あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

魂とは。わたしは生命に義憤を覚える。

2017-04-08 20:27:26 | 生命の尊厳
いったい人間は、人間は、人間は・・・・・・どこまで自分自身に対して、都合の良い存在と成り果てつづけるのだろう。
俺は俺の言うことこそが正しいとは言わんけども、首が切断されるような感覚に痛むほどの義憤を覚えたので感情論を述べることにしよう。(酒を呑みながら)

前回の記事生命の尊厳とはから、中絶に関して調べつづけているが、都合の良い解釈が多すぎるあまり、俺がそれを受け容れる限界値に達してしまったようで、今の俺の目はたぶんギロギロしてると想う(人は苦しんで緊張が高まると目がギロついて瞳孔も開く)。

あんまりにも、自分を可愛がりすぎて、殺してしまった胎児の痛み苦しみ哀しみを軽んじているような解釈がネット上には多く見られる。

それはこういった解釈である。

・赤ちゃんはお母さんに堕ろされたことを今はもう苦しんではいない。
・赤ちゃんはお母さんと自分自身の成長の為にあえて自ら中絶されることを知って生まれてきたのだから、もう母親は自分を責めるのはやめて前向きに生きたほうが、赤ちゃんも喜ぶことだろう。
・お母さんがずっと中絶したことを苦しみつづけることを赤ちゃんは望んではいない。
・中絶された胎児が、「お母さんありがとう」とあの世からメッセージを送っている。
・自分が殺してしまった赤ちゃんのぶんも自分は幸せに生きなくてはと想う。
・胎児は痛覚がまだ発達していないから痛みは感じてはいない。


胎児が苦しんだか苦しんでないか、今も苦しみ続けているのか、苦しんではいないのかなど、胎児になって同じ経験をしてみるまではわからぬことではないか。
俺はこういう利己的な概念こそ、危険なカルト宗教的な概念に想わざるを得ない。

殺されるという苦しみを、痛みを、ほんのちょびっとでも想像できるなら、このような安易な解釈はとても出来得たものではないと想うのだが、何故このような解釈がはびこってきたか。

自分の罪を正当化する為に、もっとも良い解釈がなんでここまで広がっているかというのは、人間の命というものを軽く見るようになってきているからである。

人間だけではなく、生命一般を尊ぶことが難しくなってきているからである。
10代の娘が、望まざる妊娠をしたとしても親が必死に命の大切さがどれくらい大切なもんであるのかを教えられていたなら、娘は子を産むことを決意しただろう。
親が子に教えることのできる最も価値ある教えとは、命の大切さ、愛おしさ、ではないだろうか。


今、全世界では、毎年約4500万人、一日で11万人以上もの胎児が堕胎されていると言われている。
先ほどの解釈が世に広まれば広まるほど、中絶胎児が減っていくのならいい。
減っていってさえくれるのなら、どんな解釈でも広がってほしいと俺は想う。

でもどんな解釈であろうと、人一人殺して、人が幸福になる、平和に向かうという考えは俺は本当に狂っていると想う。
まるでオウム真理教かと想う。
ポアか、胎児と母親のために胎児をポアするのか。

たとえ胎児が自分と母親の成長のためにあえて中絶される胎児に転生してきたとしても、その胎児を殺してしまうことを選択するというのは、人一人を殺すこととなにも変わりがないことだ。

人工妊娠中絶(堕胎)、それは人を殺すという選択をとるということである。
胎児にどのような意図があろうと、どういった判断で子を堕ろすのかというのは母親の観念によって決めることである。

どのような理由があろうと、人を殺すという選択をとる人間が”正常”だと言えるのか。
否、正常よりは、”異常”だと想うなら、「おまえは異常だから、おまえの判断で中絶するなど、許せるものではないよ」と周りは言うだろうが、人を殺すと選択した母親を”正常者”であると見ている周りであるから、胎児が殺されることが”正常”な判断によってあたかも行なわれ続けているのがこの地獄絵図のような”現実”である。

本当に人を殺すことが正常だというのなら、今から5分後に、あなたは突然目のまえに現れたる異常者によって無残にも頭と手足などを引き千切られて命を奪われても、その異常者を”正常者”であると呼ばなくてはならないことになる。

これがどれだけ、狂気めいていることか、想像してもらえるだろうか。
でも”中絶”を肯定することとは、そういうことなのである。
胎児を殺しても自分が幸せに生きなくてはと想うということとは、誰かそこらへんにおる知らん人一人殺してもわたしは幸せに生きなければと想うことと同じことなのである。
これは根本的に、狂っている解釈であり、発狂者の解釈であり、こんな解釈が本当に世にまかり通るなら、世は殺人だらけの殺人合法の地獄的な世に成り果てるだろう。


なんで人一人殺して、自分は幸せにいきなくては、と想うのか。別に幸せに生きなくてもいいのではないのか。赤ちゃんが、ほんとうに自分と母親の成長のために中絶を望んだとするなら、それは苦しみからの成長のほか、なにがあるのだろう。
幸せに生きている人間とは、だいたい阿呆なものである。
自分の幸せが壊れることをどこかで恐れて過ごすようになるからである。
そして苦しいことがあるごとに、自分の殺してしまった赤ちゃんが幸せになるようにと祈っているのだから幸せにならねばと幸せを求め、ますます苦しむのなら、その苦しみは確かに良いものだと想う。

でも人が本当に、人一人殺さねば、幸せになれない(成長できない)というのなら、人が増えるほど、殺人も増えるだろう。
人生で本当に遣りたいことが見つかり、それを深めて生きたいと想った次の日殺されてしまったなら、また同じような人生を選んで転生してこなければならない。

人一人を殺さねば、本当に人が成長できないというのなら、誰一人、殺人というものを否定することはできなくなる。
自分自身、母親自身も、母親自身が、胎児を堕ろした次の日に殺されたとしても、それが自分と相手の成長のためなのだと納得して死んでいかねばならなくなる。

いずれも、いったい自分は何を信じるか、という話になる。
本当に胎児を殺さなくては自分と胎児の成長が在り得ないのだと信じて殺したことを肯定して前向きに生きるのか。

何を信ずるか。それは胎児自身もそうである。胎児は中絶の苦しみによって、自分と母親は成長するのだと信じて母胎内に転生してきた魂であるかもしれないが、それは胎児が信じている観念であって、それが宇宙の真の理というわけにはならない。

それこそが正しくて、ほかは間違ってるよ。ということには決してなるまい。

胎児がそう信じてお母さんのお腹の中に宿ったとしても、実際、拷問の苦しみと痛みと恐怖を感じて死んだかもしれないわけだ。


もう一度言うが、”幸せに生きている人間とは、だいたい阿呆なものである”

誰とは言わんが、例えばSNSかなんかに自分と恋人とのいちゃいちゃ写真を載せたりなんかして自分の幸福を見せびらかしつづけるような悪趣味な人間たちというものも典型的なアホな行いをしてしまっているのがお解かりであろう。
その人間存在自体が阿呆の塊だとは言うまい。人格性を否定はしまい。
しかしそのとき、その人間は確かに阿呆なのである。

幸せとは、人を阿呆にする。それは成長というよりか、堕落、退行と見える。
他人のいちゃいちゃしている写真を見たからって、よおし明日からも頑張るぞーなどと想って生きてはいけないのは人間である。すなわち他者を幸福にするよりも他者を哀しませる行為に幸福者たちはいともたやすく走りやすくなる。

”まずは幸せにならねば、苦しみを知ることもできまい”
その考えをわたしは否定しない。
では言わせて貰おう。胎児の幸せをあなた方(中絶に関係する者たち)はまず奪ったのである。

胎児の魂を成長させたいと本気で願うのであれば、まずは胎児の魂を幸福にする必要があると想えませんか。

ひとりひとりが、違う。だからこの世は素晴らしいのである。
なんでどの胎児も我と母親の成長の為に中絶を良しとしてるという解釈を安易によりにもよって母親が受け容れることをするのか。
胎児の魂だって、ひとりひとり、違う考えがあると考えるのが自然ではないだろうか。

自分を殺してしまった母親に対する言葉にもならないような複雑な感情を抱きつづけて苦しんで母親の傍にいる胎児の霊がいないとは言えない。
そのような胎児がいるのなら、どうすればその胎児は救われるのだろう。

一日に11万人近く堕胎されていて、その半数近くが苦しみつづけている胎児の霊であるかもしれない。

どこに焦点を合わせるか。
自分に置き換えて想像するのは難しいことであるが、わたしがまっさらな魂のような存在で、愛する母親に命以上に大切だとは想えない理由で殺された胎児であったなら、簡単に「自分とお母さんの為にこれでよかったんだよ」などとは言える境地には達することなどできないと想う。

・胎児は天使のような存在だから、けっして母親を恨んだりしないし悔しがったり無念を感じつづけて苦しんだり孤独でい続けることなどないよ。

実際そんな経験深い胎児だっているにはいるんだろう。でも全員の胎児がそうなんだというふうになんで言うのか。

ほんとうは哀しくてさびしくていつも泣いてばかりいるのにお母さんがそんな楽観的な観念でいて幸せにならなくてはと考えて過ごしていたなら、胎児は自分の気持ちを分かってもらえてないんだと想っていよいよ苦しいところでひとりぽっちで霊のまま生きつづけなくてはならないのかもしれないのである。

だから母親は特に、胎児の霊がほんとうは何を感じているのかと、あらゆる想像をしつづける必要があるのだとわたしは想う。

ひとりで部屋の隅っこに蹲って泣いてはいないだろうか?
天に昇るすべも持てずに、自分のことを哀しい目でいつも見つめてはいないだろうか?
今何を想っているのか、どう感じているのか、どこにいるのか、自分にできることはどういうことだろうか。

そういったことを考えることって、胎児のためにも幸せにならなくてはと考えることよりずっと”相手を知りたい”という願いがあるわけだから、それは愛を知るということであって、ただたんに幸せに前向きに生きることよりも大きな喜びに繋がるものではないだろうか。

”成長”というのは、言い方を変えると”本当に大きな喜び”に繋がるものである。
そして”本当に深い喜び”こそ、”幸せ”である。
胎児が望むものとは、ひとつ、それであるだろう。
安易な解釈で安易な幸福に浸かって喜んでいるような母親を胎児は望んでいるのか。
だとするならそれはそこまでの愛情と言える。

”胎児の愛は本当に深いから中絶しても許される”という御都合主義の利己主義な幻想が広まり、ますます中絶件数が多くならないことを切にわたしは祈る。

胎児は天使(神の子)であるからこそ、どのような理由があっても、産まなくてはならないとわたしは感じる。



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