あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

きれぎれの叫び

2018-05-01 14:11:16 | 日記
ここんとこ、毎日のように動悸が激しく、目が覚めた瞬間から動悸に苦しめられている。
今朝も目が覚めて、動悸が苦しく、起きて何度か豆乳や水を飲んだのだけれども、
動悸が一向に治まらないどころか、激しくなってきて、脳から何かプチプチという嫌な音が
何度も聞えてくる始末で、これはマジで、突然死するかもしれん。
そう不安が頂点に達し、ようやく、市役所に電話を掛けた。
ケースワーカーの人に電話を掛け直してもらい、事の旨を伝えた。
そしたらば、検査のための病院に着いて行く事はできるけれども、
月曜日とかになると言われ、そんなに不安なら、救急車を呼ぶのが良いと言われた。
わたしはその前に、一応姉に連絡してみると言って、電話を切った。
姉とはもう、何ヶ月と仲直りが出来ない状態で、電話しても取って貰えないと想ったが、
一応電話して、留守電に入ったので切って、
スカイプのチャットから動悸がずっと治まらないのだが救急車を呼んだほうが良いだろうか
お姉ちゃんは車で病院に連れてって貰えないか。という旨を伝えた。
するとすぐに電話が掛かってきた。
姉は「救急車を呼びなさい」の一点張りで、何か、電話を掛けたこと自体迷惑そうに聞えた。
ほな、そうするわ。とわたしは言ったが、悲しみが爆発し、
「こずがどうなってもええん?」と泣きながら涙声で叫ぶように言った。
「こずが死んでもどうでもええん?」と言っても、
「わたしはそれどころやない。おまえを助ける余裕が今はない」という言葉を冷たく言われ、
わたしはさらに怒りの悲しみが爆発し、「今でもこずがお父さん殺したんやて想ってるん?」と
マジで大声で泣き叫んだ。
泣きながら叫んだので、言葉をちゃんと発せておらず、
姉は「なんてゆうてんのか全然わからん」と何度も言って困っていた。
わたしは何度も泣き叫び、ようやく伝わったようで、
姉は「そんなこと今なんの関係もない」と言った。
わたしはこの言葉にさらにブチギレて、それまでよりもさらに大声で泣き叫んだ。
「お姉ちゃんのその言葉(わたしのせいで父は死んだと何度と言われた言葉)でこずはずっと苦しいねん!!!」
その瞬間、電話が切れた。
わたしは自分でも吃驚したが、そのあと、やけにすっきりとし、動悸までもが、落ち着いたのであった。
そして人間というのは、やはり感情の限界に来て、感情が爆発すると、泣き叫ぶのだなとこれまで何度も
泣き叫んだ過去を想いだし、泣き叫んだのは2010年以来やな、と追懐した。
2010年、当時の恋人との喧嘩で、夜中にわたしの5階の部屋から自分のノートパソコンを下へ放り投げ、
さらには洗濯物が掛かっていた物干し竿も下へ放り投げ、それを二人で拾いに行ったとき、
彼は一緒に下まで下りてくれたものの、自分一人で拾ってきなさいとちょっと父親みたいに言った為、
わたしは悲しみが爆発し、まるで幼児のようになって「厭だーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!」
と泣き叫んだのである。
あのときも自分でも吃驚した。叫びながら、おいおいと自分で想いながら叫んでいたのである。
そしてあの時も、すっきりした感覚になったことを覚えている。
人間とは、泣き叫ぶことが、一気にそのストレスを解放できるようである。
しかし中には、どれほど泣き叫んでも苦しみが変わらないことも過去にあった。
ちなみにその一度は処女を失った夜のことである。
そのときなんかの苦しみに比べたら、まあしれているということである。
ここのところ、ずっと寝たきりな感じであったが、叫んだ後はこうして椅子に座って今これを打ち込んでいるのだから、
気力も上げる効果があるのかもしれない。
これからは意図的に、泣き叫んでみる、ということも遣ってみようかなと考える。
で、まだ脳内のプチプチ音は聞えてくるのだが、動悸はマシのようである。
ただもう死は、そこまで遣って来ているかもしれぬ。
それほど脳内のプチプチ音と動悸の連日は、死を予感させるものなのである。
これは完全に、精神的ストレスから来ていると考えられる。
俺の最近の最大のストレスは、何者かわからん奴の、嫌がらせ的な悪質コメントである。
おい、わかってんのか、おまえ、俺がおまえのストレスによってほんまに死んだら、
突然死の場合、俺の飼ってるうさぎのみちたは餓死することになる。
おまえは俺とみちたを殺したその罪を、負って生きるということになんねんぞ。
わかってんのか?俺のブログにふざけたコメントをする人間は、命懸けでコメントしてこい。
おまえのその罪は、おまえも殺すかもしれない。
それほど俺は、きれぎれな状態で生きている。
因果応報(因果律の法則)を、忘れるな。







その後の姉とのスカイプ



どないやねん。
人間が、わからない。














たまご

2018-05-01 07:33:01 | 随筆(小説)
虚無、御早う。
お前とおれと、どっちが孤独かと考える。
多分お前のほうが孤独なんちゃうか。
俺は好きなことしか遣って生きてないもんな。
それに俺は神を信じてるがお前は信じてない。
神が自分の内に存在することを信じている者はお前のように宗教も人も馬鹿にしたりしない。
だからおれがどんなに独りで苦しんでいても、お前はおれよりずっと孤独だろう。
でもそんな人間は、もしかしたら多数派じゃないだろうか。
好きなことを見付けようにも見付からない人もたくさんいる。
おれはそんな人たちすべてに深い負い目を感ずる。
でもおれだって、29歳の11月まで、なんもなかったよ。
でも2010年の11月、おれのなかのすべては変わった。
何が起きたと想う?
おれのなかで何が起きたのか。
おれは一冊の、或、本を読んだんだ。
それは中身なんも知らず偶然手に取り、あ、おもろそう、と直感で図書館で借りた町田康の「告白」という本だった。
おれはその分厚い本を、帰って読んだ。
どうやらこの本は、大量殺戮者が、大量殺戮へと至るその道を描いた作品で、主人公は最期、自死を遂げて終わるらしい。
そう帯に書いてあってん。
大量殺戮ゆうてもおれがいつも言ってる肉食者のことではなく、殺人である。
明治二十六年五月二十五日の雨の深夜。
三十六歳の城戸熊太郎は実際は、舎弟の谷弥五郎と共に十一人を殺した。
殺した人間のなかには新生児も含まれていたという。
しかしその新生児の命が何故か見過ごされ、この大量殺人事件は「河内十人斬り」として未だに河内音頭の定番の演目として唄われている。
「殺しても、殺しても、殺し足りんとはお前のこっちゃ、こなしてくれるわい、エイッ」そう音頭取りが言うと皆、喝采を上げたという。
(実際の歌詞は「斬り刻んでも飽きたらんちゅうのはおまえのこっちゃ こなしてくれるわ、エイッ」である。)
この事件は、深い謎に包まれているが、そのほとんど資料の残っていないこの河内十人斬りを小説に完全に昇華させたのが町田康である。
わたしはこの「告白」以上の本は、多分何処にもないと想っている。
わたしは告白を読んで、わたしが見ている世界というものが、完全に変わったと感じて、その感覚は未だに続いている。
わたしは告白を読んで、自分もこれを遣りたいとわたしの魂は叫んだ。
同時に、絶望的でもあった。
あまりに凄いものを知ってしまうと、人は絶望的になるのである。
でもとにかく、遣りたいのだから、遣るしかない。
おれはなんも考えず、真剣に人生で初めて小説を書き始めた。
それが「天の白滝」という「告白」を基にした小説で、未完成のままである。
でもおれは、諦めなかった。
おれはおれを諦めなかった。
おれが突き進んでいるのは、間違いなく、「告白」への道である。
おれは告白への道を突き進む以外、最早生きられないことを知った。
絶望的であった。
虚無であった。
それでありながらも、わたしの唯一の、生きる糧であったのである。
いや、生きる光である。
虚無に言いたいが、「表現」とは、言い換えるなら「神」である。
つまり神を表現しようとすることが、「表現」である。
「表現」だけが、この世で気取ることが全く不可能なものであるんだよ。
でもこの世で表現以外は、気取ろうとすれば気取れるものである。
おれはだから表現と感じられないすべてが非常につまらない。
虚無を感じてならない。
でも表現というのは、表現をしようと想う人間のその心が面白いのである。
だからその人間の心を面白いと感じるならどんな表現でも面白さは感じられる。
でもこの世界で、「表現」自体を面白いと感じている人間は少数であるかのように感じられる。
それが本当に退屈である。
死ぬほど退屈である。
だから表現しか、遣りたくなくなるのである。
酷くつまらないから。
だが「表現」は、「神」であるがため、死ぬ気で挑まねばならない。
精魂を出し切ること。それが表現であるがため、ほんま、きっついっすわ。っつって、嘆くことも泣くことも弱音を吐くことも赦されない。
おれはおれの表現にがんじがらめにされているわけではなく、おれはおれの表現だけによって、解放され続けていることのこの喜び。
おれは産みの苦しみと産みの喜びを以て表現という卵を産み続けるだろう。死ぬ迄。
卵の内部世界にはおれの表現世界が息づいている。
そう、それは二つの空の御椀を、合わせたものである。
ぱかっ、御椀が開かれるとき、何が起こるであろうか。
おれの表現は、おれを見て何を言うのか。
おれの表現の殻が二つに分かれ、その間からおれの表現が顔を出す。
そしておれのところににょろにょろと歩きよってきて、顔を見合わす。
目と目が合う。

そして、おれの表現は、おれから去っていった。
にょろにょろと、広いこの世界の外を、泳いでいきながら。

おれは今日も、卵を温めている。
もう二度と、この世にはかえらない卵を。