昨夜は「スマイルコレクター(原題:LA CHAMBRE DES MORTS 死の部屋)」という2007年の映画を観て、久方の風呂入って疲れて寝てしまって朝方から今度はソフイア・コッポラ監督の「somewhere」という2010年の映画を鑑賞しました。
両方フランス映画でしたね。二つともまた偶然に親と子の物語でした。
小説の参考もかねて、最近ロリコン気味なようなので少女の出ている映画を観たくて借りましたが両方とも満足できる良い映画でした。
「スマイルコレクター」のほうはスリラー・ミステリーのジャンルになっていますがオマージュにもなっている「羊たちの沈黙」もわたしはまだ観れていなくてこういうジャンルのものはあまり観ないのですが、この映画は深く共感できてとても面白いものでした。
■ストーリー■
失業中のヴィゴとシルヴァンは、憂さ晴らしのドライブ中に、見知らぬ男を撥ねた。
その男が持っていたバッグには、200万ユーロの大金が・・・。
それは数日前に誘拐され、事件の翌朝、現場付近の廃屋で扼殺体で発見された少女の為の身代金だった。
少女の遺体には80年代に流行した、アナベル人形と同じドレスが着せられ、その口元には謎の微笑が浮かんでいた。
プロファイリングを得意とするリューシー巡査長(メラニー・ロラン)は、人手不足の為、事件の捜査に駆り出される。
リューシーは、これまでに独学で習得した知識を駆使し、ひき逃げ事件と、誘拐殺人事件の犯人像を割り出していく。
着実に犯人へと近づくリューシーだったが、その捜査過程で封じたはずの、自分の過去と事件との因縁が見え隠れし始める。
そしてまた、新たに少女が誘拐された・・・
内容は二つともまったく知らずに観ました。
ネタバレになりますが、こちらは娘と母親の映画で娘の執着的な母の死への恐怖と願望がある異常な行動に向かわせるという物語になっています。
母親を人形(腐敗もせずに死ぬことのない存在)として側へ置いておきたい娘の心情が見えて考えれば考えるほど哀しい映画だなと想いました。
また女と女の同性愛も出てきます。(またかっこいいんですよねこの相手の女性が、たぶんこんな男らしくて繊細そうな女性が側にいたら惚れてしまうのだろうなと想いました。)
この娘はたぶん父親を知らない娘だと想うのですが、その娘が父親を求めるように男に依存するのではなく、あくまで女(雌)という性に拘っているところが見所で珍しいものにも感じました。
男性というものを排除した世界に生きているわけですが、それでも恋人の女性はすごく男らしさのある女性だったりで、女性のなかにある男性性と父性を求めているんですよね。
そういう願望は自分にもあるものだと気づいていますが、女と女が一緒になっても自分の子孫を残していくことができないという絶望が幻想を見るとき、やっぱりそれは幼い少女への同化願望として現れやすいんじゃないかと想いました。
自分自身が自分の娘となって生きたいという願望ですね。
そして自分を同時に母親として幻想することで娘である自分が無償に自分自身である母親から愛されようとする心理です。
だから女である自分が年をとるほどロリコンへ走っているのが頷けます。
男への幻滅を知っていくほど女はロリコンへと走ることでしょう。
少女を自分に同化してその少女を自分の娘時代として愛していくことが幸せなことだと気づくわけです。
男はどうしたって、生物的な本能で浮気をしやすい生き物です。
いつかは自分を見棄てていくという不安を親の愛を男で補おうとする女はいつまでも克服できません。
親の愛情飢餓に生きる女は一生男に安心しつづけて生きることは不可能なのです。
だから誘拐するときは決まってだいたいが、女は少女を誘拐するはずです。
病んだ女ほど、少女への幻想が深いはずです。
殺してでもそばへ置いておきたいという願いは自分のなかにある親の愛の倒錯したものであって、子供を産めない女の切実な依存を伴った深い愛です。
だからこの映画がどこまでも母と娘の物語であるということが非常に哀しいなあとわたしは想って、同時に女であることの喜びとはそこにあるんだろうなと感じました。
そして先ほど観た「somewhere」はこれは父と娘の物語でありました。
ソフィア・コッポラ監督の映画は「ヴァージンスーサイズ」と「マリーアントワネット」の二つを観たことがあって二つとも好きな映画です。
ストーリー
ハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ。
彼はロサンゼルスのホテル“シャトー・マーモント"を仮住まいにし、
高級車を乗り回してはパーティーで酒と女に明け暮れ、まさにセレブリティらしい華やかな生活を送っていた。
しかし、それらはいずれも孤独な彼の空虚感を紛らわすだけのものに過ぎなかった。
そんな彼のもとに前妻と同居する11歳の娘クレオが訪れる。
自堕落な日常を過ごす彼だったが、母親の突然の長期不在により、無期限でクレオの面倒を見ることになった。
やがて、映画賞の授賞式出席のためクレオと一緒にイタリアへと向かうジョニーだったが…。
若く奔放的で父親らしいところがほとんどない父親ですがそれでも娘を愛する普遍的な親の愛が伝わってくるというのはそれだけでぐっとくるものがあります。
この父親ジョニーはたぶん言ってみれば”無趣味”な男なんですよね。だからといって仕事を愛しているわけでもない。
毎晩のように”美女”たちとの肉体の快楽に耽ってもまったくその胸に広がった孤独と空虚が慰められる一瞬もないというくらいにこの男は何かに飢えきっている。
ここではない「somewhere(どこか)」をひたすら求めているが、そこへ向かうことができない。
それでも素直な娘クレオと過ごす時間が自分にとってどれくらい大切なものであるかをこの男は気づいていく。
11歳っていうとあともう少しで男の子に本気で恋をしだしたりして父親から少しずつ離れていこうとする前の貴重な時期です。
娘が本気で男では父親だけを求めようとしている最後の期間といってもいい。
限りのある”期限のある”その時間を父ジョニーは娘クレオと共にすることで、自分が喪ってしまったものがどれほど自分にとって大きなものであったかを知るのだと想いました。
だから娘が帰ってしまったあとに父ジョニーは別れた妻に電話で自分がどんな存在であるかを伝えます。
今まできっと強がってばかりいた男が自分がどれだけ弱い人間であるかを告白してラストに向かいます。
この映画もすごくいいラストでした。
母親の記憶のない自分の両親は相思相愛だと聴いていましたが、それでも母はものすごい父の性格に苦労したようです。
両親の離別というものがどれほど子供にとって哀しいもので絶望的な世界を創りあげるかは昔に「Papa told me」という榛野なな恵の漫画を読んで確か知りました。
きっとそれは聖書の創世記のエデンの園を追い出されるくらいのショックと深い悲しみなんだとわたしは想いました。
両親が仲良く幸せなことが子供の絶対的な幸せと安心を創りあげていて、それを失う子供というのは神と楽園(居場所)を喪うくらいのどうしようもない苦しみで哀しみであるのだと。
それがこの映画でもすごく伝わってきました。
なのに娘はそんなそぶりも見せずにけなげに毎日を元気に生きようとしているっていうのがまた泣かせますね。
「パパにはこうあってほしい」っていうのは絶対娘はあるのですが、それを口にできないのは父親への尊敬の深さと、父は自分のものではもうないんだっていう諦めがあるからだと想いました。
その分ママにはなんでも言えるような関係であってほしいと想うのですが、きっと子供は自分と離れていったと感じるほど親には言いたいことを言えなくなるんじゃないかな。
パパがいなくなって、ママもいなくなることをものすごく恐怖しているのにそれに耐えて笑ったりしている子供ってほんとうにけなげなものですね。
子供って素直だから癒されるけれど、そうやってたくさんのことを我慢して笑っているからその強さにも親は癒されて慰められるんだろうなと感じます。
娘クレオがいちばんに求めるのはママとパパと自分の三人で暮らす幸せな時間が帰って来ることなのですが、父ジョニーの求めていた「somewhere(どこか)」もやっぱりおんなじものだったんだって気づいたことでジョニーはやっと精神の状態が変わることができるんですね。
ソフィア・コッポラ監督の父親フランシス・フォード・コッポラ監督との関係の濃さと切ない情感を垣間見れた感じがします。
前者の「スマイルコレクター」は”美しい破滅”を描き、後者の「somewhere」は”ひとつの進展”の姿を描いていますがどちらの物語が劣ってどちらが優れているわけでもないという、そこにある人生(物語)の価値はまったく同じ重さなんだと感じました。
破滅も進展もどちらも同じほど人を感動させられるものです。
もっとも”進展”のほうはまだその人間の人生の完結には至っていませんが、物語としては完結なんですよね。
だからこそ”物語”は人を感動させられるものなんだと想います。
両方フランス映画でしたね。二つともまた偶然に親と子の物語でした。
小説の参考もかねて、最近ロリコン気味なようなので少女の出ている映画を観たくて借りましたが両方とも満足できる良い映画でした。
「スマイルコレクター」のほうはスリラー・ミステリーのジャンルになっていますがオマージュにもなっている「羊たちの沈黙」もわたしはまだ観れていなくてこういうジャンルのものはあまり観ないのですが、この映画は深く共感できてとても面白いものでした。
■ストーリー■
失業中のヴィゴとシルヴァンは、憂さ晴らしのドライブ中に、見知らぬ男を撥ねた。
その男が持っていたバッグには、200万ユーロの大金が・・・。
それは数日前に誘拐され、事件の翌朝、現場付近の廃屋で扼殺体で発見された少女の為の身代金だった。
少女の遺体には80年代に流行した、アナベル人形と同じドレスが着せられ、その口元には謎の微笑が浮かんでいた。
プロファイリングを得意とするリューシー巡査長(メラニー・ロラン)は、人手不足の為、事件の捜査に駆り出される。
リューシーは、これまでに独学で習得した知識を駆使し、ひき逃げ事件と、誘拐殺人事件の犯人像を割り出していく。
着実に犯人へと近づくリューシーだったが、その捜査過程で封じたはずの、自分の過去と事件との因縁が見え隠れし始める。
そしてまた、新たに少女が誘拐された・・・
内容は二つともまったく知らずに観ました。
ネタバレになりますが、こちらは娘と母親の映画で娘の執着的な母の死への恐怖と願望がある異常な行動に向かわせるという物語になっています。
母親を人形(腐敗もせずに死ぬことのない存在)として側へ置いておきたい娘の心情が見えて考えれば考えるほど哀しい映画だなと想いました。
また女と女の同性愛も出てきます。(またかっこいいんですよねこの相手の女性が、たぶんこんな男らしくて繊細そうな女性が側にいたら惚れてしまうのだろうなと想いました。)
この娘はたぶん父親を知らない娘だと想うのですが、その娘が父親を求めるように男に依存するのではなく、あくまで女(雌)という性に拘っているところが見所で珍しいものにも感じました。
男性というものを排除した世界に生きているわけですが、それでも恋人の女性はすごく男らしさのある女性だったりで、女性のなかにある男性性と父性を求めているんですよね。
そういう願望は自分にもあるものだと気づいていますが、女と女が一緒になっても自分の子孫を残していくことができないという絶望が幻想を見るとき、やっぱりそれは幼い少女への同化願望として現れやすいんじゃないかと想いました。
自分自身が自分の娘となって生きたいという願望ですね。
そして自分を同時に母親として幻想することで娘である自分が無償に自分自身である母親から愛されようとする心理です。
だから女である自分が年をとるほどロリコンへ走っているのが頷けます。
男への幻滅を知っていくほど女はロリコンへと走ることでしょう。
少女を自分に同化してその少女を自分の娘時代として愛していくことが幸せなことだと気づくわけです。
男はどうしたって、生物的な本能で浮気をしやすい生き物です。
いつかは自分を見棄てていくという不安を親の愛を男で補おうとする女はいつまでも克服できません。
親の愛情飢餓に生きる女は一生男に安心しつづけて生きることは不可能なのです。
だから誘拐するときは決まってだいたいが、女は少女を誘拐するはずです。
病んだ女ほど、少女への幻想が深いはずです。
殺してでもそばへ置いておきたいという願いは自分のなかにある親の愛の倒錯したものであって、子供を産めない女の切実な依存を伴った深い愛です。
だからこの映画がどこまでも母と娘の物語であるということが非常に哀しいなあとわたしは想って、同時に女であることの喜びとはそこにあるんだろうなと感じました。
そして先ほど観た「somewhere」はこれは父と娘の物語でありました。
ソフィア・コッポラ監督の映画は「ヴァージンスーサイズ」と「マリーアントワネット」の二つを観たことがあって二つとも好きな映画です。
ストーリー
ハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ。
彼はロサンゼルスのホテル“シャトー・マーモント"を仮住まいにし、
高級車を乗り回してはパーティーで酒と女に明け暮れ、まさにセレブリティらしい華やかな生活を送っていた。
しかし、それらはいずれも孤独な彼の空虚感を紛らわすだけのものに過ぎなかった。
そんな彼のもとに前妻と同居する11歳の娘クレオが訪れる。
自堕落な日常を過ごす彼だったが、母親の突然の長期不在により、無期限でクレオの面倒を見ることになった。
やがて、映画賞の授賞式出席のためクレオと一緒にイタリアへと向かうジョニーだったが…。
若く奔放的で父親らしいところがほとんどない父親ですがそれでも娘を愛する普遍的な親の愛が伝わってくるというのはそれだけでぐっとくるものがあります。
この父親ジョニーはたぶん言ってみれば”無趣味”な男なんですよね。だからといって仕事を愛しているわけでもない。
毎晩のように”美女”たちとの肉体の快楽に耽ってもまったくその胸に広がった孤独と空虚が慰められる一瞬もないというくらいにこの男は何かに飢えきっている。
ここではない「somewhere(どこか)」をひたすら求めているが、そこへ向かうことができない。
それでも素直な娘クレオと過ごす時間が自分にとってどれくらい大切なものであるかをこの男は気づいていく。
11歳っていうとあともう少しで男の子に本気で恋をしだしたりして父親から少しずつ離れていこうとする前の貴重な時期です。
娘が本気で男では父親だけを求めようとしている最後の期間といってもいい。
限りのある”期限のある”その時間を父ジョニーは娘クレオと共にすることで、自分が喪ってしまったものがどれほど自分にとって大きなものであったかを知るのだと想いました。
だから娘が帰ってしまったあとに父ジョニーは別れた妻に電話で自分がどんな存在であるかを伝えます。
今まできっと強がってばかりいた男が自分がどれだけ弱い人間であるかを告白してラストに向かいます。
この映画もすごくいいラストでした。
母親の記憶のない自分の両親は相思相愛だと聴いていましたが、それでも母はものすごい父の性格に苦労したようです。
両親の離別というものがどれほど子供にとって哀しいもので絶望的な世界を創りあげるかは昔に「Papa told me」という榛野なな恵の漫画を読んで確か知りました。
きっとそれは聖書の創世記のエデンの園を追い出されるくらいのショックと深い悲しみなんだとわたしは想いました。
両親が仲良く幸せなことが子供の絶対的な幸せと安心を創りあげていて、それを失う子供というのは神と楽園(居場所)を喪うくらいのどうしようもない苦しみで哀しみであるのだと。
それがこの映画でもすごく伝わってきました。
なのに娘はそんなそぶりも見せずにけなげに毎日を元気に生きようとしているっていうのがまた泣かせますね。
「パパにはこうあってほしい」っていうのは絶対娘はあるのですが、それを口にできないのは父親への尊敬の深さと、父は自分のものではもうないんだっていう諦めがあるからだと想いました。
その分ママにはなんでも言えるような関係であってほしいと想うのですが、きっと子供は自分と離れていったと感じるほど親には言いたいことを言えなくなるんじゃないかな。
パパがいなくなって、ママもいなくなることをものすごく恐怖しているのにそれに耐えて笑ったりしている子供ってほんとうにけなげなものですね。
子供って素直だから癒されるけれど、そうやってたくさんのことを我慢して笑っているからその強さにも親は癒されて慰められるんだろうなと感じます。
娘クレオがいちばんに求めるのはママとパパと自分の三人で暮らす幸せな時間が帰って来ることなのですが、父ジョニーの求めていた「somewhere(どこか)」もやっぱりおんなじものだったんだって気づいたことでジョニーはやっと精神の状態が変わることができるんですね。
ソフィア・コッポラ監督の父親フランシス・フォード・コッポラ監督との関係の濃さと切ない情感を垣間見れた感じがします。
前者の「スマイルコレクター」は”美しい破滅”を描き、後者の「somewhere」は”ひとつの進展”の姿を描いていますがどちらの物語が劣ってどちらが優れているわけでもないという、そこにある人生(物語)の価値はまったく同じ重さなんだと感じました。
破滅も進展もどちらも同じほど人を感動させられるものです。
もっとも”進展”のほうはまだその人間の人生の完結には至っていませんが、物語としては完結なんですよね。
だからこそ”物語”は人を感動させられるものなんだと想います。