夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

大津市中学二年生自殺問題と日本の民主主義の水準―――相変わらずの教育現場

2012年07月14日 | 教育・文化

 

大津市中学二年生自殺問題と日本の民主主義の水準―――相変わらずの教育現場

大津市にある中学校で、中学二年生の男子生徒が同級生のいじめにより自殺したそうである。本来もっとも楽しくあるはずの学校生活が一転して、亡くなった生徒にとっては、地獄の日々に取り替わっていただろう。この「いじめ問題」はいまだ本質的に解決されてもおらず、日本全国の多くの学校、学級で類似の事件の存在することが予想される。

この問題にかかわる大津市の学校や教育委員会の対応が、さらには警察署の対応が果たして正しかったか、それが問われている。いずれにしても、いじめは犯罪行為でもあるから、もっと早くから司直の手が学校にも入るシステムが確立されていれば、これほどの最悪の結果を招くこともなかったのではないだろうか。

テレビなどで教育委員会の役職者たちが謝罪している場面を見かけることがあるけれども、それを見て直感的に感じることは、教育委員会の人たちこそもっとも再教育、訓練改革されなければならないのではないかという印象をもつことである。こうした会見での役職者たちが口にする弁解を聞いていても、まるで事なかれ主義で当事者能力がないように思われるからである。なぜ、こういうことになっているのだろうか。こういう人たちが教育委員会という地方自治体の教育組織のトップという重責の座にどうして居座ることのできるシステムになっているだろうか。

いじめ問題の解決は、「人間性悪説」とも絡んで容易ではないとも考えられるけれども、いずれにしてもこのような悲劇の再発はなんとしても防がなければならない。学校や学級内に悪の芽がはびこることのないよう、早期に刈り取り摘み取ってゆくこと、いじめの環境や状況、雰囲気、状況の発生しないクラス環境が確立される必要があると思う。

まず学校や学級内のこうした事件で、もっとも責任が追及されなければならないは、この学級の担任教師であり、この学校の校長である。学級内の事件や学校内の事件で担任教師や学校長の責任が追及されてしかるべきであるのは言うまでもない。犠牲となった生徒の保護者が警察や司法、裁判の場でその責任の有無を追及して明確にして行くのは当然だ。

同時に考えることは、こうしたいじめの問題が学級内で起きたとき、クラス全体の問題として、自分たち自身の問題として解決しうるシステムが相変わらずできていないことである。クラスメートや学級、学校内自体に自己解決して行く能力を今なお持ち得ないでいるということ、それが最大の問題である。

少子高齢化やTPP参加や北方領土、消費税などといった国内外の問題をどのように解決してゆくかは、国民が政権を選択して自己解決してゆくのが民主主義国家としてのシステムだけれども、これと同じ論理で、学校内学級内の問題も生徒たち自身の直接民主主義によって生徒たち自身がみずから自己解決してゆくシステムが、つまり学級内に民主主義が確立されていなければならない。

大津市の中学二年生のいじめ自殺に問題に見られるように、学級内の問題を、クラス内に生じた問題を、学級担任教師をも含めたクラス全体が、自分たち自身の共同生活体の問題として、主体的に解決して行く能力がないこと、それを指導して行く能力を担当教師がもちえないでいること、それが根本問題だと思う。

数年前にも類似の「いじめの問題」が発生したときも、こうした問題の解決のための手法として「学級教育において民主主義の倫理と能力を育成すること」を提言したことがある。(下記参照)

学校教育の中に「道徳の時間」として、「民主主義の倫理と能力を修練する時間」を確保し、実行することを提言したけれども、学校関係者、教育研究者の誰一人の目にも留まらなかったようである。「民主主義の倫理と能力を修練する時間」を小学校、中学校、高等学校の学校教育のカリキュラムに導入して、生徒一人一人に民主主義の倫理と能力を骨身に徹するまで教育訓練してゆくこと、そのことが「いじめ問題」をも含めて、学級内の問題を自分たちの問題として自主的に解決してゆく「自治の能力」も育成にもつながる。それがひいては日本国民をして真に自由で民主的な独立した国家の国民として形成してゆくことになる。

時間はかかるかもしれないが、また、一見遠回りであるかもしれないが、「民主主義の倫理と能力を修練する時間」のなかで国家国民道徳の根本規範として、国民自身が自己教育して行くしかないのである。

かって戦後間もない1949(昭和24)年頃、文部省著作教科書として『民主主義』という教本が刊行されたことがある。そうして日本全国の中学生及び高校生の社会科教科書として使用され、民主主義の精神の普及と浸透に大きな意義をもったことがあった。しかし、それもたった五年間で廃止になった。どうしてこの教科書の使用が廃止になったのか、その経緯は詳しくはわからない。

しかし、日本国が世界に冠たる『民主主義モラル大国』として復活して行くためにも、政権交代によって金権主義の自由民主党が政権の座から陥落した今現在こそ、あらためてかっての文部省著作教科書『民主主義』を復刻して、日本のすべての中学生、高校生たちに配布して行くべきである。もちろんこの教科書も完全ではないが、民主主義の核心を教育して行く教材としては十分だと思う。

そうして民主主義の精神と方法を、学校教育、学級教育で日常的に修練して能力にして行かなければならないのである。沖縄県民の一部や小沢一郎氏のように民主主義を「単なる多数決」という次元でしか捉え切れないレベルで終わるのではなく、また、そうした浅薄な認識にとどまっている「政治家」や「公務員」や「官僚」の存在を認めることなく、またそうした「政治家」や行政マンしか育てられない現在の日本の教育界の腐敗と堕落と無能力こそが改革されなければならないとしても、第一歩としてまず国民一人一人が、政治家や教育者に頼ることなく自己研鑽してゆくべきであるだろう。

クラス内でいじめ問題がこうした事件として存在するということは、事実として民主主義が倫理精神として、正義として教えられておらず、学級や学校内に民主主義の「倫理原則」が確立していないことを示している。

学校教師自体が、「真の民主主義の精神と方法」が教えられ訓練され能力として確立されていないから、それを現在の生徒たちに教えられるはずもないのである。事実としてそれを実行する能力と問題意識のある者が政界のトップにも教育界のトップにもいない。しかし、そうであるとしても、この悪循環を断ち切って、学校教育の中に「真の民主主義の精神と方法」を能力として育成してゆくこと、そのことによって国家と国民の道徳を再建して行くしかないのである。

最近になって学校現場でも、武道の必修化が取り入れられるようになったそうである。もちろんその意義は否定しないけれども、より深刻で緊急を要するのは「倫理と能力としての民主主義の修練」を学級と学校現場で必修化して行くことであるだろう。


参考までに

 「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ

 民主主義の人間観と倫理観

 学校教育に民主主義を

 悲しき教育現場

 

 


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