あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

盲目の世界

2018-12-04 05:30:26 | 随筆(小説)

僕が此処まで打ちのめされているのは、彼が僕の小説の真の読者であると感じたことが大きく関係しているだろう。
彼がそうでなかったら、僕は彼処まで彼を必死に説得しようとはしなかったように想う。
彼が僕の小説を絶讚した瞬間、僕は彼を救うためだけに生きているようなものだった。
彼を救うために全力を注ぎすぎて僕が彼を救えないとわかったとき、呆気なく精神が壊れてしまった。
僕は旧約聖書の神の気持ちが良くわかった。
僕がこの世界の創造主なら、彼のすべてに諦めて、彼を滅ぼしてしまうのかも知れない。
そして滅ぼしたあとに、悲しみに沈んでもう二度と滅ぼさないと約束したりする。
神の愛は本物だ。
でも彼は僕の愛は偽物だと白けていたのかもしれない。
いや、彼の愛は偽物だと白けていたのは僕の方かも知れない。
彼に出逢った当初から、彼の自己愛も彼の妻に対する愛も虚構だと僕は感じていた。
だってそうだろう。浮気(性的な関係を持ったことはないと彼は言ったが、それも本当かどうかわからない)をしておきながらどうやって自分の妻を彼は幸せにしようとしていたのか。
彼は自分の妻を幸せにしたいと言いながら他の女性を妄想の内に姦淫し続けてきた。
僕は姦淫の罪がどれほど重いものであるかを彼に説き続けた。
そして彼は僕に言ってくれた。
浮気(姦淫)をもう二度と行わないと。
例えば自分の妻に性的欲求を拒まれたからと言って他の女性に性的な妄想をする行いも姦淫という大罪であることをイエスは説いた。
彼が僕の説得によって姦淫をやめると誓ってくれたこと。
これが僕を高揚させた。
一つ、僕は彼ら夫婦を救ったんだ。
彼のその従順な素直さが僕を喜ばせた。
彼のその言葉を僕は信じるしかなかった。
今でも僕は彼を信じている。
それは僕がそう願っているからだ。
僕は彼らの幸福をしか願っていない。
もしこの先、彼らがどん底や一時の地獄に堕ちるなら、それは神の道を歩むための長い道のりの最初の一歩となるだろう。
僕は六年と九ヶ月、畜肉を一切口にしていない。
僕にできて、彼にはできないことだとは想えない。
それは想ったより酷く簡単なことだったからだ。
でも彼が僕以上に苦しめるのなら、それはとても良いことだ。
簡単に肉を断ててしまったことについて、僕は負い目を感じている。
もっと苦しむべきだったと感じるんだ。
僕は彼に姦淫の大罪と共に肉食という大罪について必死に説いてきた。
僕が彼に訴え続けたことは僕の苦しみと殺される動物たちの苦しみと、そして動物たちを苦しめ続ける限り、だれひとり幸福にはなれないということだ。
そして彼は僕に感謝の言葉を伝えてくれた。
僕はまたも彼を救えたという実感を感じた。

だがある日今日は何を食べたかを訊ねると彼は「昼にベーコン入りのサンドウィッチを食べた」などと苦々しくも答えた。
僕は呆れ返った。
コンビニには一応ヴィーガンでも食べられる商品がある。
梅や昆布のおにぎりだ。(アミノ酸と表記されているなら注意が必要だ)
僕は彼にそれらを手に取らず、敢えてベーコンのサンドウィッチを手に取ったのかと訊ねた。
それに対しての彼からの返答はなかった。 
あの感謝の言葉は口から出任せの面倒な僕を静かにさせるためのものだったのだろうかと想った。

最終的に、僕は半ば強制的に映像を彼に観せた。
彼が完全に肉を断ち切ることができなくて苦しんでいたからだ。
彼は映像を観たあと、僕にこんな言葉を最初に言ったのが酷く印象的だった。
彼は言った。
「何のために生きているのかわからない。」と。
僕はその感覚は衝撃だった。
彼は虚しさと絶望を感じたんだ。
まるで動物たちを知らず知らずに苦しめて殺し続けて生きてきた時の方が自分は幸福で、それが一番の生きる喜びであったかのように。
僕が最初に映像を観たあとの感覚は全身が震え上がり血の気が引いて、涙が止まらないなかに自分がしてきたことへの後悔の苦しみだった。
でも彼はまるで自分の幸福をすべて奪われてこれからどう生きて行けば良いのかわからない。と言っているようだった。
彼の妻は喫茶室を経営していて彼も今の仕事をそのうち辞めて夫婦でお店一つで生活して行くという夢を持っていた。
当然その店のメニューには肉や畜産物や魚介を扱っていた。
それでようやく経営が成り立っていることが彼はわかっていた。
彼が映像を観て自分たちの夢も幸福も何もかも奪われてしまった感覚になったことは理解できる。
でも本当ならそれより動物たちへの申し訳ない想いや彼らから目を背け続けてきた自分に対する悔やみが先に立つものじゃないか?

僕は今でもそれを初めて観たときのショックが毎日ずっと続いている。
僕はたくさんの苦しみに苦しみ続けて生きてきた。
でもそれらを遥かに上回る苦しみだった。
僕は彼らを苦しめ続けて殺し続けても平気で生きてきたことの悲しみに暮れ、彼らは自分たちの幸福が虚構でありこれからも虚構であり続けるということを知って虚しさに苛まれた。

彼は今もその虚しさのなかに妻のお店を手伝っているのかも知れない。
彼は今すぐに動物を殺さない手段を取ること(お店を一端閉めること)ができないが、ヴィーガンのメニューを考えて出せるようになりたいと言った。

彼は「もう肉を食べません。」と言ってくれた。
彼はゆるゆるなヴィーガン(ベジタリアン)からスタートすることを決めた。

ほとんどの人は彼のこの努力を誉め称えるかもしれない。
でも僕はどこか絶望的だった。

映像を観ても動物を今すぐに殺さない手段を取ることができないなんて、確実に人間が壊れていて絶望的に感じた。

始めたお店を一端閉じることがどれほど経済的に不利益となっても、動物を苦しめて殺し続けてその死体を客に提供し続けるより彼らは遥かに救われる。
それを彼らに訴え続けたが、彼らは動物を今すぐ殺さないで生きることより自分たちの利益を選択した。

僕は彼らの悪を、悪によって滅ぼしたかった。

そして彼は開き直ってこんな言葉を最後に僕に言った。
『わたしたちはそれを強要される必要などない。』
動物の生きる権利を奪って自分の利益を優先しようとする彼は平然とそんな言葉を言い棄て、僕は谷底に突き落とされた。

人間など精々長く生きてたかが百年かそこらだ。
動物の生きる権利を奪い続けてまで幸福に生きる価値も必要もない。
動物には人間と似たような愛、またはそれ以上の愛情があるんだ。
彼らの命を奪ってまで人間が幸せに生きる権利なんてない。

盲目の内に生きてゆくほうがずっと虚しい人生であることを彼はいつの日かきっと気付くだろう。
 
彼が今も動物の死体を食べないで生きていられていることを願っている。

そして何より一日でも早くヴィーガンになって、ヴィーガンのカフェを新しく開ける日が来ることを切実に願い続けている。

 

 

 

 


これが二日の早朝に書いたものだ。

公開するのに時間が経ってしまった。

僕は今これを読み返して、段々とわかって来るものがある。

僕はすべてが救われていないこの世界に絶望し続けているのではない。

この世界のすべてが不幸で、そのすべてを僕の手によって救えないと感じることに絶望し続けているんだ。

例えば僕以外のすべてが傍から見て本当に幸福そうに過ごしていたとしても僕が苦しみの底に生きているなら誰一人幸福には見えないだろう。

だってここで僕が独りで苦しみ続けているんだ。

彼らの幸福は真に薄っぺらく感じることだろう。

これは僕という存在は生まれ持っての「僕=すべて」の感覚で生きていることを証明している。

僕一人が苦しいなら、すべての存在が苦しいはずだ。

僕はすべての存在なんだから。

もし僕が彼らの殺す動物だったなら、僕の遣り方が正しくないなんて想わない。

僕が彼らに「殺さないでくれ」と訴えて脅迫してでも強要することが間違っているはずはないんだ。

生きて行きたいんだよ。

僕だって、彼らのように。

何故、君には届かなかったの…?