゃられていますが、私にはなぜ戦後の日本には西尾幹二氏に類するような人材が少ないかという問題意識に連なります。

ただうかつにも、10月18日の日録を読むまで、西尾氏が大江健三郎氏と同学年であるとは知りませんでした。私の印象では、昭和の政治家の岸信介氏や民法学者の我妻栄氏のような、旧制高等学校の卒業生のように戦前の教育制度の下で成長されたというイメージを漠然と西尾氏に感じていたのです。

し かし、ご自身のブログのなかで西尾氏が「私は大江とは違う意味でだが、むしろ自分を「戦後型」だと考えている。社会科学的発想というものが身についてい る。階級意識がない。民主主義をとても大事に思っている。」と述べられて、西尾氏がご自分をいわゆる「戦前型」の保守主義者と一線を画されようとしている 点にも共感しました。

私も「戦前型」保守主義を無批判に受容しようというのではありません。ただ、戦後が「たらいの水と一緒に赤子も流し てしまう」ように、戦前の良き面をも否定してしまった。その結果として戦後は戦前にも劣ることになっているという認識があるからです。戦前の日本の良き伝 統はむしろブラジルやアメリカの日系人や韓国や台湾の旧統治国に一部残されていると思います。

現在の日本の文化状況に対して――そのなか にはNHKなどのマスコミも含まれますが、かって三島由紀夫が批判したような愚劣な市民社会文化と衆愚民主主義を国家がどのように批判しアウフヘーベンし てゆくか、この点でも西尾幹二氏は実に貴重でかけがえのない働きをしておられます。いつの日か「ネット文化」の中からも徹底的なマスコミ批判の嵐が巻き起 こることを、そして、それがまともな日本の文化文明の復興につながることを期待しています。

最近のアメリカの金融崩壊についても、かねてからグローバリズムとナショナリズム、あるいはパトリオチズムとの関係で、その矛盾が明らかになることは予測されたことでした。

そ の意味で今回のアメリカの金融崩壊は、アメリカのグローバリズムを無批判に受け入れようとしていた日本の政治に対する一つの警告にはなるのでしょう。た だ、グローバリズムのもつ意義を全面的に否定し去るのも正しくないのではないでしょうか。グローバリズムがこれまで全世界で一定の影響力をもってきたこと にも、それなりの根拠や意義があったからだと思います。グローバリズムの意義とは何であったのか、それを限界とともに見極めることも大切ではないでしょう か。

アメリカの大統領共和制はむき出しの「市民社会国家」です。それは経済的には典型的な「資本主義社会国家」であり「市場原理主義国 家」として現象してきます。その意味で日本やイギリスなどヨーロッパ諸国の「立憲君主制国家」はアメリカのようなむき出しの「市民社会国家」に対する批判 としての存在価値をもちます。
『至高の国家型態』

ア メリカの「市場原理主義」に対して日本は「立憲君主制国家」として主体的に批判的に対応してゆく必要があります。西尾幹二氏の小泉郵政改革に対する批判は そうした点に意義もつものではないかと思います。ただ『小泉郵政改革』の意義についての評価の点で私は西尾氏と若干意見を異にするのかも知れません。

民主党に対する失望
小泉首相は英雄か

最近の若者にどのように西尾幹二氏が受け入れられているのかは、うかつにもよく知りません。ただ、立憲君主制国家の保守という点で西尾幹二氏の思想家としての存在価値は極めて高く貴重でかけがえのないものです。

 

 

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