あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

遺書

2018-09-04 11:55:30 | 随筆(小説)

素面とは、素面でないこととは、一体なんであるのか。
前回の記事でわたしの師匠の作家町田康が言った言葉を、また二度寝したあとに読み返して考えている。

中島らもも、わたしも鬱が酷いことが共通している。
中島らもがアルコール依存症になったのは一つに、まるで執筆ができなくなったことがあるのかもしれない。
わたしの場合はアルコールを入れれば、頭が回転する場合がよくあるが、すぐに虚脱するという特徴もある。
だが中島らもは酒に強かった為、酒を飲みながら何時間と執筆を続けることもできただろう。

良い作品を書くために、敢えて酒を飲んでいたなら、余計に悲しいことだ。
一端酒を入れて書いてみたら吃驚するほど良いものが書けたなら、良いものが書けなくなって、酒を入れて書くという習慣をつけてしまうというのもあるだろう。
意識して遣っているかもわからない。
詩人のアルチュール・ランボオも中原中也も、酒を入れて執筆していたものがあることはわかっている。
それも彼らにも鬱症状があったからだと考えている。
鬱症状とは、頭のなか全体が、灰色になって何一つ、考えることができなくなる症状である。
執筆は例え自動書記という記述法であっても、脳の正常な回転というものが必要であるようで、鬱状態に陥っているときには何も降りてこない。
言葉がなんにも降りてきてくれないのである。
しかし酒を入れると、これが不思議と脳が回転し始め、ものを考える、言葉が次々に降りてくるということができる場合が多いのである。
作家に、酒を手放せない人間がどれくらいいるだろう。
そう言えば或る画家は、絵を描くときにダークチョコレートを食べると気分が乗ってくるというようなことを言っていた。
あれもチョコレートにあるカフェインなどの力によって脳が覚醒されるからだろう。(カフェインにより脳や脊髄などの中枢神経系が刺激される。)
チョコレートを食べながら絵を描くことは、素面で描いているということになるのであろうか。
アルコールやカフェインやドラッグ(向精神薬も含む)を入れて、どこまで脳内細胞が変化するのかは、人それぞれである。(こんなことを言っていると本当にキリがない。向精神薬は麻薬と同じ中枢神経に作用する物であると言われているし、例えばわたしの摂っているアシュワガンダやセントジョーンズワートなどのハーブは向精神薬並みに効く人もいる。では、これを摂っているとき素面と言えるのかということになってくる。)
無論、それを入れたら誰もが覚醒して良いものが生まれてくるというわけではない。
現にわたしはこれ迄、アルコールを入れて書いたものは幾つもあるが、アルコールを入れないで書いた作品の方が遥かに多いのはアルコールによる執筆を冷静に後で読んで、気に入るものがあまりなかったからというのもあるかも知れない。

特徴として、アルコールを入れると少し語りが臭く(気障に)なりやすい。というのがあるときがあって、自分はそれを気に入らない。
でも同時に、より、切実になる。というのもあるような気がしている。ここではないだろうか。執筆に最も必要であるものとは、切実さである。
どんなにユーモアなものを書いたとしても、切実さに書けていたなら、面白くなくなる。
切実さを感じられないユーモアなど、落語や漫才でもなんでも面白くないのである。
わたしの魂の同志だと感じる男性から、わたしの書いたものを読んで「嗚呼、切実だな。」と感じたことを言ってもらえたとき、本当に嬉しかった。
彼も小説を書いていて、彼の存在、感性がこの世界に今も在ることを奇蹟のように感じている。
そしてもう一人の、わたしの魂の同志だと感じる男性の小説を去年の年明け頃に初めて読んだとき、わたしは同じく非常に切実さを感じて、彼の存在を心から歓喜したことを憶えている。
わたしは彼らが、素面で書いていようが、アルコールやドラッグを入れて書いていようが、全く関係はない。
その作品がわたしを感動させるなら、彼らの感性に嘘偽りは微塵もないと感じる。
彼らは確かに今、その時にしか書けないものを、書くべきものだけを書いた。
それがアルコールやドラッグの御陰で、その影響によって漸く書けたのだとは想えないのである。
それに彼らが生きてこれてるのも、もしかしたらアルコールやドラッグがあったからかも知れない。
本当に苦しいときに、生きることを支えてくれたのは、アルコールやドラッグを摂取しながらでも執筆を続けてきたことかもしれない。
素面でなければ良いものは書けないと想ったなら、素面の状態での作品をしか認めないというのなら、それは自分の中だけで想っていたら良い。
でもそれを、この世界のすべてに当て嵌めることはどういうことかというと、もし自分の絶賛した作品が、実はアルコールやドラッグを入れながら創ったものだと知ったとき、どうするのか。
ビル・エヴァンスはアルコールやドラッグを入れながらピアノを演奏してはいなかったのか。
もう一度言うがわたしはアルコールを入れながら書いた作品は素面で書いた作品に比べてとても少ない。
そしてその両方に、自分で想う面白さには差があり、アルコールを入れないで書いたものの方が面白いと明確に感じたこともなければ、アルコールを入れて書いたもののほうが良いと明確に感じたものもこれまでない。
つまり作品の良し悪しは、そんなもので明確に変化を帯び、表れるものではないということだ。
確かに酒を入れると明らかに素面では書きそうにないことを書いたと感じることもある。
それは潜在し続けてきたものがふいに物凄い強力に迸るように出てくるからではないか。
覚醒状態とは良くも悪くも自分には無いものが表れるというものではない。
自分の中に在るものしか、表現することはできない。
表現とは、自分を越えることであると同時に、越えた自分を表現することだ。
自分を越えた自分が自分の中に存在しているからこそそれを表現することができる。
鬱症状とは脳細胞、脳内物質が正常な状態にはない脳の病気でもある。
それを正常にしようとするドラッグがあり、アルコールがある。
わたしはドラッグはもう何一つ、何のドラッグをも摂取していない。
もともと向精神薬も何年と続けてきたことはない。
しかしアルコールは違う。
いつからかはわからないが、もう何年か、毎晩のように飲んでしまっている。
アルコールを入れて書けるときと書けないときとでは、書けないときが遥かに多い。
わたしはだからアルコールによって書けたということをそこまで信じていない。
でもアルコールを入れると執筆できるというときも確かにあった。
素面のときに読み返しても、これは酒の為せる技かも知れないと感じる面白いものが書けたと感じる作品もある。
アルコールもドラッグも、言わば脳内物質を不自然に放出させる作用を起こすものだ。
ドーパミンなどと言われる脳内物質を、ドバドバと一気に放出させてしまう。
だから勢いよく乱射したあとのすぐに弾切れとなった機関銃のように、弾を無くしたあとは何をするすべも持たない。
では瞑想なんかもあれはドーパミンなどをドバドバ放出させるものだが、あのような状態で書いた作品は素面で書いたとは言えないのだろうか。
瞑想とは、心を限り無く無に近付けることである。
好きな音楽をなんにも考えずに無心に聴き入ることがあるだろう。
あれもまさに一種の瞑想状態にある。
あの時、脳内には快楽物質がドバドバ出てきている。
だからすごく心地が良いのである。
時も忘れて集中するとき、それはすべて脳内物質を変化させている。
執筆しているときもそうである。
一心に集中せねばものを書くことはできない。
自分は苦しい作品が好きなので、書いているときは苦しいときが多い。
でもそんなときも、脳内では快楽物質がすごく出ているのである。
快楽物質とは聞えがあまり良くないが、言い換えれば幸福物質である。
心を満たすものである。
苦しく、深刻なものほど深く集中せねば何時間と書き連ねることはできない。
自分は苦しければ苦しいものを書いている時ほど、実は脳内では幸福に満たされているという矛盾が生じている。
しかしわたし自身は苦しんでいる。
人はあまりに苦しくて限界になるなら、逃げたくなり、自分を護るために実際にそこから逃げる。
アルコールやドラッグもその一つの手段である。
そうしなければ人間の生命は脅かされてしまう。
生きてゆくために書くが、生きるために書くが、時に、自分の書いたものが苦しすぎて死にかけそうになる。
死ぬために書くのではないので一端逃げる必要がある。
避難所で、俺は幸福ではない。
火の燃え盛る家から、俺は逃げてきた。
冷水を被り、心の傷を癒そうとした。
しかし此処はどうだ。なんという寒々しい場所であろう。
何にもないではないか。
食べ物はある。着るものはある。屋根と壁と床もある。ベッドがあり、シャワーがある。水道を捻れば、飲める水が出る。二分チンするだけで喰える白米がある。三分水に浸けるだけで喰える増える海藻ちゃんがある。冷暖房完備。オートロック付き。さっきこれを書いているときに、クロネコヤマトのおっちゃんがピンポオンと鳴らしたので、心此処に非ず(執筆に集中していた為)でインターホンに出たので、ロック解除ボタンを押さずにインターホンを切り、もっかいインオゥンと鳴って出たら「鍵開けてください」とおっちゃんの寂しそうな声が聴こえてすいませんすいません(半笑い)でロックを解除してあげたのだった。家にいるだけで、あらゆるものを宅配してくれる。なんという住みやすい、暮らしやすい暮らしだろう。ははは。とか言って阿呆んだら。今日中に死ぬ可能性だってあるってことを忘れたらもう何にも書けない。今日死ぬつもりで、俺はブログをずっと遣ってきた。詰まり、このブログのすべてが、実は俺の遺書である。俺は遺書を、此処以外に書かない。俺の作品こそが、一番の遺書である。でも悲しいかな、俺のブログを読みに来る殆どの人は、多分俺の作品を真剣に読まずに帰る。(このブログで「物語」や「随筆」、「詩」のカテゴリーをクリックする人はほとんどいない。)申し訳無いが、当分(できれば一年以上)このブログのコメント欄は閉鎖致します。それは俺が、生きてゆく為にです。どうか残念に想わないでください。そうしなければ生きていけないこの俺が一番に、残念に想っているこれからずっと続く孤独と孤立の苦しみなのです。俺はこうしてますます、これから奈落に向かって、孤立して行きますから。どうか見護っていてください。天の父と、天の母よ。必ずや、何れ程に虚しく惨めであろうと、わたしはわたしにしか歩めない人生を歩み、全うし、そして死にますから。誰かと同じ道など、絶対に歩みませんから。だから、安心していてください。わたしは世界一愚かで虚しく惨めな一番に主から離れて迷える子羊の如くの人生を歩んで死ぬることが本望であり本願であり、宿願だと、わかってしまった人間なのです。わたしは本当に独りです。誰と話しても、わたしは独りです。わたしと結ばれる人間は、この世には存在しません。それをわたしはわかっているのです。わたしは父が生きていたときまで、この世で独りではなかった。でも父が死んだときから、わたしは独りになった。死ぬまで独りでいたい。誰一人、父と母以上に愛することはできない。もしその日が遣ってくるなら、その日わたしは消えてしまった。わたしは何処を探してもいない。わたしは何処にも存在しない。誰一人、わたしを知る者はいない。何一つ、この世界にはない。何も、存在しない。すべてがすべてを、忘れてしまったからだ。すべてが眠り続ける。永久に。永遠に。安らかに。


安かれ。






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