GOGO三国志!

2014年に復活した白井恵理子先生の劉備くんシリーズや長池先生の「破龍」(完結)他三国志作品を応援しています!

曹沖の「象の重さを量ろう!」

2006-10-28 20:29:43 | 三国志コラム
今日の午後「破龍」の記事を打っていたら、テレビ朝日系列で古代人と芸能人が知恵比べする番組「モアイの歩き方」で、曹沖(そうちゅう。曹操の息子)が象の重さを量った話が紹介され、芸能人がタイに渡って実証しようという試みが放送されていて驚きました。まさかこんな所で曹沖の話が出て来るとは思ってもみませんでした。

曹沖の考えた象の重さの量り方は、まず象を船に乗せて水に沈んだ所に目印を付け、そのあとその目印の水位になるまで石などの重しを乗せ、その石などを合計する。その数が象の重さと同じになると考えたのでした。

…実際には象がなかなか船に乗ってくれなかったり、象の重さで沈む船の沈み幅に目印を付けるのにも船が傾かないようにしたり、タイの人々に船に乗ってもらって後で体重を量るのが小規模の民族大移動という感じで大変な作業でした

人々の全体重と象の重さには多少誤差が出てしまいましたが、専門家の話では誤差は生じるものらしいので実証は成功という結果になりました。
作業にあたった人たちの作業中のにぎやかさや量り終わった後の充実した様子は見ていてほほ笑ましいです。

昔もこんな感じで計量していたのかもしれません。


三国志コラム「カイ越とカイ良について」

2005-06-17 20:31:28 | 三国志コラム
朝香祥三国志・角川版「運命の輪が廻る時」で、自分でも錯覚・混乱していた蒯越と蒯良について調べてみました。

蒯越、字は異度(いど)。襄陽郡中廬県の人。荊州に赴任した劉表に招かれ、荊州を平定する。
後に荊州を手中にした曹操に「異度を手に入れたことの方が嬉しい」と言わしめる。
「演義」では蒯良の弟で、出身地も異なる。兄・蒯良ゆずりの馬相見の知識で、劉備が劉表に贈った馬が凶馬「的盧(てきろ)」と見抜き、手放すよう勧める。
また、蔡瑁の劉備暗殺計画にも加担する。

蒯良、字は子柔(しじゅう)。蒯越と同姓で同郷だが、兄弟であるかどうかは不明。役職名も不明。
蒯越と共に劉表に招かれ、荊州を治安の面から平定する。
「演義」では蒯越の兄。呂公に策を授けて孫堅を死に至らしめる。

…この事から、蒯越は孫堅の死には関与していないと考えられます。孫堅の死の諸説については省きますが、私小説では「正史」「演義」とをミックスしているようです。余計、混乱してしまいました…。
「正史」の同姓で同郷だが血縁関係は不明というのが、色々想像を挟めそうです。

参考文献:「三国志 人物事典」(小出文彦/新紀元社)・他



三国志コラム「正史と演義について」

2005-06-13 20:31:23 | 三国志コラム
三国志「正史」と「演義」について


三国志は大きく二つに分かれます。「正史」と呼ばれるもの、「演義」と呼ばれるもの。
今回は混乱しがちな二つの違いを簡単に説明します。

「正史」…三国を統一した晋に仕えた陳寿が著した歴史書。魏・蜀・呉、それぞれの国に属する人物を列伝形式で書いたもの。
後に六朝時代の宋の人、斐松之(はいしょうし)が注釈を付け、この二つがまとめて「正史」と呼ばれる。

「演義」…曹操を悪人に、劉備を善人に脚色した、物語り調で書かれたもの。その他、「正史」とは扱いの違う武将が多い。
明の時代に登場するまで、多くの過程を経ており、今日に至るまでも改訂を繰り返されている。
時代考証や地理的検証が甘いため、矛盾した記述がある。
日本で知られる「三国志」は「演義」の事を指している。

ここでは省略しましたが、「正史」と「演義」の著者の事、成立や違いをもっと知りたい方は…

三国志の舞台の巻末年表
偕成社版三国志第一巻のあとがき
中国の歴史04・三国志の世界をどうぞ。
「三国志 人物事典」(小出文彦/新紀元社)←これもオススメです。



第3の三国志

日本では、多くの作家による私小説、漫画などが登場し、「正史」「演義」をしのぐ力作振りで高い評価と人気を得ています。






三国志コラム「伍子胥について」

2005-06-10 20:32:05 | 三国志コラム
三国志コラムは作品紹介の補足や人物・事柄を取り上げるコーナーです。

伍子胥について

既にご紹介した三国志マガジン「白眉最良号」に収録された「伍君神」(佐々木泉 著)の伍子胥(ごししょ)とはどんな人なのか、簡単にご紹介します。
伍員(ごいん)、春秋時代の人で、楚の国出身。楚の王位争いに巻き込まれ殺された父と兄の復讐のために、敵国の呉に仕え、楚軍を打ち破り続けるが、肝心の仇・楚王は既に死亡しており、伍子胥はその墓を暴(あば)いて死体に鞭打つ。
その後、呉が破った越の国の王・句践(こうせん)や美女・西施(せいし)の処遇などの諫言や他の呉臣のざん言により、主である呉王・夫差(ふさ)に疎(うと)まれ、自殺を命じられる。 その時残した「私の目をくり抜いて城門に掲げよ。そうすれば呉が越により滅亡する様が見られる」という言葉が更に夫差の怒りを招き、伍子胥の遺体は袋に入れられ長江に投げ込まれる。
その霊を憐れみ、また恐れた人々により、伍子胥は祀られ神格化されていく。
中国の歴史04・三国志の世界によると、伍子胥は水神として祀られたとあるので、関羽や甘寧のように水神と結び付けられたのかもしれません。(同書では関羽、甘寧の神格化について詳しく記述されています。)
尚、「伍君神」の祭りの内容やその由来については、勉強不足のため判っておりません。
伍子胥について、もっと知りたい方は…↓これが判りやすくてオススメです。
参考文献:中国武将列伝 上巻(田中芳樹 著/中央公論社) 他

ここでは省略しましたが、呉王、越王らのエピソードからは有名な言葉が多く生まれています。
また、春秋戦国時代(周の衰退から秦による統一まで)の兵法、思想、人々の生き方が三国志の時代の人々にも影響を及ぼしています。