『エコール』(原題:Innocence、邦題:École)という19世紀の作家フランク・ヴェデキントの短編小説を基にした2004年の映画を観た。
監督はフランスのルシール・アザリロヴィック監督、女性ですね。
【ストーリー】
高い塀で下界を遮断された森の中の学校、エコール。
6歳から12歳までの少女たちが自然の生態やダンスを学んでいる。
髪には学年を区別する7色のリボン。
かわいらしい制服は清楚な白。
深い森と青い空を映す湖の前で、妖精のように戯れる少女たち。
男性のいない完璧な世界にまた一人、6歳の少女イリスがやってきた…。
彼女たちは卒業まで外と接することなく、7年間学校の中で過ごす。
卒業のとき、彼女たちの胸に去来するのは、開放の喜びなのか、新しい世界への恐怖なのか?少女たちは一体どこへ行くのだろうか…。
2004年 ベルギー/フランス/イギリス合作
この映画はずっと前から気になってたのですがようやく観れました。
わたしは一応女なのですがここ何年か前からどうもロリコンの気(け)が出てきてしまったみたいでここ最近特に少年よりも少女が可愛く想えて仕方ないのでこの映画は幻想的な映画というのもあって期待して観ました。
非常に謎深い映画なのですがわたしはこの映画の謎を多分解いてしまいました。
なぜ、なにゆえに少女たちは7年間もの期間を塀で囲まれた森の奥地の学校に軟禁されているのか?
しかもなにゆえに学校には異性という男の存在が誰一人とていないのか。
解きました。その秘密を。
それはこの少女たちをここに連れてきてここで教育させている人物が、この少女たちを引き取る存在たちだからです。
その人物たちはどうしても自分の連れてきた少女に13歳(初潮を迎えるくらいの時期)までの7年もの期間絶対に、異性と会わせたくないという明確なる願望のある人物であるはずです。
だからこの外界から離された森の奥にある寄宿舎では召使や教師そのすべてを女性に任せているのです。
では少女たちを連れてこさせる人物はなぜ、あえて自分で軟禁はせずにこの学校へ連れてくるのか。
それは、自分と少女は7年もの間離れる必要のある人間だということです。
何故、離れる必要があるのか?
それは、最低7年間ほどは離れないと少女とは一緒になれない人間だからではないだろうか?
”一緒になる”とはつまり、男と女として一緒になるということ、夫婦的な関係になるということで、少女に自分の子どもを産ませる必要がある人間ではないでしょうか。
最低7年間は離れないと少女とは一緒になれない関係にある人間とは、すなわち禁じられた関係にある人間ではないか?
7年間も離れていたらば少女は自分のことをもうほとんど忘れてしまってるかもしれない。
否、憶えていたとしても7年間離れていたなら、自分を夫として観てくれるかもしれないと期待する男、それはいったい誰かと言うと。
それってもしかして、少女の父親ではないのでしょうか?
我が娘を自分だけのものにしておきたいという偏愛の著しい父親たちが自分の娘を将来の妻として迎え、自分の子どもを産ませようと企んでいるため、娘を外界から離してさらに異性と離すことで異性への幻想を最大に膨らませ、踊りを観客に観せることで自分を迎え入れる男性への夢を抱かせつづけるために、大事な大事な娘を森の奥の寄宿舎へ預けるわけです。
勿論、父親は自分の娘の踊りをいつも楽しみに観に来てることでしょう。
娘を預ける父親はみな妻のいない父親のはずです。
そして一人娘以外には自分の子どもがおらず、自分の身内もいないような孤独な人間であるのかもしれません。
だから父親は娘が成長して自分のもとから巣立っていけばひとりぽっちになることを恐れたために娘を預けて我が将来の妻として迎え入れようと想ったのでしょう。
そうでなかったのなら、もしパトロンの将来の性奴隷(少女性愛者のための娼婦)のための養育とでもいうのなら、なんのために6歳から13歳というロリコン好きの人間からしたら一番可愛らしくて美しい良い時期を寄宿舎へ預けてしまうかが解りません。
ただの成長した性奴隷を育成するため、またはただの変わった孤児院であったというのではあんまり面白くないではありませんか。
この映画で蝶と少女をかけているというのは解りますが、美しく羽化した蝶は果たしてまったく他人であるパトロンをそこまで愛するでしょうか。
女教師が捕らえた蝶を注意深くその羽を広げて針に刺して額に収めようとしているシーンは確かにパトロン的な存在を暗に示しているように観えますが、この映画を最も狂気の潜む美しい映画として成り立たせるにはただのパトロンでは役不足です。
やはり、ここは”近親禁忌劇”という人類の永遠のタブーを入れなくては幻想的耽美映画としては物足りなさが出てきてしまうのではなかろうか~。
だからこそ塀の外へ出れば罰を与えられると脅されていたのです。
大事な娘が逃げてしまっては大変だからです。
6歳から預けるというのも父親がぎりぎりまで愛娘と一緒におりたいという願いが見えてくるようです。
いやぁ、そう想えば想うほど悲しくも美しく儚いダークな世界を切り取った映画であります。
みずうみの底みたいにダークで、ディープな映画です。
ラスト、ごぼごぼごぼごぼっつって溺れるような音と共に水の底にいって終わりますでしょ。
あれは少女たちがこれから本当の闇に向き合う、つまり自分の父親との闇なる再会劇が待ち構えているということの示唆でありましょうな。
また天界から地上界への堕落という暗示も見えました。
という、以上、自分の願望による偏った考察&解読でした。
監督はフランスのルシール・アザリロヴィック監督、女性ですね。
【ストーリー】
高い塀で下界を遮断された森の中の学校、エコール。
6歳から12歳までの少女たちが自然の生態やダンスを学んでいる。
髪には学年を区別する7色のリボン。
かわいらしい制服は清楚な白。
深い森と青い空を映す湖の前で、妖精のように戯れる少女たち。
男性のいない完璧な世界にまた一人、6歳の少女イリスがやってきた…。
彼女たちは卒業まで外と接することなく、7年間学校の中で過ごす。
卒業のとき、彼女たちの胸に去来するのは、開放の喜びなのか、新しい世界への恐怖なのか?少女たちは一体どこへ行くのだろうか…。
2004年 ベルギー/フランス/イギリス合作
この映画はずっと前から気になってたのですがようやく観れました。
わたしは一応女なのですがここ何年か前からどうもロリコンの気(け)が出てきてしまったみたいでここ最近特に少年よりも少女が可愛く想えて仕方ないのでこの映画は幻想的な映画というのもあって期待して観ました。
非常に謎深い映画なのですがわたしはこの映画の謎を多分解いてしまいました。
なぜ、なにゆえに少女たちは7年間もの期間を塀で囲まれた森の奥地の学校に軟禁されているのか?
しかもなにゆえに学校には異性という男の存在が誰一人とていないのか。
解きました。その秘密を。
それはこの少女たちをここに連れてきてここで教育させている人物が、この少女たちを引き取る存在たちだからです。
その人物たちはどうしても自分の連れてきた少女に13歳(初潮を迎えるくらいの時期)までの7年もの期間絶対に、異性と会わせたくないという明確なる願望のある人物であるはずです。
だからこの外界から離された森の奥にある寄宿舎では召使や教師そのすべてを女性に任せているのです。
では少女たちを連れてこさせる人物はなぜ、あえて自分で軟禁はせずにこの学校へ連れてくるのか。
それは、自分と少女は7年もの間離れる必要のある人間だということです。
何故、離れる必要があるのか?
それは、最低7年間ほどは離れないと少女とは一緒になれない人間だからではないだろうか?
”一緒になる”とはつまり、男と女として一緒になるということ、夫婦的な関係になるということで、少女に自分の子どもを産ませる必要がある人間ではないでしょうか。
最低7年間は離れないと少女とは一緒になれない関係にある人間とは、すなわち禁じられた関係にある人間ではないか?
7年間も離れていたらば少女は自分のことをもうほとんど忘れてしまってるかもしれない。
否、憶えていたとしても7年間離れていたなら、自分を夫として観てくれるかもしれないと期待する男、それはいったい誰かと言うと。
それってもしかして、少女の父親ではないのでしょうか?
我が娘を自分だけのものにしておきたいという偏愛の著しい父親たちが自分の娘を将来の妻として迎え、自分の子どもを産ませようと企んでいるため、娘を外界から離してさらに異性と離すことで異性への幻想を最大に膨らませ、踊りを観客に観せることで自分を迎え入れる男性への夢を抱かせつづけるために、大事な大事な娘を森の奥の寄宿舎へ預けるわけです。
勿論、父親は自分の娘の踊りをいつも楽しみに観に来てることでしょう。
娘を預ける父親はみな妻のいない父親のはずです。
そして一人娘以外には自分の子どもがおらず、自分の身内もいないような孤独な人間であるのかもしれません。
だから父親は娘が成長して自分のもとから巣立っていけばひとりぽっちになることを恐れたために娘を預けて我が将来の妻として迎え入れようと想ったのでしょう。
そうでなかったのなら、もしパトロンの将来の性奴隷(少女性愛者のための娼婦)のための養育とでもいうのなら、なんのために6歳から13歳というロリコン好きの人間からしたら一番可愛らしくて美しい良い時期を寄宿舎へ預けてしまうかが解りません。
ただの成長した性奴隷を育成するため、またはただの変わった孤児院であったというのではあんまり面白くないではありませんか。
この映画で蝶と少女をかけているというのは解りますが、美しく羽化した蝶は果たしてまったく他人であるパトロンをそこまで愛するでしょうか。
女教師が捕らえた蝶を注意深くその羽を広げて針に刺して額に収めようとしているシーンは確かにパトロン的な存在を暗に示しているように観えますが、この映画を最も狂気の潜む美しい映画として成り立たせるにはただのパトロンでは役不足です。
やはり、ここは”近親禁忌劇”という人類の永遠のタブーを入れなくては幻想的耽美映画としては物足りなさが出てきてしまうのではなかろうか~。
だからこそ塀の外へ出れば罰を与えられると脅されていたのです。
大事な娘が逃げてしまっては大変だからです。
6歳から預けるというのも父親がぎりぎりまで愛娘と一緒におりたいという願いが見えてくるようです。
いやぁ、そう想えば想うほど悲しくも美しく儚いダークな世界を切り取った映画であります。
みずうみの底みたいにダークで、ディープな映画です。
ラスト、ごぼごぼごぼごぼっつって溺れるような音と共に水の底にいって終わりますでしょ。
あれは少女たちがこれから本当の闇に向き合う、つまり自分の父親との闇なる再会劇が待ち構えているということの示唆でありましょうな。
また天界から地上界への堕落という暗示も見えました。
という、以上、自分の願望による偏った考察&解読でした。