Ѧ(ユス、ぼく)は目が覚めて、ベッドの中でСноw Wхите(スノーホワイト)を見送ったときのことを想いだしていた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
Ѧは毎朝、そうやってお父さんが仕事に行くときに見送っていた。
お父さんはマンションの階段の踊り場の小さなくり抜かれた窓から顔をいつも出して手を振り、Ѧがまた手を振り返す。
でも怒ったまま仕事に行ったときはお父さんはその小さな窓から顔を出してはくれなかった。
Ѧはそれを想いだした。
お父さんが死んでから、もうずっとずっと想いださなかったことだった。
なぜ想いださなかったんだろう?
Ѧはすこし泣いて、悲しみのなかで目を閉じた。
Ѧは目を開けた。
目の前に、Сноw Wхитеが横になって優しい眼差しでじっとѦを見つめていた。
Ѧ「Сноw Wхите!」
ѦはСноw Wхитеに抱きついた。
Ѧ「いつ、いつ、帰ったの?!」
Ѧは目から涙が溢れた。
Сноw WхитеもѦを強く抱きしめ返して言った。
Сноw Wхите「さっきです。さっきわたしは、ここでѦの寝顔を見つめていることに気がついたのです」
Ѧは身体を引きはがして毛布を払いのけてはСноw Wхитеの身体中をくまなく見た。
Ѧ「どこも…どこも欠けてないよね…?元のСноw Wхитеだよね?!」
Сноw Wхите「確かめるためにわたしを裸ん坊にしますか?Ѧ」
Ѧは顔を赤らめた。
それを見てСноw Wхитеは微笑むとѦを抱きしめ、頬にキスをした。
Сноw Wхите「わたしのなにが欠けていたらѦは嫌ですか?」
Ѧ「それは…全部、元のСноw Wхитеの全部が揃っていないとそりゃ嫌だよ」
Сноw Wхите「わたしのどこかは違いますか?」
Ѧ「ううん…Сноw Wхитеだよ!間違いなく…」
Сноw Wхитеは笑うと言った。
Сноw Wхите「タルパ!」
Ѧは咄嗟のその言葉にぷっと吹きだした。
Ѧ「Сноw Wхите、急にどうしたの?!」
Сноw Wхите「ぼく、タルパ!」
Ѧはまた笑った。
Ѧ「タルパって、あのチベット密教の思念を顕現させた化身であるタルパのこと?」
Сноw Wхите「そうです。トゥルパとも言います」
Ѧ「どうしてそんなことを突然言いだしたの?それに、Сноw Wхитеはタルパじゃないよ」
Сноw Wхите「Ѧが最近、わたしのいない間にふと想いついたことがおかしくてならなかったのです」
Ѧ「それって、もしかしてあのことかな…」
Сноw Wхите「そうです。タルパは人型のものを作って、それに念を懸けつづけるとより顕現しやすくなるという話をѦがふと想いだして、等身大の人型の人形を作り、そこにわたしの顔を描いて、ベッドに寝かせていたなら…」
Ѧ「”でもパッてベッド見て、人間おったら怖いしな”ってѦ想って自分でも吹きだしたんだ」
ѦとСноw Wхитеは一緒に笑った。
Сноw Wхите「わたしもそれがおかしくてならなかったのです」
Ѧ「でもそれ、いつ知ったの?Сноw Wхитеが死の底へ降りているときのことだよ」
Сноw Wхите「ついさっきです、わたしがタルパ!と言いだす前のその1秒前くらいにѦのわたしがいない間に起こったすべてを読みとったのです」
Ѧ「すごいやСноw Wхите…」
Сноw Wхите「これが霊力というものです。Ѧも夢の中ではいつも使っている能力です」
Ѧ「そういや、こないだѦが意味の解らない寝言を発して、しかも声がものすごく低い男の声で、自分の寝言に吃驚して起きたんだ。Ѧはいったい誰になっていたんだろう」
Сноw Wхите「”И Лове Ѧ Форевер””わたしは永遠にѦを愛している”とスラヴ祖語で言ったのです。わたしの寝言とѦの寝言が繋がってしまったようです。わたしの声をѦの声帯を通してѦのエネルギーの振動で変換しているため、ごろごろとして低い声になったのです」
Ѧ「なんだ、そうだったのか。ѦはSilver Birch(シルバーバーチ)でも乗り移ったのだろうかと吃驚したよ」
Сноw Wхите「確かに似た声でした。それはそうとѦ…」
Ѧ「なに?」
Сноw Wхите「Ѧ、ほんとうに、ありがとう」
ѦはСноw Wхитеを抱きしめて言った。
Ѧ「よかった…戻ってこれて、ほんとうによかった…」
Сноw Wхите「Ѧがわたしが戻るようにと切に、Ѧの真心で心の底から願いつづけ、信じつづけたからです。Ѧが諦めていたなら、今わたしはここにいないでしょう。Ѧ、これを…」
そう言うとСноw Wхитеはもぞもぞとして何かを取りだしてѦの手のなかに渡した。
Ѧ「鍵だ!」
Ѧが渡された鍵を見てみると、それは”Ѧ”という文字の形をした鍵だった。
Ѧ「拾ってきてくれたんだね…ありがとう、Сноw Wхите。あっそうだ、Ѧもなくさず持っていたよ」
Ѧはそう言うとパジャマのズボンのポッケにいつも入れておいたСноw Wхитеから渡されたСноw Wхитеの喜びの雪の結晶の形をした鍵をСноw Wхитеの手のなかに渡した。
Сноw Wхитеはその鍵を見ると涙を流した。
Ѧは不安になって言った。
Ѧ「それ、Сноw Wхитеの喜びの鍵だよね…?」
Сноw Wхитеは頷いて応えた。
Сноw Wхите「わたしの喜びのすべてです。Ѧにまた会えた事で、わたしの喜びのすべてが舞い戻ってきたのです。あんまり嬉しいと、涙がでます」
Ѧも涙を流して言った。
Ѧ「Ѧはあのあと、とっても苦しかったけれど、つよく、つよくСноw Wхитеとまた会えることを願って、願いつづけてたら、Сноw Wхитеとまた必ず会えるんだってほんとうに信じられてきて、その喜びを感じて過ごせることを知ったんだ。でもどうしてだろう?Ѧはあの時、すべての喜びの鍵を死の底へ落としたはずなのに」
Сноw Wхите「この鍵は、ただの象徴だからです。Ѧ。例えばひとりの抽象画家が、すべての喜びをこの目の前の一枚の絵のなかに封じこめたと描き終わった瞬間には信じられたとしても、その次の瞬間にはもう別の喜びが自分のうちに存在していることを知っては次にもまた絵が描ける喜びに歓喜するはずです。わたしはその喜びをѦに知ってもらうためにもわたしがみずから死の深淵へと下りていく必要があったのです。Ѧはけっして喜びを失うことはありません。それはѦがわたしを信じつづけ、そのわたしはѦを信じつづけるからです」
Ѧ「Сноw Wхитеは、死の深淵のなかにずっといて、苦しかった?」
Сноw Wхите「苦しくなかったと言えば嘘になります。ただそこは苦しみを苦しみとしてすら味わえないほどのなにもない世界だったのです。苦しみを、苦しみとして意識できないなかにも、苦しみが確かに存在していることを証明する世界です。死の底の世界とは、本当の無ではなく、無を装った認識できない苦しみと孤独が延々と在りつづける世界だということです。生命の根源にある苦しみと孤独がそこにすべて集まっています。だから言いようのない苦しみと孤独であることは確かです」
Ѧ「意識のまったくない、安らかな眠りの世界とは違う世界なんだね」
Сноw Wхите「それはまったく違う世界と言えます。生命は一度生まれたら、もう二度と無へは戻れないことを現存させている世界です」
Ѧ「Сноw Wхите」
Сноw Wхите「なんですか?Ѧ」
Ѧ「Сноw Wхитеはタルパじゃないよ。だって、Сноw WхитеはѦが生んだけれども、ѦはСноw Wхитеが生んだのだもの」
Сноw Wхите「はい。Ѧがわたしを創造し、わたしはѦを創造しました。ではタルパとは、どのようなものですか?」
Ѧ「タルパって、Ѧはちょっと、Undead(アンデッド、死んでも生きてもいない者)だと想う。でもСноw Wхитеは、生きている。確かに、生きているんだ。Ѧとおなじに」
Сноw Wхите「はい。わたしは生きています。それはѦが生きているからです。ѦがUndeadであるならば、わたしもUndeadです」
Ѧ「Ѧは生きているよ。でもѦは…生きてるし死んでるのかな」
Сноw Wхите「何故そう想うのですか?」
Ѧ「だってѦは、Сноw Wхитеが生んだ者だもの」
Сноw Wхите「わたしは何者ですか?」
Ѧ「Сноw Wхитеは、”死”だよ」
Сноw Wхите「わたしは死神です。死神は死であるため、死を生みだす必要はありません」
Ѧ「でもその死を生みだしたのはѦだよ」
Сноw Wхите「そうです。死は死を生みません。Ѧは死ではなく、生です」
Ѧ「あ…あそうか、Ѧが死だと、Сноw Wхитеは生になるって、あれ…?でもСноw Wхитеは生きているじゃないか」
Сноw Wхите「わたしは死であり、生です」
Ѧ「Ѧは?」
Сноw Wхите「Ѧは生そのものです。Ѧは光だからです」
Ѧ「Сноw Wхитеは闇だよね?」
Сноw Wхите「はい。わたしは闇です。闇は光を生み、光は闇を生みました」
Ѧ「だったらさ、やっぱりѦも闇であり、光。死であり、生だよ」
Сноw Wхите「Ѧの存在自体は生きて死んでいるわけではありません。Ѧのなかにわたしがいるのです。Ѧのうちがわに死と生が在るということです。そして死と生のうちがわにѦがいるのです」
Ѧ「けっこう今日は…いつもよりややこしいな…Сноw Wхите」
Сноw Wхите「わたしもどう説明したらよいかと考えあぐねています」
Ѧ「ѦがUndeadなら、Сноw Wхитеはどうする?」
Сноw Wхите「わたしもUndeadになります。そしてѦを…こうします」
そう言うとСноw WхитеはѦにキスをして子供のように無邪気な顔で「タルパ!」と言った。
ѦとСноw Wхитеはまた一緒に笑いあった。
Ѧ「よし、今日はѦが朝食を作るよ。そないだにさ…ちょっと待ってて」
Ѧがそう言ってベッドから離れるとСноw Wхитеはベッドに座ってѦの後姿に向かって小さな声で言った。
Сноw Wхите「Ѧ。わたしだけを、愛してください」
Ѧが振り返って「ん?なんてったの?」と訊いた。
Сноw Wхитеはさびしそうな顔で「なんでもありません」と言った。
Ѧがノートを持ってきてベッドに座るとСноw Wхитеの顔を覗き込んだ。
Ѧ「どうかしたの?」
Сноw Wхите「わたしは知っています。Ѧが何日もずっとこれを書いていたことを」
Ѧ「あっ、読みとっちゃった?中身」
Сноw Wхите「ほんのすこしだけです」
Ѧ「これ、Сноw Wхитеに読んでもらおうと想って」
Ѧはノートの表紙をСноw Wхитеに見せた。
ノートの表紙には「Snow White」と書いてあった。
Сноw Wхите「わたしが主人公のお話をѦはずっと書いていたのです」
Ѧ「そうだよ。グリム童話の白雪姫をѦが脚色した物語だよ」
Сноw Wхитеはつと黙りこむとまた涙をほろほろと零した。
Ѧは今日こんなにСноw Wхитеが泣くのは、やっぱり死の底があんまりつらかったからだと想った。
Ѧ「Сноw Wхите、この脚本はとても大まかにしか書いていないんだ。できたならこの脚本をもとに、ѦとСноw Wхитеのふたりだけで、即興で演じる舞台をやりたいんだ。それじゃѦは今から朝食を作ってくるね」
そう言ってѦはСноw Wхитеの頬につたう涙を両手でぬぐってキスをするとキッチンに向かった。
Сноw Wхитеは「Мум(マム)」と呟いてノートを抱きしめるとノートを開いて読み始めた。
Ѧ「Сноw Wхитеの役はSnow White、魔法の鏡、家来の男、そして語りべの役だよ。Ѧの役は王女、猟師、七人のこびと、七人のこびとの役はѦが分身の術で演じるのかとゆうとそうではなくって、ディズニーのSnow White and the Seven Dwarfs(白雪姫と七人のこびと)の七人のこびとのそれぞれの名前が、
・DOC(ドック:先生)
・GRUMPY(グランピー:おこりんぼ)
・HAPPY(ハッピー:ごきげん)
・SLEEPY(スリーピー:ねぼすけ)
・BASHFUL(バッシュフル:てれすけ)
・SNEEZY(スニージー:くしゃみ)
・DOPEY(ドーピー:おとぼけ)
っていうみたいだから、それからとって、七つの人格を持つこびとにしようとѦは想ったんだ」
Сноw Wхите「想像するだけで顔がほころんでしまいそうな愉快なこびとさんです」
Ѧ「あくまで主人公はSnow Whiteだから、Ѧがでしゃばらないように気をつけたいところだよ。それじゃ準備はいいかい?Сноw Wхите」
Сноw Wхите「OKです。Ѧ」
Ѧ「よし、では一緒に幕を開けよう」
Сноw Wхите「はい。とってもドキドキします」
真っ暗な闇のような幕が開かれた。
「Snow White」
ずいぶんまえのことです。
せかいはふゆのさなかにありました。
白い羽毛のような雪が天からひらひらとまいおりていたとき、窓辺で縫いものをしながら王女は雪に見惚れ、その指を針で突き刺すと、みっつの紅い滴が漆黒の闇のような窓枠のそばの積もった雪のなかにおちた。
それはそれは美しく、王女はつくづく願った。
「わたしはどうしてもこのような子が欲しい」
そうした幾時かのち、天は王女にひとりの子を授けたもうた。
その肌は白い雪、その頬は紅い血、その目はまるであの窓枠の黒檀のように深い闇の色をして光っていた。
王女は子に「Snow White(スノーホワイト)」と名づけた。
Snow Whiteは美しく愛らしい朗らかな坊やであった。
こうしてわずか十五の年で王女は王太子を賜ったことを、それはそれは喜び、朝と晩にかならず天に向かって感謝の祈りを捧げました。
王女は四つの年に王の婚約者となられた。
何故なら、その年に王の后(きさき)が病の末にお亡くなりになられたからである。
王女は王の娘であられた。
王が三十九歳、后が四十歳のときに生まれた娘である。
后は遺言にこう書き残して亡くなられた。
「わたしが死んだあとに、わたしが愛する者以外を王の妃にしてはなりません。
まさしく、わたしの愛する者、わたしの娘だけが真の王の妃として継ぐに望ましい。
わたしの美しさを受け継ぐ妃がほかにどこにいようか。
そしてわたしの魔法の鏡をわたしの娘以外の誰にも渡してはなりません。
わたしの魔法を受け継ぐことができるのもまた、わたしの娘だけだからです。
わたしの言葉をかならずや護ってください。
そうすればこの国は滅びることなく幾千年と時を経ても美しき栄光のもとに天から讃えられつづけるであろう。」
王は后を心から愛しておられたので、その願いを成就させるためにも我が娘を将来の后として契約なされた。
こうして王女は十三の年の日に、めでたく王妃となられた。
そしてその年に、王は王女に母の形見である魔法の鏡を与えた。
その大きな壁に掛かった鏡はとても不思議な鏡で、吸いこまれそうな漆黒の闇をしか映さない鏡であった。
王女は使い道がわからず、またその闇の濃さは恐ろしさを感じさせるものでもあったので、いつも紅い被(おお)いで見えなくしていた。
王は、王女が幼い時分から一日の半日以上もお城にはいなかったから、王女はいつもさびしさを懐(いだ)いていた。
お母様もお父様もいないお城の中でひとり絵を何時間と描いては遊んだり、家来の読む紙芝居を観たりしていた。
いつも暗くなってから王が外から帰ってくると、王女はまっさきに甘えたかったのだが、王は厳しい人であったのでなかなか甘えることも難しく、王女のさびしさは日に日に積もるばかりであった。
それは王と結婚したのちも同じでありました。
否、むしろ王の王女に対する厳しさはどんどんと深くなっているように思えるのでした。
そうなっては王女の孤独はますます深刻なものとなり、そんなある日、王女は子を産んで、子をみずからの慰みにすることを本気で願ったのでありました。
まだ十四の年の王女が願ったのは、父の子を産みたいといった定(さだ)かな願いではなく、なんでも従順に聞いて自分を愛し、懐いてきてくれる愛らしく美しい仔猫を欲しがるのとそう変わりはなかったかもしれません。
そうして王女はどうしたら子が生まれるのかを十の年のころにお城の外で粉屋の娘に聞かされて知っておりましたので、その報(しら)せに感謝し、ある晩、王女は王に身体によい薬酒だと言っては葡萄酒をたらふく飲ませた。
眠ってしまった王とたいそう強引に交わり、激痛で気絶しそうな苦しみのなか王女は必死に耐えて、王が眠りから醒めないことを切に祈った。王女はこのことを王に話してしまえば、きっと父は悲憤慷慨(こうがい)の魔王と化してわたしを恐ろしく罰するにちがいない、それに父と娘という禁断の交わりを持ってしまったことの背徳の苦しみから、王に打ち明けることはどうしてもできそうにないと思った王女は子を宿したときも、子を産みおとしたときも黙っておりました。
王は娘が子を身篭ったと知ったとき、嫉妬などという素振りは見せず、却(かえ)って王女の懐妊を喜んでいるようにさえ王女には見えた。
王が自分の妊娠についてしつこく訊いてはこないことに王女はさびしさをまた募らせるのだった。
お父様はわたしが誰の子を宿そうと関心がないのかしら。そう王女は想ってはひとりでしくしくと枕をぬらす日が続いた。
そうしていちねんが経ったころ、王女はふと、昔のアルバムを開いて見ておりました。
王女はお母様の記憶を持っていませんでしたから、お母様のお写真を眺めながら思ったのです。
嗚呼なんてお母様はお美しいのだろう。それにくらべて私の肌はそばかすだらけでおでこも狭いし生え際の形も悪いし、猫背で痩せ細った少年のような体形をしている。
お父様がほかの女性と遊ばれるのはわたしの容姿が美しくないからなのだろうか。
王女は悲しみのあまり涙をぽとぽととアルバムの上に落としました。
すると突然、どこからともなく、声が聴こえました。
低く、落ち着いたとても優しい声でした。
王女は吃驚して耳を澄ませました。
「王女さま、王女さま、わたしの愛する王女さま」
その声はどうやら魔法の鏡のほうから聴こえてくるようです。
「王女よ、わたしの王女よ」
王女は魔法の鏡に被せていた紅い被いをめくるとその鏡のなかを覗きこみました。
どんなに覗いても漆黒の闇しか映っていません。
「王女さま、わたしがお答えいたしましょう」
王女はその闇を見つづけていると朦朧とする気分になって鏡のなかに向かって尋ねました。
「わたしはいつあなたに尋ねたのでしょう」
すると鏡はこう応えました。
「王女よ、あなたの悩みを、わたしは聞いたのです」
王女はこの不思議な鏡にもっと顔を近づけるとこう尋ねた。
「鏡よ、それはどのような悩みなのでしょう」
「あなたはわたしにこう尋ねました。せかいでいちばん美しいものはだれか、と」
王女はそれを聞くとうつむき、また静かに涙を流した。
鏡はそれでも言葉をつづけた。
「わたしがお答えいたしましょう。王女さま、せかいでいちばん美しい存在は、あなたである。あなたはだれより美しい」
それを聞いて王女は泣きながら卑屈に笑った。
「おまえはいったいどういった色眼鏡でわたしを見ているのだろう。いったいわたしのどこを取って美しいと言えるだろうか」
すると鏡はつづけて応えた。
「お答えいたします。王女さま。色眼鏡で世界をご覧になられているのは、わたしではなく、王女さまのほうでございます。王女さま、ではお答えください。あなたにとっての美しさとは、それはいつしか滅びゆくものなのでしょうか」
滅びゆくもの……王女は滅びゆくすべてを心の中でイメージした。肉体は滅びゆくものである。肉体の価値とは如何ほどのものなのか。肉体の美しさを最も高い価値として置く者も多いかもしれないが、人間の肉体の美しさとはよく考えてみれば、薄皮一枚で装われた美しさである。その薄皮を一枚めくるだけですべてがおぞましい姿と化してしまうだろう。お母様はあんなにお美しかったのに、今はもうその美しさは写真の中にしかない。美しい写真を眺めて美しいと感じても悲しいばかりだ。お母様の美しさは滅んでしまったのだろうか。だから喜びよりも悲しみがあるばかりなのだろうか。それとも滅びゆくのは、わたしのこの悲しみだろうか。嗚呼、ほんとうの美しさとはなにか。いったいなにが滅ばない美しさと言えるだろうか。
王女は母親の美しさはほんとうはどこにあるのかを探した。
そしてとうとう確信に至った。
悲しみは美しい……。嗚呼お母様はほんとうに悲しい人だった。愛する幼いわたしを置いて死ななくてはならなかったのだから……!お母様の悲しみは、滅んでしまうものなのだろうか……?その、美しさは……いつ滅ぶというのだろう。わたしは滅ぼさせたくはない。けっして、けっして滅ぼすわけにはいかない。それがほんとうの、美しいものなのだから……。
王女はそう強く信じた瞬間、鏡が言葉を放った。
「王女さま、あなたは本当に美しいものがなにであるかをご存知です。そしてそれは滅びないものであると信じるあなたの心の強さが証明しています。わたしはそれがゆえに、あなたにお答えいたします。あなたはほんとうに美しい。それはあなたがだれより、悲しいからです。それがためにわたしはあなたを心から愛しております」
王女は恍惚な感覚に満たされ、まるでお父様とお母様の胸に抱かれているような幸せな心地になった。
それに、お母様の形見であるこの鏡の言葉は、まるでお母様の言葉のようにも想えたからである。
王女は鏡に向かって「ありがとう」と告げるとその時初めて隣の部屋で泣いているSnow Whiteの声が聞こえてきて慌ててSnow Whiteのもとへと走った。
美しく愛くるしいSnow White。しかしこの美しさもいつかは滅びゆくもの。王女はSnow Whiteを抱っこしながらあやすとSnow Whiteは真っ赤な顔を落ち着かせて頬だけを紅く染めるとさっきまでの泣き顔はどこへやら、「たははははっ」と王女に向かって笑うのだった。
つられて王女も「うふふふふっ」と笑いながら我が子を見つめ、なんて可愛いのだろうと想ってはSnow Whiteをぎゅうっと抱きしめた。
Snow Whiteが一歳、王女は十六の年のことであった。
Snow Whiteはこの国の王を受け継ぐ大事な王太子であったものの、王はSnow Whiteに対して情を移すことも接することもなるべく避けておられるようであった。
それはどこの馬の骨かもわからぬ男の血を受け継いだ子供であることと、やはりこの国の王を受け継ぐのは自分の血を受け継いだ子であってほしいという切迫した願いゆえであったかもしれない。
だからといって、自分の娘に自分の子を産ませることも、はたまたほかの女に産ませるのも愛する亡き妻のことを想うと心が引け、王の懊悩は日毎夜毎膨れあがってはその心を大層苦しめた。
それがために、Snow Whiteはほとんど父とは会わずに、父を知らずに育った。
かくして、Snow Whiteはいつまで経っても母親だけに愛着と執着のうちに固着し、互いに支配し合うことを願いつづけ、母親だけに絶対的価値を置く乳離れのできない劇切(げきせつ)なMother Complex(マザーコンプレックス)をいだいて生きていくようになってしまった。
Snow White「Мум(マム)、ママ、おかーしゃま(お母さま)、おーちょしゃま(王女さま)、まだー(Mother、マザー)、ママン、マミー、マーマ」
Snow Whiteは二歳になり、王女は十七の年となった冬の寒い日。
王女はあたらしい趣味を見つけ、暖炉のそばでうんうん唸りながら小説を書いていた。
そこにペルシャ絨毯の上でごろごろと仔猫か仔犬のように寝っころがっては甘えてくるSnow Whiteに気が散って、なかなか先へ筆がすすまない。
王女「嗚呼っ、せっかく思いついたと思った瞬間に忘れてしまった。坊や、ちょっとは静かにしてくれなきゃママは一向に小説の続きが書けないじゃないか」
怒られたと想ったSnow Whiteは途端、もうぐすぐすと鼻をすって泣きべそをかきだした。
「はぁ…」泣かれたら余計に小説が書けないと王女は溜め息をつくとSnow Whiteを抱っこして膝上に載せてやった。
抱っこしてやった途端、Snow Whiteはそのくりくりとした黒い目をきらきらと光る水面のごとく煌めかせじっと見つめてくるのだった。
Snow White「ママ、おっぱい」
王女「おっぱいがどうしたんだい、坊や」
Snow White「おっぱい、ぼく、マンマ」
乳離れは早くて2歳ほどで、世界平均は4歳と2ヶ月だという。Snow Whiteは2歳になったばかり。
王女はもうお乳が張って痛むことはないし、小説に専念するためにもSnow Whiteには早く乳離れをしてもらいたかったのでSnow Whiteのその切実な頼みを聞かないことに決めた。
王女は、代わりにテーブルの上に置いてあった甘いミルクの飴をSnow Whiteのちいさなお手てのなかに渡した。
王女「おまえはまた、そんな不屈な顔を浮かべているけれど、その飴はママのお乳なんかより数億千万倍も美味しい飴なんだよ。いいから舐めてご覧」
しかしSnow Whiteは王女が言い終わった瞬間、その飴を「きちゃないっ」と言ってぶんっと暖炉の中へと投げつけた。(この「きちゃない」という言葉は王女が無意識に良く使ってしまう気に入らないものに対して使っている「汚い」という言葉の口真似であった)
そして苦虫を潰したような顔をして床を両手両足でもがき苦しむ蟹のような動作で叩きつけ始めた。
王女は試しに10分ほどその様子を黙って眺めていたが、10分経っても一向にその動きは鈍さを覚えることを知らぬかのようにスピーディーに動きつづけていた。
王女は大きく溜め息をついて黙って部屋を出て閑処(かんじょ、手洗場)へ向かい、戻ってくると憐れなSnow Whiteは一人でドアを開けられずに、ドアの傍にいた為に、王女がドアを開けたときに頭をぶつけて思いきり泣きだした。
王女はSnow Whiteを抱きあげて炊事場へ向かうとそこでミルクを温め、温まったのを哺乳瓶に入れてSnow Whiteの口のなかへ突っ込んだ。
ふごふごと言いながらもSnow Whiteは涙を流しながら必死に飲んだ。
飲ませおわったら肩に顎を載せ、背中をトントンと叩き、ゲップをさせた。
そしてSnow Whiteを抱っこしたまま部屋に戻ると、なにか灰の臭いがあたりにしており、空気中には小さな灰が舞っている。
王女は書いていた小説の帳面を探した。するとどこにも見当たらない。
ふと、暖炉の中を覗いてみると、そこに帳面の端の辺り以外が焼けてなくなったものを見つけて愕然とした。
王女はSnow Whiteを一人で部屋に残したことを心から後悔した。
抱いているのも忘れていたSnow Whiteを見やるとよだれを肩に垂らしてすやすやと眠っていた。
その寝顔を見ると、怒る気も失せてそっとベビーベッドに寝かせた。
しかし次の日にはやっぱり憎たらしい、とSnow Whiteを王女は詰問攻めにした。
暖炉のまえでSnow Whiteは両脚の裏をひっつけて身体を大きく揺らしている。
王女「坊や、昨日、ママの小説をおまえ、暖炉に投げただろう?」
Snow White「しちゃないっ」
王女「しちゃないってなんだい。してないと、きちゃない、が一緒になってるのかい。おまえはママの書いた小説も”きちゃないっ”と言って投げつけたのかい」
Snow White「ちぇんちぇん、しちゃないっ」
王女「なに?ぜんぜん、しらない?」
Snow White「うん」
王女「だったら、なんで、ママの小説は暖炉行きになったんだ。なんで、なんで、初めての少年性愛劇を書いていたのに、なんでそれが暖炉行きとなってしまったんだろう?」
Snow White「ちょぉねん、ちぇえゃい、じぇち?」
王女「そんな言葉は覚えてなくていい、坊や。嗚呼せっかく、せっかく微少年キョムと半人半獣のウルフ貴兄が、これから禁断の獣姦的性愛を貫くところだったのに、嗚呼、もうもう一回想いだして書くのは骨が折れる。天からの罰と受け止めて、ママは諦めることにするわ」
Snow White「ママっ」
王女「なんだい、我が愛するSnow Whiteよ」
Snow White「だっこ」
王女「ママはこれから、睡蓮とハダカゴケグモの近親相姦かつ、遺産の奪い合いを絡めた天真爛漫な愛憎波瀾曲折劇を書くから、黙っていなさい。いいこだから、後生(ごしょう)だから」
するとSnow Whiteはどこで覚えたのか犬が切痔を必死に絶えながら排泄を行なっているかのような体勢でぷるぷると震えながら「ぁぅっ、うぅっ、ぁぅっ」と言ってはまた泣く備えに取り掛かりだした。
王女は自分の口を強く抑えて笑うのを我慢しながらSnow Whiteのさらさらした髪の頭を撫でてやった。
Snow Whiteは気持ちのよさそうに頬と鼻の先を紅く染めて身体を揺らしながら、くっしゃみをすると鼻水がでて、それを無意識に手の甲でぬぐって絨毯で拭いたので王女はSnow Whiteの後頭部を後ろからしばいた。
Snow Whiteは前につんのめり、そして泣いて泣いて泣き明かし、泣き疲れて絨毯の上で眠った。
不憫には想ったが、自分は想わば、母親の愛を記憶しておらない娘であり、その訳あってか、愛し方を知らず、致し方ないの、と自分に言い訳しては王女は絨毯の上でうつ伏せになって眠るSnow Whiteそっちのけに創作に励んだ。
明くる日の晩、王女はとても悲しい事象に見舞われた。
常日頃から、王女の王に対する嫉妬は和らぐものではなかったが、この日の王女も日々の行いごとのようにこれ当然としてやり続けていたことがあった。
それは王に届くいくつもの招待状を王に報せる前に破って捨てるという習慣である。
何故なら、その招待状のなかにはどこぞの国の王女や姫からの誘いが嫌というほどに紛れており、愛する王を自分以外の女性とましてやふたりきりで逢わすなどは絶対に嫌なことで、会わせないためにも王に見つからないようにしなくてはならなかった。
しかしこの日に限っては、なんたる手抜かりであろう、王がちょうど外から帰ってくるあたりの時間にまた、王の入ってくる恐れのある書庫にて招待状を開けてはびりびりに破いているところに王に後ろから声をかけられ、咄嗟に後ろに隠した破かれた招待状の幾片もの欠片が手から落ち、それを拾って読んだ王に王女のしていることがついに知れてしまったのである。
王は低く怒りを抑えた声で言った。
王「なるほど、どおりで最近、知人たちからの音沙汰が妙に少なくなったわけだ。おまえはなにゆえにこのようなことをしつづけているんだ」
王女は何も答えることができなかった。
王女が破いた招待状や手紙のなかには王にとって、またこの国にとって本当に大事なものがいくつもあったかもしれない。
王はショックのあまりか、黙ってそこを立ち去ろうとしたがふらっとなって近くにあった木の四角い小さなスツールに思いきり脛の辺りをぶつけ、この晩、王は特に機嫌が悪かったのだろう、そのスツールを持ち上げると王女に向かって鬼のような形相で投げつけた。
するとそのスツールは王女の腕にぶつかり、猛烈に痛かったので王女はうぅと呻くとその場にしゃがみこんで声を殺して泣きだした。
だがしかし、あとでもっと深い悲しみに暮れたのは、その木のスツールはよく見ると王女が十三歳くらいのときに自分で作ったスツールであり、それを見せたときの王はとても喜んでくれて大変気に入ってくれたのでここにこうして置かれて王も何度と腰を下ろしたであろうスツールであったからだ。
王の王女に対する”暴れる力”と書いてごとくの暴力ごとは今日に限ってだけのことではなく、これまで幾度とふるわれてきたものであったのでこれと言って驚くことではなかった。
食事中や馬車に隣に座っているときなどはしょっちゅう口ごたえをちょっとでもした瞬間に飛んでくる瞬発的な裏拳を喰らってきたし、また思わぬ物がものすごい速さで飛んでくるのもよくあることであった。
王女はその晩、眠る前に魔法の鏡に向かって問うた。
王女「鏡よ鏡、わたしの大事な鏡よ、わたしはなぜ、いつもお父様を困らせることばかりしてしまうのだろう」
鏡は瞬間的に応えた。
鏡「王女さま、愛おしきわたしの王女さま。お答えいたします。それは王女さまのすることなすことにことごとく、お父様が困られるためです。王女さまはなにも悪くはありません。同時に、王さまもなにも悪くはありません。王女さまは王さまを深く、深く愛しておられます。そして王さまも王女さまをそれは深く、深く愛しておられます。その愛はゆきちがいになればなるほどに悲しみと苦しみを生むでしょう。一致したときにはどんなに大きな喜びに互いに包まれることでありましょう」
王女「鏡よ、ありがとう。わたしは悲しむほど美しくなるだろう。その美しさに、きっとお父様もいつか気づいてくださるに違いない。わたしはその日を信じて、今この悲しみに耐えましょう」
鏡「あなたの悲しみはほんとうに美しい。わたしの愛する王女さま、どうか悲しく美しいままでいてください」
王女は黙って真っ暗闇な鏡に向かって頷くと埃が積らないように真紅の覆いを鏡に被せた。
ベッドのなかに横になっていると隣の部屋からSnow Whiteがぐずついているような声が聞こえてきたが王女は悲しみと泣き疲れであやしにゆく気力もなく、意識が遠のいていくときに、Snow Whiteは可哀想な子だと初めて想い、涙を流した。
そうしてまたいちねんいじょうが経ちました。
Snow Whiteは四つ、王女は十九歳となりました。
ある冬の朝、王女はいつもの窓辺の揺り椅子に揺られながらSnow Whiteの水色のお洋服にSnow Whiteの好きなトノサマバッタの顔の正面の刺繍を施(ほどこ)していたときのこと。
Snow Whiteは床でお絵かきをしながら王女に尋ねた。
Snow White「おかあさま」
王女「なんだい、坊や」
Snow White「おかあさまはなぜ、ぼくの、おかあさまなのですか?」
王女はまたか、と想い、適当に応えた。
王女「それはね、おまえがお母さまを選んだからだよ」
Snow White「ぼくはなぜ、おかあさまをえらんだのですか?」
王女「知らんよ、そんなこと。おまえはじぶんに訊いてみなさいな」
するとSnow Whiteはほんとうに自分に向かって尋ねだした。
Snow White「ぼく、ぼくはなぜ、おかあさまを選んだのですか?」
しかしSnow Whiteは黙りこんでしまった。
「ぅ……」とちいさく呻くとSnow Whiteは王女をまたきょとんとした目で見つめて尋ねた。
Snow White「ぼく、は、ぁたぶん、おかあさまをあいしてるから、ぁだから、おかあさんをえらんだのですか?」
王女「ってなんでわたしにそれを訊くの」
Snow White「だって、だって、おかあさまはきっと、それをしってるんだもん」
王女は窓べから今日もよく降り積もっている雪景色を見渡しながら言った。
王女「わたしはただ、ほんとうのほんとうに美しい子が欲しいと、そう天に祈ったのよ。するとおまえが生まれてきたというわけさ」
Snow White「ぼくは、ぅ、うちゅく、うつ、く、しいのですか?」
王女はSnow Whiteに視線を向けると即座に言った。
王女「おまえは今はまだ、うつくしい、の、うの文字の上のちょんと書く最初の跳ねにも及ばぬほどだ」
Snow Whiteは残念そうなしょぼくれた様子で言った。
Snow White「ぼくは、ぅ、ぅちゅくし、ぅつぅくぅしく、ない……」
約五分ほどの時が過ぎ、そのあいだ、真っ白な雪は音もなく降りつづいた。
突としてSnow Whiteは口を開いた。
Snow White「ぼくが、ぼくがもっと、うちゅくしく、うつっくっしく、なれば、おかあさまはもっと、ぼくを、あいするのですか?」
王女はぼんやりと、あの日美しさを感じた瞬間を想いだしながら応えた。
王女「そうね、坊やがもっともっと美しくなるなら、わたしはきっとおまえが気になってしかたなくなるだろう」
Snow Whiteは黄色く太陽を塗りつぶしていたクレパスを指から落とすと王女に近づいて下からじっと強い眼差しで見上げ、はっきりとした口調で言った。
Snow White「ぼく、うつくしくなる。ぜったい、うつくしくなる」
王女はSnow Whiteのいつになく真剣なその表情を見て、デジャヴュのような感覚を覚えるなかにも無意識に針を動かしてしまったために針で指を強く突いてしまった。
その血の一滴がSnow Whiteのちょうど左目の下あたりに落ちて跳ねた。
白雪のごとくその肌に落ちた真紅の雫(しずく)。
つづいて二滴、三滴と血が垂れ、Snow Whiteのその顔はまるで血の涙を流しているかのように見えた。
王女がまたぼんやりしているとSnow Whiteが王女の血の垂れる左の人差し指を見て言った。
Snow White「これが…うつくしい…?」
そしてSnow Whiteはその指を乳首を吸うようにちゅうちゅうと吸いだした。
黙ってそれを見つめていると、いつまでもSnow Whiteは吸っていた。
王女はやはり乳離れはすこし早かったのだろうかと心配した。
Snow Whiteが2歳になったときから王女は一度も自分の乳から母乳を与えることはしなかった。
4歳になってもまだSnow Whiteは寝惚けているときは決まっておっぱいをせがんではぐずつくのだった。
しかし自分が母と離された頃は母が病を発病した2歳の頃であったし、自分も耐えてきたのだから、我が子も耐えられないはずはないと厳しく育てたかった。
王女は夜明け前近くまで”煙の王者”という異世界滑稽ミュージカル劇の台本を書いていたのでついと睡魔に襲われ気を失うようにして眠りの世界に入っていった。
垂れた涎に目を醒まされ、右手の甲で涎をぬぐった瞬間、王女は異様な光景を目の当たりにした。
目の前には何一つ変わらない体勢で、されどその目は何かにとり憑かれてでもいるかのような据わった目で同じように自分の指を吸いつづけているSnow Whiteがいたからである。
王女は首を捻(ひね)って壁に掛かった時計を見た。
確か眠るまえは朝の十時前頃であったはずだ。いま時計の針は午前十二時の三分前である。
まさか我が子は二時間近く自分の指を吸いつづけていたのだろうか…?
王女はSnow Whiteの口からすぽんっと指を引っこ抜いた。
その指は第二間接あたりまで青白く不気味に変色してふんにゃふんにゃになってふやけていた。
Snow Whiteの顔を見ると、その顔もどこか、ふんにゃふんにゃとした感じだった。
王女は薄っすらと胸の中心部が寒く凍えるような感覚になり、呆然となった。
乳離れが早すぎたために、異様な人間になるのか、こいつは。
王女は目の前の我が息子に対して初めて言い知れぬ怯えのようなものを感じた。
今から気も狂わんばかりに我がすべての情熱を絞るようにあまねくこの乳を息子に与えつづけるなら狂人になっていくことを食いとめることができるのだろうか。
そうはいってもSnow Whiteの身長は今で一メートルをちょっと超えた辺りである。自分よりもわずか60cmほど小さい位である。そんな大きな子供に乳を与えるなど恥ずかしくて耐えられない。
馬鹿でかい品も恥じらいも当の昔に忘れ去ったかのような乳であるなら減るものがあるとも思えないからまだしも、自分の乳はあまりに小さく、まだ少女のように恥を知る乳である。(そう自分で想いたい)いくら我が子といえども、何かが減っていくような気がしてならない。
嗚呼、想わば、よく考えてみたらば、わたしは自分の乳を始めて吸わせたのは我が夫ではなく、猿みたいなこいつだったのである。悲しい。まるで羞(はじ)らう処女をこの猿みたいな人間に奪われたのも同じではないか。わたしにとって、女である喜びとはいったいなんだろう。わたしは男に抱かれる喜びもまだ知らない。わたしはまだ、男を知らない。お父様との一度きりの交わりは…あれは男を知ったとは決して言えるものではなかった。激痛と恐怖以外のなにものもなかったではないか。わたしはまだ愛する男と、接吻すら交わしたことがないのである。いったいどのような喜びなのか知らん。よく、天にも昇るような心地だと言うではないか。一度でいい。一度でいいから、わたしはそれを味わってみたい。やはりこの乳は、この羞らひを知る胸は将来の男の為に取って置こう。この我が猿坊主にこれ以上やる必要はないだろう。
もうおまえは、存分に我が乳を吸い尽くしたではないか。そう王女は訴えかけるようにSnow Whiteを凝視した。
Snow Whiteは久方振りに、余は満足也。とでも言いたげなふにゃふにゃな顔のままどこかあらぬほうを見つめておった。
王女はなにゆえに、Snow Whiteを可愛がって愛しながらも、Snow Whiteの存在にどことなく腹立たしくなるのかは既に気づいていた。
それは王女がSnow Whiteを身籠ったことがわかったそのときから、王が娘であり妻である自分に対しどこかで落胆の想いを抱きつづけているような気がしてならなかったからである。
それは王の自分自身に対する落胆であったかもしれない。
王は王女を愛するがゆえに、Snow Whiteが誰の子であるかも知らないまま、自分の子としてこの城で育てることを王女に誓ったのである。そのことから、Snow Whiteが王の子ではないという気持ちでいるのは王ただ一人だけなのである。
王女は男の真の喜びを知りたいと強く願ったが、それは謂わば生命が自然と求める好奇心のようなものであり、また本能の欲求であり、知らないものを知りたいと希(こいねが)う情熱であった。
また本来、王女は父の愛に渇きつづけたために、父の子を欲しがったのであり、今度は子に愛されてもなお、父の愛に飢えつづけ、日ごと苦しみは和らぐどころか深くなってきているが為に、またもや他のもので慰みを切々(せつせつ)と求め、それがほかの男の喜びという激しい欲求不満の表れとなってしまったわけである。
とどのつまり、何が言いたいかと言うと、王女はこう想いたかった。
王がちょうど好い加減で娘である自分を愛していたのなら、きっと自分は子を産みたいなぞとは願わなかったろうし、ましてやほかの男による性の喜びや恋の喜びといったものは大したものではなく、そんな喜びは父に好い加減で愛されることに比べたならどれほど貧弱で儚く、悲しくもなく美しくもないものであるか。それは王女にとっては、本物の愛ではないからである。王女にとっての本物の愛とは、王との愛、それただひとつだけであったからである。王女に姉や兄といった存在がいたならすこしは違ったのかもしれないが、王女は一人子であり、また母の記憶のないそんな王女にとっては、王以外との愛などは、”滅びゆきて去りぬ”ものでしか、在り得なかったのである。
そう想えば想うほど、王女は自分のことを愛し慕(した)ってやまないこのSnow Whiteが一層悲しく想えるのだった。
しかしほんとうに美しい(悲しい)子が欲しいと願ったのは自分であったことを王女は気づいていた。
この先も、ずっとずっとSnow Whiteは母親だけを愛するというならば、どれほど悲しい人間ができあがることだろう。
そんな我が息子Snow Whiteは、どんなにか美しい存在になるであろう。
王女はそう想うとまだふにゃふにゃ顔をやめないSnow Whiteを抱きあげ、一緒にランチを食べにお城の中の食堂に向かった。
そうして、また次の冬がやってきました。
Snow Whiteは五つ、王女は二十歳となりました。
王女の二十歳の誕生を祝う大宴会がお城で開かれ、王女は苦手な奥様連中からの御追従に辟易しながらも愛想笑いでもってなんとかその場を受け流し終わった後にはどっと疲弊の黒い波が押し寄せては引いてゆくのであった。
王女はその夜に、魔法の鏡に向かってこう問いかけた。
王女「鏡よ鏡、わたしの大切な鏡よ、今日はたくさんの人間たちがわたしのお城へとやってきたわ。ほんとうに疲れたわ。うんざりよ。いったいみんなで集まることの何が楽しいのかしら。わたしはさっぱりわからない。見た目だけは美しいような御婦人方や、散々と辛酸を嘗め尽くしてきたかのようなどっぷり疲れの色が見える顔のご老人までもが蟻のようにうじゃうじゃといたわ。鏡よ鏡。正直に仰ってね。今日のお城のなかでいちばん美しい者はどこのだれかしら」
すると鏡はすぐさま返事をした。
鏡「王女さま、わたしの愛してやむ日を見ないわたしの王女さま。お答えいたしましょう。今日のお城のなかだけでなく、全世界でいちばんに御美しいのは、あなたです。何故なら、あなたの愛はだれの愛よりも深く、それはそれは悲しく美しい愛だからです」
それを聴いて王女はにんまりとして応えた。
王女「おまえはほんとうにいつも正直で素直でよろしいこと。では興味本位で訊いてみましょう。わたしのつぎに美しいのはどこのだれなのかしら?」
鏡は一瞬の間を置くとこう応えた。
鏡「お答えいたします。王女さまのつぎに御美しいのは、それは、Snow Whiteでございます」
王女はその名を聴いた瞬間、まるで稲妻が頭の天辺から刺さって尾骶骨から抜けでていくような衝撃を受けた。
その時、部屋のドアをトントンと叩く音が聞こえたかと思うと、そのあとにつづいて「お母さま」と泣声で呼んでいる声が聞こえた。
王女「Snow Whiteだわ…」
王女は吐息を漏らすと、虚ろなその目を鏡の闇の奥へとやった。
放って置こう。そしたらそのうち、家来の誰かがやってきて、「あらあら王太子さま。こんなところにいらしたのですね。ささ、お部屋へ戻りましょう」とかなんとか言って、連れてってくれるに違いない。
王女はそれを期待してじっと待っていたが、今日は宴会の後片付けでみな忙しいのだろうか、いくら待っても誰もやってはこない。嗚呼っと叫んでは王女はドアを開けて部屋の中を覗かれないようにすぐに部屋の外へ出て閉めた。
王女「こんなに夜遅いのに、どうしておまえは寝てくれないの?!」
王女の怒りにショックを受けてSnow Whiteは声をあげて泣きだした。
困った王女は身長が伸びて重たくなったSnow Whiteをうんしょと肩に担ぎこむようにして抱きあげるとSnow Whiteのベッドのある部屋に向かった。
部屋に入るとベッドの上にSnow Whiteを寝させて自分は椅子に腰掛け、ちょうど枕元の小さな本棚に置いてあったグリム童話「カエルの王子さま」をSnow Whiteの為に早口で静かに朗読してやった。
しかし次の瞬間、それまで感じたことのない、何か不思議な甘い感覚が王女の全身を貫いた。
「これは何?いったいなんなの?」
王女は自分にそう問うた。
これまで自分で自分を慰めていたときとは比べ物にならない。強烈な感覚である。
しかし王女は慌てて首を振ってそれを打ち消し……
しかしカエルが面白がって、王女の身体のあちこちを探検し始めたとき、王女は思わずたまらなくなって、こう呻いた。
「あ、ああ、やめて……ってなんで官能小説みたいなグリム童話がここにあんねんっ」
と思わずどこぞの国の方言が出て王女はその本を壁に向かってぶつけた。
非常に気まずい想いで、そぉっとSnow Whiteの顔を王女は横目でちらと覗きこんだ。
するとSnow Whiteは男も立てずに、否、音も立てずに、天子(てんし)のような寝顔で眠っておった。
ふぅ、と息をついては王女はその可愛らしいSnow Whiteの顔をじっと見ていた。
欠伸がでて、そろそろ部屋へ戻ろうと立ち上がったその時、何かが引っかかった。
引っかかった部分をよく見てみると、それは服の裾が家具か何かに引っかかったのではなく、Snow Whiteがその左手でぎゅうっと思いきり王女の寝巻きの白いワンピースの下のペティコートの裾を握りしめたまま眠っていたためであった。
王女はなんとなしに腰が抜けたように椅子にすとんとまた座ると、先ほどの鏡の言葉を脳内で何度と反芻しだした。
「王女さまのつぎに御美しいのは、それは、Snow Whiteでございます」
ははは。気づけば王女は声にもなっていない空笑いが漏れでてはつぎには泣きたくなった。
そんなまさか。どこぞの方言で言うなれば、「んなあほな」
わたしは信じられない。こんな、まだ、まだ仔猿かカエルかウリ坊かゴマフアザラシかというような小僧の悲しみが、こんなにあどけない顔で何にも知らないように眠る坊やの悲しみが、まさかわたしの次に悲しいなどと、いったいどこのだれが本気にして信じられようか?
なにがそんなに、そこまで悲しいというのか。まだたったの五年しか生きてはいないではないか。
あほなことを言ってはいけない。あの鏡、いったいどういうつもりなのだろう。
もういちど、もういちど明日同じことを訊こう。いや何度でも、何度でも、何度でも訊き倒そう。
きっとなにかの間違いでしょう。
こんなに幼い子供がそれほど深い悲しみを知るというのなら、この先、暗闇のくらのくらではないか。生きてゆけるはずなどない。ないはずなどない、などと言わせておけるはずなどない。わたしは死ぬまで息子のお守(も)りをして生きるつもりはない。そんなことをすれば、Snow Whiteはわたしのどの積荷よりも重い銛(もり)の先に付いた錘(おもり)となるであろう。その銛はやがて深海の底を突きぬけ、異界の森すらをも突きぬけ、死は積もりゆき、その灰の底をも突きぬけるだろう。つまり、死んだあともどこまでゆくんだ、という話である。そんな気の遠くなる話をこのSnow Whiteはわたしに聴かせたいのだろうか。頭が回って目が眩(くら)む。
いったいどうすれば、この子はわたしを手放すのだろう。
可愛く真っ白なちいさいお手てで掴まれた綿のペティコートの裾には複雑なレース刺繍が施されていて、王女はその部分をよく見つめてみるとSnow Whiteの細く短い指が一本ずつそのレースの穴の部分に食い込んで突っ込まれては複雑に穴と指が絡み合っていて、簡単には離れないようにしていることにようやく気づいた。
ぞっとする気持ちもとうに突き抜けて、なぜだか、ふと、花札の墨がかった芒(すすき)に白い月がでっかくかかろうとしていて、その空は真っ赤な血の色という確か八月の光札である坊主に月の札の情景が脳裡に浮かんで離れなかった。
花札でお父様と一緒に昔よく遊んだことがある。でももう遊び方を忘れてしまった。
次の日の午後、王女はSnow Whiteにあたらしい絵本を読んであげました。
それは「ジンジャーブレッドマン(しょうがパンぼうや)」というイギリスの昔話です。
暖炉のあたたかい火のそばで、Snow Whiteはわくわくと胸をときめかせていました。
王女は昨日はいらいらとしていたので早口でグリム童話を読んでしまったことを申し訳なく想い、きょうはゆっくりと読んでやろうと想いました。
「ジンジャーブレッドマン」
むかしむかし、あるところに、おばあさんがひとりですこし古いおうちに住んでいました。
おばあさんはひとりぼっちで子供がいなくて寂しかったので、ジンジャーブレッドで男の子を作ることにしました。
おばあさんはじっくりとバターをまぜあわせ、生地を巻いて、とてもすてきなジンジャーブレッド・マンを切りとりました。
そしておばあさんは髪と口と服に砂糖漬けをつけくわえて、ボタンと目にキャンディーチップをつかいました。
彼はどんなに素晴らしいジンジャーブレッドの男だったか!
おばあさんはさっそく彼を焼くためにオーブンに入れた。
彼が完全に焼きあがったあと、ゆっくりとオーブンの扉を開きました。
するとジンジャーブレッドマンは跳びあがって言いました。
「熱い!熱い!はやくそとへだして!」
そしてジンジャーブレッドマンは走って走りました。
彼が走っていると、一頭の牛に出会いました。
「Moo」
牛は言いました。
「おまえさんはとっても素敵だ!食べちゃいたいくらい素晴らしい!」
そして牛は走るジンジャーブレッドマンを追いかけました。
しかしジンジャーブレッドマンははやく走って
「ぼくはおばあさんから逃げたんだよ。ぼくはおばあさんから逃げて、あなたからも逃げられるよ!ぼくならできるもんね!」といって笑いました。
「走れ、走れ、もっとはやく走ってごらんよ!ぼくを捕まえられるもんか!ぼくはジンジャーブレッドマンだもの!」
おばあさんと牛はひっしにジンジャーブレッドマンのあとを走って追いかけましたが、とうとう彼を捕まえられませんでした。
ジンジャーブレッドマンは走りつづけて、つぎに馬に出会いました。
「N..e..i..g..h ...(ネヘヘヘヘェ~)」
馬はいなないて言いました。
「じぶん、おいしいかもしれないな!わたしはあなたを食べたいとおもいます」
「でも、きみはむりだね!」ジンジャーブレッドマンは自信たっぷりに言いました。
「おばあさんから逃げて牛からも逃げられた。ぼくなら逃げられるもんね!」
そして彼は歌をうたいました。
「走れ、走れ、できるだけはやく!きみはぼくをつかまえられっこないさ。ぼくはジンジャーブレッドマンだぞ」
馬はジンジャーブレッドマンを走って追いかけましたが、とうとう彼を捕まえられませんでした。
ジンジャーブレッドマンは走って走って、笑って歌った。
彼が走っていると、つぎににわとりに出会いました。
「ケックル!」にわとりは言いました。
「夕食のためにあんたをペク(つつく)してもいい。ジンジャーブレッドマン!あんたを食べにいきますよ!」
しかしジンジャーブレッドマンはただ笑いました。
「ぼくはおばあさんから逃げて牛から逃げて馬からも逃げたんだよ。ぼくはきみからも逃げることができるもんね!」
そして彼は歌をまたうたいました。
「走れよ、走れ、できるかぎりはやく走れ!きみはぼくを捕まえられやしないさ!ぼくはジンジャーブレッドさまだぞ!」
にわとりはジンジャーブレッドマンを追いかけましたが彼を捕まえられませんでした。
ジンジャーブレッドマンはとてもはやく走られることを誇りにおもっていました。
「だれもぼくは捕まえることはできないさ」と彼はおもいました。
そこで彼はきつねに会うまで走りつづけました。
彼はきつねにじぶんがほかのだれよりも速く走ったことをちゃんと伝えなくてはなりませんでした。
「きつねくん」と彼はいいました。
「ぼくがおいしそうだろう」
きみはぼくを捕まえて、きみに食べさせることはできない。
ぼくはおばあさんから逃げた。
ぼくは牛から逃げた。
ぼくは馬から逃げた。
ぼくはにわとりから逃げて、ぼくはきみからも逃げることができるもんね!
ぼくならできるんだ!
しかしきつねは気にしなかった。
「なぜわたしがあなたを気にする必要があるでしょうか?」
きつねはそうたずねた。
「あなたはおいしそうに見えない。
ノン、ぼっちゃん、わたしはあなたをちっとも食べたくはありません」
ジンジャーブレッドマンはとっても安心しました。
「これはおどろいた。きつねくん」
ジンジャーブレッドマンは言いました。
「きみが気にしないなら、ぼくはここですこし休もうとおもう」
こうしてジンジャーブレッドマンは走るのをやめてつっ立っていました。
するときつねが言いました。
「そういえば、この川の向こうにあなたが住むのにぴったりな素敵なおうちがあるのです。そこへ連れてってあげましょうか」
ジンジャーブレッドマンは目をかがやかせてこたえました。
「ほんとに!まるでそのおうちはぼくが住むのを待っていたみたいだ!ぜひ連れてっておくれよ。やさしいきつねくん」
きつねはやさしくほほえんで言いました。
「では連れてってさしあげます。あなたを待つ最高のばしょへ。わたしの鼻のうえにのってください。わたしはおよいでこの川をわたりますから」
「ありがとうきつねくん!」
ジンジャーブレッドマンはよろこんできつねの鼻のうえにぴょんととびのりました。
きつねは彼をのせて川をおよいでわたりました。
そしてむこうぎしについて、目のすぐまえにいるジンジャーブレッドマンに向かってやさしいえがおで言いました。
「さあいますぐ連れてってあげましょう。あなたにいちばんふさわしいばしょへ」
そのときです。きつねは鼻をいきおいよくうえにふりました。
ジンジャーブレッドマンは「うわ~」と叫んで空中になげだされ、下におちました。
そこに、きつねがおおくちをあけてまっていました。
ジンジャーブレッドマンはきつねのおおきな口のなかにおちると、きつねはくちをとじて、彼のすがたは見えなくなりました。
次の日、きつねはジンジャーブレッドマンを作ったというおばあさんのおうちの戸をとんとんとノックしました。
おばあさんがでてくると、きつねはきのうのことをすべておばあさんに話しました。
そしてさいごに、こう言いました。
「彼は結局、とてもおいしかったです」
そう言ってきつねは帰ってゆきました。
おばあさんはとてもかなしんで、それからなんどもジンジャーブレッドマンを作ろうとしましたが、もうにどと、生きたジンジャーブレッドマンを作ることはできませんでした。
おしまい。
王女は静かに聴いていたSnow Whiteの顔を覗きこんだ。
Snow Whiteは、どこか思いつめたような顔をして、じっとして動かなかった。
「気に入らなかったのか…」王女はそう想って息をちいさくつくとSnow Whiteを抱っこして膝のうえに載せてやった。
すると、Snow Whiteはぎゅっと抱きついてきたあとにぷるぷると小刻みに震えだし、王女を見上げて震える声で言った。
Snow White「な、なぜ…なぜ、ジンジャーブレッドマンは、食べられなくてはならなかったのですか?」
王女は考えて、返事をした。
王女「人生というものは、決まりきった道に用意されているものではないから、予想のつかないことが普通に起きては、人はそのたびに嘆き悲しむ。それはなんで悲しむかというと、心のどこかで、そんなことは起きるはずがない、起きるべきではないと想っているからさ。Snow Whiteは、ジンジャーブレッドマンは食べられるべきではないと想ってるだろう?」
Snow Whiteは神妙な顔で「うん」と頷いた。
王女「でもそんなことは、決まっているわけではない。実際に、牛も馬も鶏も狐も、彼を食べるべきだと想ってただろう。それにそんなおまえだって、昨日の夕食には牛を食べたし、今日の昼食には鶏を食べてたやん。それなら、牛や馬や鶏や狐が、ジンジャーブレッドマンを食べたらいけない理由などどこにもない。お母さまは可笑しいことを言っているかしら?」
そう言うと、Snow Whiteの顔は見る見るうちに青褪め、肩を落として悄然(しょうぜん)となった。
そして涙をうるうるとさせた目で王女を見て言った。
Snow White「ぼくは…ぼくは、うしさんやにわとりさんを食べたの?」
王女は頷いて言った。
王女「ほかにもぶたさん、ひつじさん、うさぎさん、うずらさん、ロブスターさん、お魚さん、たくさんおまえは食べてしまったよ」
Snow Whiteは両手で口を押さえこんで咽び泣きだした。
そして真っ赤な目で王女を見据えて言った。
Snow White「ぼくはもう、にどとかれらをたべません」
王女はSnow Whiteの頭を撫でてやると応えた。
王女「おまえはそのほうがいいかもしれないね。胃腸の弱いおまえにはきっとそのほうが合ってるのだろう」
王女はSnow Whiteを抱きしめると「なんて心の優しい繊細な感性だろう。きっとわたしとお父様の優性遺伝子の感性の深さが合わさることによってこのような深い感性が生まれたのだろう」と喜びに打ち震えた。
Snow Whiteはお母さまが今日は優しいことが嬉しかったが、それでもたくさんの生き物を食べてきたことの悲しみは消えず、こころのなかでなんどもなんども「ごめんなさいごめんなさい」と謝りつづけた。
そうしてまたいちねんのつきひがながれました。
Snow Whiteは六歳、王女は二十一歳となりました。
ある晴れた冬の夕方、王女がいつもの窓辺の揺り椅子に座ってSnow Whiteのちいさな藍色の手ぶくろを編んでいるとそばでブロックで遊んでいたSnow Whiteが唐突にこう言った。
Snow White「お母さま、ぼくはお母さまと連想あそびがしたいです」
「連想あそび?」王女はつと手を止めると訊ねた。
王女「はて、それはどのようなあそびなの?」
「ええっと」Snow Whiteはきょろきょろして後ろを振り返り、テーブルの上に目をやると応えた。
Snow White「Pommes en Cage(檻の中のりんご)は、中にりんごが閉じ込められている。ってぼくが最初に言ったら、ぼくがまた、”閉じ込められているといえば?”って言うと、つぎ、お母さまが、閉じ込められているものを探して、それをお母さまが答えて、そんで、なになにといえば?っていうのをぼくとお母さまがかわりばんこに言っていくってゆうあそびです」
王女は編み針を交互に動かして編みながら「へぇ、そんなあそびがあるんだね。どこで知ったの?」と訊いた。
Snow White「こないだ読んだ”たとえ物語”の本のなかにそのようなあそびが書いてあったのです」
王女「それは面白そうな本だこと。ではさっそくおまえから始めてごらん」
Snow Whiteは嬉しそうな顔で「はい」と応えるとつづけて言った。
Snow White「ではさっきのつづきで、りんごは閉じ込められています。閉じ込められているといえば?」
王女「うぅん、家畜。家畜といえば?」
Snow White「家畜はかわいそうです。かわいそうといえば?」
王女「お母さま。お母さまといえば?」
Snow White「ぼくの婚約者です。婚約者といえば?」
王女はSnow Whiteを咎める顔で見ると「いったいお母さんはおまえの婚約者にいつなったんだい」と言った。
Snow Whiteは頬をりんごのように赤くして応えた。
Snow White「ゆ、夢のなかでです」
王女「お母さまの婚約者はお父様です。お父様といえば?」
Snow Whiteは低くうなだれて答えなかった。
「お父様といえば?」と王女はもう一度言った。
するとぼそぼそとSnow Whiteは答えた。
Snow White「ぼくは、お父様のことをあまり知りません。し、知らないといったら?」
王女「物語の行方。行方といえば?」
Snow White「とても、不安です。不安といったら?」
王女「すべてです。すべてといったら?」
Snow White「ぼくのすべてはお母さまです。お母さまといえば?」
王女「お母さまはいつか死ぬのです。死といえば?」
Snow White「ぼくは…ぼくはお母さまを死なせるわけにはいきません。ぼくは、死と戦います。戦いといえば?」
王女「戦いは、愚かです。愚かといえば?」
Snow White「それは…ぼくのことを言っているのですか…?」
王女は編んだ部分をほどきながら言った。
王女「そうです」
Snow Whiteは黙りこんで悲しそうな顔で王女を見つめた。
王女「おまえはさっき答えをはぐらかした。お母さまは”死といえばなにか?”と訊いたのです。でもおまえはそれに答えられなかった。おまえは死がなんであるかも答えられないのに、いったいどうやって死と戦うつもりなのです?相手がどんな存在か、ちっともわからないのに、どんなふうに戦えるのでしょう」
Snow Whiteは打ちのめされた表情でちょっとのま動かなかった。
そしてにわかに王女を見つめながら言った。
Snow White「愚かな者は、ぼくです。ぼくといえば?」
王女はつと手を止めるとSnow Whiteを見つめ返して答えた。
王女「おまえはこの国の次の王です。王といえば?」
Snow White「王さまは…ぼくのことを愛していません。愛していないといえば?」
王女「Snow White。おまえこそ王さまを愛していない。Snow Whiteといえば?」
Snow White「ぼくはお母さまを愛しています。愛しているといえば?」
王女はすこし手を止めて答えた。
王女「お父様。お父様といえば?」
すると、いくら待っても何も返ってこないので王女がSnow Whiteを見やると目をぱちぱちと大きく瞬(しばたた)かせて絨毯の一点を凝視し、何かに耐えているような顔をしていた。
王女が「どうしたの」と訊くと、Snow Whiteは黙って立ち上がってドアのほうへ走ってゆくと部屋を出て行ってしまった。
何事もなかったかのようにまた編み物を再開しようと指を編み針にかけたが、王女は思いがけなく咽るように涙がでてきて、なかなか止まらなかった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
Ѧは毎朝、そうやってお父さんが仕事に行くときに見送っていた。
お父さんはマンションの階段の踊り場の小さなくり抜かれた窓から顔をいつも出して手を振り、Ѧがまた手を振り返す。
でも怒ったまま仕事に行ったときはお父さんはその小さな窓から顔を出してはくれなかった。
Ѧはそれを想いだした。
お父さんが死んでから、もうずっとずっと想いださなかったことだった。
なぜ想いださなかったんだろう?
Ѧはすこし泣いて、悲しみのなかで目を閉じた。
Ѧは目を開けた。
目の前に、Сноw Wхитеが横になって優しい眼差しでじっとѦを見つめていた。
Ѧ「Сноw Wхите!」
ѦはСноw Wхитеに抱きついた。
Ѧ「いつ、いつ、帰ったの?!」
Ѧは目から涙が溢れた。
Сноw WхитеもѦを強く抱きしめ返して言った。
Сноw Wхите「さっきです。さっきわたしは、ここでѦの寝顔を見つめていることに気がついたのです」
Ѧは身体を引きはがして毛布を払いのけてはСноw Wхитеの身体中をくまなく見た。
Ѧ「どこも…どこも欠けてないよね…?元のСноw Wхитеだよね?!」
Сноw Wхите「確かめるためにわたしを裸ん坊にしますか?Ѧ」
Ѧは顔を赤らめた。
それを見てСноw Wхитеは微笑むとѦを抱きしめ、頬にキスをした。
Сноw Wхите「わたしのなにが欠けていたらѦは嫌ですか?」
Ѧ「それは…全部、元のСноw Wхитеの全部が揃っていないとそりゃ嫌だよ」
Сноw Wхите「わたしのどこかは違いますか?」
Ѧ「ううん…Сноw Wхитеだよ!間違いなく…」
Сноw Wхитеは笑うと言った。
Сноw Wхите「タルパ!」
Ѧは咄嗟のその言葉にぷっと吹きだした。
Ѧ「Сноw Wхите、急にどうしたの?!」
Сноw Wхите「ぼく、タルパ!」
Ѧはまた笑った。
Ѧ「タルパって、あのチベット密教の思念を顕現させた化身であるタルパのこと?」
Сноw Wхите「そうです。トゥルパとも言います」
Ѧ「どうしてそんなことを突然言いだしたの?それに、Сноw Wхитеはタルパじゃないよ」
Сноw Wхите「Ѧが最近、わたしのいない間にふと想いついたことがおかしくてならなかったのです」
Ѧ「それって、もしかしてあのことかな…」
Сноw Wхите「そうです。タルパは人型のものを作って、それに念を懸けつづけるとより顕現しやすくなるという話をѦがふと想いだして、等身大の人型の人形を作り、そこにわたしの顔を描いて、ベッドに寝かせていたなら…」
Ѧ「”でもパッてベッド見て、人間おったら怖いしな”ってѦ想って自分でも吹きだしたんだ」
ѦとСноw Wхитеは一緒に笑った。
Сноw Wхите「わたしもそれがおかしくてならなかったのです」
Ѧ「でもそれ、いつ知ったの?Сноw Wхитеが死の底へ降りているときのことだよ」
Сноw Wхите「ついさっきです、わたしがタルパ!と言いだす前のその1秒前くらいにѦのわたしがいない間に起こったすべてを読みとったのです」
Ѧ「すごいやСноw Wхите…」
Сноw Wхите「これが霊力というものです。Ѧも夢の中ではいつも使っている能力です」
Ѧ「そういや、こないだѦが意味の解らない寝言を発して、しかも声がものすごく低い男の声で、自分の寝言に吃驚して起きたんだ。Ѧはいったい誰になっていたんだろう」
Сноw Wхите「”И Лове Ѧ Форевер””わたしは永遠にѦを愛している”とスラヴ祖語で言ったのです。わたしの寝言とѦの寝言が繋がってしまったようです。わたしの声をѦの声帯を通してѦのエネルギーの振動で変換しているため、ごろごろとして低い声になったのです」
Ѧ「なんだ、そうだったのか。ѦはSilver Birch(シルバーバーチ)でも乗り移ったのだろうかと吃驚したよ」
Сноw Wхите「確かに似た声でした。それはそうとѦ…」
Ѧ「なに?」
Сноw Wхите「Ѧ、ほんとうに、ありがとう」
ѦはСноw Wхитеを抱きしめて言った。
Ѧ「よかった…戻ってこれて、ほんとうによかった…」
Сноw Wхите「Ѧがわたしが戻るようにと切に、Ѧの真心で心の底から願いつづけ、信じつづけたからです。Ѧが諦めていたなら、今わたしはここにいないでしょう。Ѧ、これを…」
そう言うとСноw Wхитеはもぞもぞとして何かを取りだしてѦの手のなかに渡した。
Ѧ「鍵だ!」
Ѧが渡された鍵を見てみると、それは”Ѧ”という文字の形をした鍵だった。
Ѧ「拾ってきてくれたんだね…ありがとう、Сноw Wхите。あっそうだ、Ѧもなくさず持っていたよ」
Ѧはそう言うとパジャマのズボンのポッケにいつも入れておいたСноw Wхитеから渡されたСноw Wхитеの喜びの雪の結晶の形をした鍵をСноw Wхитеの手のなかに渡した。
Сноw Wхитеはその鍵を見ると涙を流した。
Ѧは不安になって言った。
Ѧ「それ、Сноw Wхитеの喜びの鍵だよね…?」
Сноw Wхитеは頷いて応えた。
Сноw Wхите「わたしの喜びのすべてです。Ѧにまた会えた事で、わたしの喜びのすべてが舞い戻ってきたのです。あんまり嬉しいと、涙がでます」
Ѧも涙を流して言った。
Ѧ「Ѧはあのあと、とっても苦しかったけれど、つよく、つよくСноw Wхитеとまた会えることを願って、願いつづけてたら、Сноw Wхитеとまた必ず会えるんだってほんとうに信じられてきて、その喜びを感じて過ごせることを知ったんだ。でもどうしてだろう?Ѧはあの時、すべての喜びの鍵を死の底へ落としたはずなのに」
Сноw Wхите「この鍵は、ただの象徴だからです。Ѧ。例えばひとりの抽象画家が、すべての喜びをこの目の前の一枚の絵のなかに封じこめたと描き終わった瞬間には信じられたとしても、その次の瞬間にはもう別の喜びが自分のうちに存在していることを知っては次にもまた絵が描ける喜びに歓喜するはずです。わたしはその喜びをѦに知ってもらうためにもわたしがみずから死の深淵へと下りていく必要があったのです。Ѧはけっして喜びを失うことはありません。それはѦがわたしを信じつづけ、そのわたしはѦを信じつづけるからです」
Ѧ「Сноw Wхитеは、死の深淵のなかにずっといて、苦しかった?」
Сноw Wхите「苦しくなかったと言えば嘘になります。ただそこは苦しみを苦しみとしてすら味わえないほどのなにもない世界だったのです。苦しみを、苦しみとして意識できないなかにも、苦しみが確かに存在していることを証明する世界です。死の底の世界とは、本当の無ではなく、無を装った認識できない苦しみと孤独が延々と在りつづける世界だということです。生命の根源にある苦しみと孤独がそこにすべて集まっています。だから言いようのない苦しみと孤独であることは確かです」
Ѧ「意識のまったくない、安らかな眠りの世界とは違う世界なんだね」
Сноw Wхите「それはまったく違う世界と言えます。生命は一度生まれたら、もう二度と無へは戻れないことを現存させている世界です」
Ѧ「Сноw Wхите」
Сноw Wхите「なんですか?Ѧ」
Ѧ「Сноw Wхитеはタルパじゃないよ。だって、Сноw WхитеはѦが生んだけれども、ѦはСноw Wхитеが生んだのだもの」
Сноw Wхите「はい。Ѧがわたしを創造し、わたしはѦを創造しました。ではタルパとは、どのようなものですか?」
Ѧ「タルパって、Ѧはちょっと、Undead(アンデッド、死んでも生きてもいない者)だと想う。でもСноw Wхитеは、生きている。確かに、生きているんだ。Ѧとおなじに」
Сноw Wхите「はい。わたしは生きています。それはѦが生きているからです。ѦがUndeadであるならば、わたしもUndeadです」
Ѧ「Ѧは生きているよ。でもѦは…生きてるし死んでるのかな」
Сноw Wхите「何故そう想うのですか?」
Ѧ「だってѦは、Сноw Wхитеが生んだ者だもの」
Сноw Wхите「わたしは何者ですか?」
Ѧ「Сноw Wхитеは、”死”だよ」
Сноw Wхите「わたしは死神です。死神は死であるため、死を生みだす必要はありません」
Ѧ「でもその死を生みだしたのはѦだよ」
Сноw Wхите「そうです。死は死を生みません。Ѧは死ではなく、生です」
Ѧ「あ…あそうか、Ѧが死だと、Сноw Wхитеは生になるって、あれ…?でもСноw Wхитеは生きているじゃないか」
Сноw Wхите「わたしは死であり、生です」
Ѧ「Ѧは?」
Сноw Wхите「Ѧは生そのものです。Ѧは光だからです」
Ѧ「Сноw Wхитеは闇だよね?」
Сноw Wхите「はい。わたしは闇です。闇は光を生み、光は闇を生みました」
Ѧ「だったらさ、やっぱりѦも闇であり、光。死であり、生だよ」
Сноw Wхите「Ѧの存在自体は生きて死んでいるわけではありません。Ѧのなかにわたしがいるのです。Ѧのうちがわに死と生が在るということです。そして死と生のうちがわにѦがいるのです」
Ѧ「けっこう今日は…いつもよりややこしいな…Сноw Wхите」
Сноw Wхите「わたしもどう説明したらよいかと考えあぐねています」
Ѧ「ѦがUndeadなら、Сноw Wхитеはどうする?」
Сноw Wхите「わたしもUndeadになります。そしてѦを…こうします」
そう言うとСноw WхитеはѦにキスをして子供のように無邪気な顔で「タルパ!」と言った。
ѦとСноw Wхитеはまた一緒に笑いあった。
Ѧ「よし、今日はѦが朝食を作るよ。そないだにさ…ちょっと待ってて」
Ѧがそう言ってベッドから離れるとСноw Wхитеはベッドに座ってѦの後姿に向かって小さな声で言った。
Сноw Wхите「Ѧ。わたしだけを、愛してください」
Ѧが振り返って「ん?なんてったの?」と訊いた。
Сноw Wхитеはさびしそうな顔で「なんでもありません」と言った。
Ѧがノートを持ってきてベッドに座るとСноw Wхитеの顔を覗き込んだ。
Ѧ「どうかしたの?」
Сноw Wхите「わたしは知っています。Ѧが何日もずっとこれを書いていたことを」
Ѧ「あっ、読みとっちゃった?中身」
Сноw Wхите「ほんのすこしだけです」
Ѧ「これ、Сноw Wхитеに読んでもらおうと想って」
Ѧはノートの表紙をСноw Wхитеに見せた。
ノートの表紙には「Snow White」と書いてあった。
Сноw Wхите「わたしが主人公のお話をѦはずっと書いていたのです」
Ѧ「そうだよ。グリム童話の白雪姫をѦが脚色した物語だよ」
Сноw Wхитеはつと黙りこむとまた涙をほろほろと零した。
Ѧは今日こんなにСноw Wхитеが泣くのは、やっぱり死の底があんまりつらかったからだと想った。
Ѧ「Сноw Wхите、この脚本はとても大まかにしか書いていないんだ。できたならこの脚本をもとに、ѦとСноw Wхитеのふたりだけで、即興で演じる舞台をやりたいんだ。それじゃѦは今から朝食を作ってくるね」
そう言ってѦはСноw Wхитеの頬につたう涙を両手でぬぐってキスをするとキッチンに向かった。
Сноw Wхитеは「Мум(マム)」と呟いてノートを抱きしめるとノートを開いて読み始めた。
Ѧ「Сноw Wхитеの役はSnow White、魔法の鏡、家来の男、そして語りべの役だよ。Ѧの役は王女、猟師、七人のこびと、七人のこびとの役はѦが分身の術で演じるのかとゆうとそうではなくって、ディズニーのSnow White and the Seven Dwarfs(白雪姫と七人のこびと)の七人のこびとのそれぞれの名前が、
・DOC(ドック:先生)
・GRUMPY(グランピー:おこりんぼ)
・HAPPY(ハッピー:ごきげん)
・SLEEPY(スリーピー:ねぼすけ)
・BASHFUL(バッシュフル:てれすけ)
・SNEEZY(スニージー:くしゃみ)
・DOPEY(ドーピー:おとぼけ)
っていうみたいだから、それからとって、七つの人格を持つこびとにしようとѦは想ったんだ」
Сноw Wхите「想像するだけで顔がほころんでしまいそうな愉快なこびとさんです」
Ѧ「あくまで主人公はSnow Whiteだから、Ѧがでしゃばらないように気をつけたいところだよ。それじゃ準備はいいかい?Сноw Wхите」
Сноw Wхите「OKです。Ѧ」
Ѧ「よし、では一緒に幕を開けよう」
Сноw Wхите「はい。とってもドキドキします」
真っ暗な闇のような幕が開かれた。
「Snow White」
ずいぶんまえのことです。
せかいはふゆのさなかにありました。
白い羽毛のような雪が天からひらひらとまいおりていたとき、窓辺で縫いものをしながら王女は雪に見惚れ、その指を針で突き刺すと、みっつの紅い滴が漆黒の闇のような窓枠のそばの積もった雪のなかにおちた。
それはそれは美しく、王女はつくづく願った。
「わたしはどうしてもこのような子が欲しい」
そうした幾時かのち、天は王女にひとりの子を授けたもうた。
その肌は白い雪、その頬は紅い血、その目はまるであの窓枠の黒檀のように深い闇の色をして光っていた。
王女は子に「Snow White(スノーホワイト)」と名づけた。
Snow Whiteは美しく愛らしい朗らかな坊やであった。
こうしてわずか十五の年で王女は王太子を賜ったことを、それはそれは喜び、朝と晩にかならず天に向かって感謝の祈りを捧げました。
王女は四つの年に王の婚約者となられた。
何故なら、その年に王の后(きさき)が病の末にお亡くなりになられたからである。
王女は王の娘であられた。
王が三十九歳、后が四十歳のときに生まれた娘である。
后は遺言にこう書き残して亡くなられた。
「わたしが死んだあとに、わたしが愛する者以外を王の妃にしてはなりません。
まさしく、わたしの愛する者、わたしの娘だけが真の王の妃として継ぐに望ましい。
わたしの美しさを受け継ぐ妃がほかにどこにいようか。
そしてわたしの魔法の鏡をわたしの娘以外の誰にも渡してはなりません。
わたしの魔法を受け継ぐことができるのもまた、わたしの娘だけだからです。
わたしの言葉をかならずや護ってください。
そうすればこの国は滅びることなく幾千年と時を経ても美しき栄光のもとに天から讃えられつづけるであろう。」
王は后を心から愛しておられたので、その願いを成就させるためにも我が娘を将来の后として契約なされた。
こうして王女は十三の年の日に、めでたく王妃となられた。
そしてその年に、王は王女に母の形見である魔法の鏡を与えた。
その大きな壁に掛かった鏡はとても不思議な鏡で、吸いこまれそうな漆黒の闇をしか映さない鏡であった。
王女は使い道がわからず、またその闇の濃さは恐ろしさを感じさせるものでもあったので、いつも紅い被(おお)いで見えなくしていた。
王は、王女が幼い時分から一日の半日以上もお城にはいなかったから、王女はいつもさびしさを懐(いだ)いていた。
お母様もお父様もいないお城の中でひとり絵を何時間と描いては遊んだり、家来の読む紙芝居を観たりしていた。
いつも暗くなってから王が外から帰ってくると、王女はまっさきに甘えたかったのだが、王は厳しい人であったのでなかなか甘えることも難しく、王女のさびしさは日に日に積もるばかりであった。
それは王と結婚したのちも同じでありました。
否、むしろ王の王女に対する厳しさはどんどんと深くなっているように思えるのでした。
そうなっては王女の孤独はますます深刻なものとなり、そんなある日、王女は子を産んで、子をみずからの慰みにすることを本気で願ったのでありました。
まだ十四の年の王女が願ったのは、父の子を産みたいといった定(さだ)かな願いではなく、なんでも従順に聞いて自分を愛し、懐いてきてくれる愛らしく美しい仔猫を欲しがるのとそう変わりはなかったかもしれません。
そうして王女はどうしたら子が生まれるのかを十の年のころにお城の外で粉屋の娘に聞かされて知っておりましたので、その報(しら)せに感謝し、ある晩、王女は王に身体によい薬酒だと言っては葡萄酒をたらふく飲ませた。
眠ってしまった王とたいそう強引に交わり、激痛で気絶しそうな苦しみのなか王女は必死に耐えて、王が眠りから醒めないことを切に祈った。王女はこのことを王に話してしまえば、きっと父は悲憤慷慨(こうがい)の魔王と化してわたしを恐ろしく罰するにちがいない、それに父と娘という禁断の交わりを持ってしまったことの背徳の苦しみから、王に打ち明けることはどうしてもできそうにないと思った王女は子を宿したときも、子を産みおとしたときも黙っておりました。
王は娘が子を身篭ったと知ったとき、嫉妬などという素振りは見せず、却(かえ)って王女の懐妊を喜んでいるようにさえ王女には見えた。
王が自分の妊娠についてしつこく訊いてはこないことに王女はさびしさをまた募らせるのだった。
お父様はわたしが誰の子を宿そうと関心がないのかしら。そう王女は想ってはひとりでしくしくと枕をぬらす日が続いた。
そうしていちねんが経ったころ、王女はふと、昔のアルバムを開いて見ておりました。
王女はお母様の記憶を持っていませんでしたから、お母様のお写真を眺めながら思ったのです。
嗚呼なんてお母様はお美しいのだろう。それにくらべて私の肌はそばかすだらけでおでこも狭いし生え際の形も悪いし、猫背で痩せ細った少年のような体形をしている。
お父様がほかの女性と遊ばれるのはわたしの容姿が美しくないからなのだろうか。
王女は悲しみのあまり涙をぽとぽととアルバムの上に落としました。
すると突然、どこからともなく、声が聴こえました。
低く、落ち着いたとても優しい声でした。
王女は吃驚して耳を澄ませました。
「王女さま、王女さま、わたしの愛する王女さま」
その声はどうやら魔法の鏡のほうから聴こえてくるようです。
「王女よ、わたしの王女よ」
王女は魔法の鏡に被せていた紅い被いをめくるとその鏡のなかを覗きこみました。
どんなに覗いても漆黒の闇しか映っていません。
「王女さま、わたしがお答えいたしましょう」
王女はその闇を見つづけていると朦朧とする気分になって鏡のなかに向かって尋ねました。
「わたしはいつあなたに尋ねたのでしょう」
すると鏡はこう応えました。
「王女よ、あなたの悩みを、わたしは聞いたのです」
王女はこの不思議な鏡にもっと顔を近づけるとこう尋ねた。
「鏡よ、それはどのような悩みなのでしょう」
「あなたはわたしにこう尋ねました。せかいでいちばん美しいものはだれか、と」
王女はそれを聞くとうつむき、また静かに涙を流した。
鏡はそれでも言葉をつづけた。
「わたしがお答えいたしましょう。王女さま、せかいでいちばん美しい存在は、あなたである。あなたはだれより美しい」
それを聞いて王女は泣きながら卑屈に笑った。
「おまえはいったいどういった色眼鏡でわたしを見ているのだろう。いったいわたしのどこを取って美しいと言えるだろうか」
すると鏡はつづけて応えた。
「お答えいたします。王女さま。色眼鏡で世界をご覧になられているのは、わたしではなく、王女さまのほうでございます。王女さま、ではお答えください。あなたにとっての美しさとは、それはいつしか滅びゆくものなのでしょうか」
滅びゆくもの……王女は滅びゆくすべてを心の中でイメージした。肉体は滅びゆくものである。肉体の価値とは如何ほどのものなのか。肉体の美しさを最も高い価値として置く者も多いかもしれないが、人間の肉体の美しさとはよく考えてみれば、薄皮一枚で装われた美しさである。その薄皮を一枚めくるだけですべてがおぞましい姿と化してしまうだろう。お母様はあんなにお美しかったのに、今はもうその美しさは写真の中にしかない。美しい写真を眺めて美しいと感じても悲しいばかりだ。お母様の美しさは滅んでしまったのだろうか。だから喜びよりも悲しみがあるばかりなのだろうか。それとも滅びゆくのは、わたしのこの悲しみだろうか。嗚呼、ほんとうの美しさとはなにか。いったいなにが滅ばない美しさと言えるだろうか。
王女は母親の美しさはほんとうはどこにあるのかを探した。
そしてとうとう確信に至った。
悲しみは美しい……。嗚呼お母様はほんとうに悲しい人だった。愛する幼いわたしを置いて死ななくてはならなかったのだから……!お母様の悲しみは、滅んでしまうものなのだろうか……?その、美しさは……いつ滅ぶというのだろう。わたしは滅ぼさせたくはない。けっして、けっして滅ぼすわけにはいかない。それがほんとうの、美しいものなのだから……。
王女はそう強く信じた瞬間、鏡が言葉を放った。
「王女さま、あなたは本当に美しいものがなにであるかをご存知です。そしてそれは滅びないものであると信じるあなたの心の強さが証明しています。わたしはそれがゆえに、あなたにお答えいたします。あなたはほんとうに美しい。それはあなたがだれより、悲しいからです。それがためにわたしはあなたを心から愛しております」
王女は恍惚な感覚に満たされ、まるでお父様とお母様の胸に抱かれているような幸せな心地になった。
それに、お母様の形見であるこの鏡の言葉は、まるでお母様の言葉のようにも想えたからである。
王女は鏡に向かって「ありがとう」と告げるとその時初めて隣の部屋で泣いているSnow Whiteの声が聞こえてきて慌ててSnow Whiteのもとへと走った。
美しく愛くるしいSnow White。しかしこの美しさもいつかは滅びゆくもの。王女はSnow Whiteを抱っこしながらあやすとSnow Whiteは真っ赤な顔を落ち着かせて頬だけを紅く染めるとさっきまでの泣き顔はどこへやら、「たははははっ」と王女に向かって笑うのだった。
つられて王女も「うふふふふっ」と笑いながら我が子を見つめ、なんて可愛いのだろうと想ってはSnow Whiteをぎゅうっと抱きしめた。
Snow Whiteが一歳、王女は十六の年のことであった。
Snow Whiteはこの国の王を受け継ぐ大事な王太子であったものの、王はSnow Whiteに対して情を移すことも接することもなるべく避けておられるようであった。
それはどこの馬の骨かもわからぬ男の血を受け継いだ子供であることと、やはりこの国の王を受け継ぐのは自分の血を受け継いだ子であってほしいという切迫した願いゆえであったかもしれない。
だからといって、自分の娘に自分の子を産ませることも、はたまたほかの女に産ませるのも愛する亡き妻のことを想うと心が引け、王の懊悩は日毎夜毎膨れあがってはその心を大層苦しめた。
それがために、Snow Whiteはほとんど父とは会わずに、父を知らずに育った。
かくして、Snow Whiteはいつまで経っても母親だけに愛着と執着のうちに固着し、互いに支配し合うことを願いつづけ、母親だけに絶対的価値を置く乳離れのできない劇切(げきせつ)なMother Complex(マザーコンプレックス)をいだいて生きていくようになってしまった。
Snow White「Мум(マム)、ママ、おかーしゃま(お母さま)、おーちょしゃま(王女さま)、まだー(Mother、マザー)、ママン、マミー、マーマ」
Snow Whiteは二歳になり、王女は十七の年となった冬の寒い日。
王女はあたらしい趣味を見つけ、暖炉のそばでうんうん唸りながら小説を書いていた。
そこにペルシャ絨毯の上でごろごろと仔猫か仔犬のように寝っころがっては甘えてくるSnow Whiteに気が散って、なかなか先へ筆がすすまない。
王女「嗚呼っ、せっかく思いついたと思った瞬間に忘れてしまった。坊や、ちょっとは静かにしてくれなきゃママは一向に小説の続きが書けないじゃないか」
怒られたと想ったSnow Whiteは途端、もうぐすぐすと鼻をすって泣きべそをかきだした。
「はぁ…」泣かれたら余計に小説が書けないと王女は溜め息をつくとSnow Whiteを抱っこして膝上に載せてやった。
抱っこしてやった途端、Snow Whiteはそのくりくりとした黒い目をきらきらと光る水面のごとく煌めかせじっと見つめてくるのだった。
Snow White「ママ、おっぱい」
王女「おっぱいがどうしたんだい、坊や」
Snow White「おっぱい、ぼく、マンマ」
乳離れは早くて2歳ほどで、世界平均は4歳と2ヶ月だという。Snow Whiteは2歳になったばかり。
王女はもうお乳が張って痛むことはないし、小説に専念するためにもSnow Whiteには早く乳離れをしてもらいたかったのでSnow Whiteのその切実な頼みを聞かないことに決めた。
王女は、代わりにテーブルの上に置いてあった甘いミルクの飴をSnow Whiteのちいさなお手てのなかに渡した。
王女「おまえはまた、そんな不屈な顔を浮かべているけれど、その飴はママのお乳なんかより数億千万倍も美味しい飴なんだよ。いいから舐めてご覧」
しかしSnow Whiteは王女が言い終わった瞬間、その飴を「きちゃないっ」と言ってぶんっと暖炉の中へと投げつけた。(この「きちゃない」という言葉は王女が無意識に良く使ってしまう気に入らないものに対して使っている「汚い」という言葉の口真似であった)
そして苦虫を潰したような顔をして床を両手両足でもがき苦しむ蟹のような動作で叩きつけ始めた。
王女は試しに10分ほどその様子を黙って眺めていたが、10分経っても一向にその動きは鈍さを覚えることを知らぬかのようにスピーディーに動きつづけていた。
王女は大きく溜め息をついて黙って部屋を出て閑処(かんじょ、手洗場)へ向かい、戻ってくると憐れなSnow Whiteは一人でドアを開けられずに、ドアの傍にいた為に、王女がドアを開けたときに頭をぶつけて思いきり泣きだした。
王女はSnow Whiteを抱きあげて炊事場へ向かうとそこでミルクを温め、温まったのを哺乳瓶に入れてSnow Whiteの口のなかへ突っ込んだ。
ふごふごと言いながらもSnow Whiteは涙を流しながら必死に飲んだ。
飲ませおわったら肩に顎を載せ、背中をトントンと叩き、ゲップをさせた。
そしてSnow Whiteを抱っこしたまま部屋に戻ると、なにか灰の臭いがあたりにしており、空気中には小さな灰が舞っている。
王女は書いていた小説の帳面を探した。するとどこにも見当たらない。
ふと、暖炉の中を覗いてみると、そこに帳面の端の辺り以外が焼けてなくなったものを見つけて愕然とした。
王女はSnow Whiteを一人で部屋に残したことを心から後悔した。
抱いているのも忘れていたSnow Whiteを見やるとよだれを肩に垂らしてすやすやと眠っていた。
その寝顔を見ると、怒る気も失せてそっとベビーベッドに寝かせた。
しかし次の日にはやっぱり憎たらしい、とSnow Whiteを王女は詰問攻めにした。
暖炉のまえでSnow Whiteは両脚の裏をひっつけて身体を大きく揺らしている。
王女「坊や、昨日、ママの小説をおまえ、暖炉に投げただろう?」
Snow White「しちゃないっ」
王女「しちゃないってなんだい。してないと、きちゃない、が一緒になってるのかい。おまえはママの書いた小説も”きちゃないっ”と言って投げつけたのかい」
Snow White「ちぇんちぇん、しちゃないっ」
王女「なに?ぜんぜん、しらない?」
Snow White「うん」
王女「だったら、なんで、ママの小説は暖炉行きになったんだ。なんで、なんで、初めての少年性愛劇を書いていたのに、なんでそれが暖炉行きとなってしまったんだろう?」
Snow White「ちょぉねん、ちぇえゃい、じぇち?」
王女「そんな言葉は覚えてなくていい、坊や。嗚呼せっかく、せっかく微少年キョムと半人半獣のウルフ貴兄が、これから禁断の獣姦的性愛を貫くところだったのに、嗚呼、もうもう一回想いだして書くのは骨が折れる。天からの罰と受け止めて、ママは諦めることにするわ」
Snow White「ママっ」
王女「なんだい、我が愛するSnow Whiteよ」
Snow White「だっこ」
王女「ママはこれから、睡蓮とハダカゴケグモの近親相姦かつ、遺産の奪い合いを絡めた天真爛漫な愛憎波瀾曲折劇を書くから、黙っていなさい。いいこだから、後生(ごしょう)だから」
するとSnow Whiteはどこで覚えたのか犬が切痔を必死に絶えながら排泄を行なっているかのような体勢でぷるぷると震えながら「ぁぅっ、うぅっ、ぁぅっ」と言ってはまた泣く備えに取り掛かりだした。
王女は自分の口を強く抑えて笑うのを我慢しながらSnow Whiteのさらさらした髪の頭を撫でてやった。
Snow Whiteは気持ちのよさそうに頬と鼻の先を紅く染めて身体を揺らしながら、くっしゃみをすると鼻水がでて、それを無意識に手の甲でぬぐって絨毯で拭いたので王女はSnow Whiteの後頭部を後ろからしばいた。
Snow Whiteは前につんのめり、そして泣いて泣いて泣き明かし、泣き疲れて絨毯の上で眠った。
不憫には想ったが、自分は想わば、母親の愛を記憶しておらない娘であり、その訳あってか、愛し方を知らず、致し方ないの、と自分に言い訳しては王女は絨毯の上でうつ伏せになって眠るSnow Whiteそっちのけに創作に励んだ。
明くる日の晩、王女はとても悲しい事象に見舞われた。
常日頃から、王女の王に対する嫉妬は和らぐものではなかったが、この日の王女も日々の行いごとのようにこれ当然としてやり続けていたことがあった。
それは王に届くいくつもの招待状を王に報せる前に破って捨てるという習慣である。
何故なら、その招待状のなかにはどこぞの国の王女や姫からの誘いが嫌というほどに紛れており、愛する王を自分以外の女性とましてやふたりきりで逢わすなどは絶対に嫌なことで、会わせないためにも王に見つからないようにしなくてはならなかった。
しかしこの日に限っては、なんたる手抜かりであろう、王がちょうど外から帰ってくるあたりの時間にまた、王の入ってくる恐れのある書庫にて招待状を開けてはびりびりに破いているところに王に後ろから声をかけられ、咄嗟に後ろに隠した破かれた招待状の幾片もの欠片が手から落ち、それを拾って読んだ王に王女のしていることがついに知れてしまったのである。
王は低く怒りを抑えた声で言った。
王「なるほど、どおりで最近、知人たちからの音沙汰が妙に少なくなったわけだ。おまえはなにゆえにこのようなことをしつづけているんだ」
王女は何も答えることができなかった。
王女が破いた招待状や手紙のなかには王にとって、またこの国にとって本当に大事なものがいくつもあったかもしれない。
王はショックのあまりか、黙ってそこを立ち去ろうとしたがふらっとなって近くにあった木の四角い小さなスツールに思いきり脛の辺りをぶつけ、この晩、王は特に機嫌が悪かったのだろう、そのスツールを持ち上げると王女に向かって鬼のような形相で投げつけた。
するとそのスツールは王女の腕にぶつかり、猛烈に痛かったので王女はうぅと呻くとその場にしゃがみこんで声を殺して泣きだした。
だがしかし、あとでもっと深い悲しみに暮れたのは、その木のスツールはよく見ると王女が十三歳くらいのときに自分で作ったスツールであり、それを見せたときの王はとても喜んでくれて大変気に入ってくれたのでここにこうして置かれて王も何度と腰を下ろしたであろうスツールであったからだ。
王の王女に対する”暴れる力”と書いてごとくの暴力ごとは今日に限ってだけのことではなく、これまで幾度とふるわれてきたものであったのでこれと言って驚くことではなかった。
食事中や馬車に隣に座っているときなどはしょっちゅう口ごたえをちょっとでもした瞬間に飛んでくる瞬発的な裏拳を喰らってきたし、また思わぬ物がものすごい速さで飛んでくるのもよくあることであった。
王女はその晩、眠る前に魔法の鏡に向かって問うた。
王女「鏡よ鏡、わたしの大事な鏡よ、わたしはなぜ、いつもお父様を困らせることばかりしてしまうのだろう」
鏡は瞬間的に応えた。
鏡「王女さま、愛おしきわたしの王女さま。お答えいたします。それは王女さまのすることなすことにことごとく、お父様が困られるためです。王女さまはなにも悪くはありません。同時に、王さまもなにも悪くはありません。王女さまは王さまを深く、深く愛しておられます。そして王さまも王女さまをそれは深く、深く愛しておられます。その愛はゆきちがいになればなるほどに悲しみと苦しみを生むでしょう。一致したときにはどんなに大きな喜びに互いに包まれることでありましょう」
王女「鏡よ、ありがとう。わたしは悲しむほど美しくなるだろう。その美しさに、きっとお父様もいつか気づいてくださるに違いない。わたしはその日を信じて、今この悲しみに耐えましょう」
鏡「あなたの悲しみはほんとうに美しい。わたしの愛する王女さま、どうか悲しく美しいままでいてください」
王女は黙って真っ暗闇な鏡に向かって頷くと埃が積らないように真紅の覆いを鏡に被せた。
ベッドのなかに横になっていると隣の部屋からSnow Whiteがぐずついているような声が聞こえてきたが王女は悲しみと泣き疲れであやしにゆく気力もなく、意識が遠のいていくときに、Snow Whiteは可哀想な子だと初めて想い、涙を流した。
そうしてまたいちねんいじょうが経ちました。
Snow Whiteは四つ、王女は十九歳となりました。
ある冬の朝、王女はいつもの窓辺の揺り椅子に揺られながらSnow Whiteの水色のお洋服にSnow Whiteの好きなトノサマバッタの顔の正面の刺繍を施(ほどこ)していたときのこと。
Snow Whiteは床でお絵かきをしながら王女に尋ねた。
Snow White「おかあさま」
王女「なんだい、坊や」
Snow White「おかあさまはなぜ、ぼくの、おかあさまなのですか?」
王女はまたか、と想い、適当に応えた。
王女「それはね、おまえがお母さまを選んだからだよ」
Snow White「ぼくはなぜ、おかあさまをえらんだのですか?」
王女「知らんよ、そんなこと。おまえはじぶんに訊いてみなさいな」
するとSnow Whiteはほんとうに自分に向かって尋ねだした。
Snow White「ぼく、ぼくはなぜ、おかあさまを選んだのですか?」
しかしSnow Whiteは黙りこんでしまった。
「ぅ……」とちいさく呻くとSnow Whiteは王女をまたきょとんとした目で見つめて尋ねた。
Snow White「ぼく、は、ぁたぶん、おかあさまをあいしてるから、ぁだから、おかあさんをえらんだのですか?」
王女「ってなんでわたしにそれを訊くの」
Snow White「だって、だって、おかあさまはきっと、それをしってるんだもん」
王女は窓べから今日もよく降り積もっている雪景色を見渡しながら言った。
王女「わたしはただ、ほんとうのほんとうに美しい子が欲しいと、そう天に祈ったのよ。するとおまえが生まれてきたというわけさ」
Snow White「ぼくは、ぅ、うちゅく、うつ、く、しいのですか?」
王女はSnow Whiteに視線を向けると即座に言った。
王女「おまえは今はまだ、うつくしい、の、うの文字の上のちょんと書く最初の跳ねにも及ばぬほどだ」
Snow Whiteは残念そうなしょぼくれた様子で言った。
Snow White「ぼくは、ぅ、ぅちゅくし、ぅつぅくぅしく、ない……」
約五分ほどの時が過ぎ、そのあいだ、真っ白な雪は音もなく降りつづいた。
突としてSnow Whiteは口を開いた。
Snow White「ぼくが、ぼくがもっと、うちゅくしく、うつっくっしく、なれば、おかあさまはもっと、ぼくを、あいするのですか?」
王女はぼんやりと、あの日美しさを感じた瞬間を想いだしながら応えた。
王女「そうね、坊やがもっともっと美しくなるなら、わたしはきっとおまえが気になってしかたなくなるだろう」
Snow Whiteは黄色く太陽を塗りつぶしていたクレパスを指から落とすと王女に近づいて下からじっと強い眼差しで見上げ、はっきりとした口調で言った。
Snow White「ぼく、うつくしくなる。ぜったい、うつくしくなる」
王女はSnow Whiteのいつになく真剣なその表情を見て、デジャヴュのような感覚を覚えるなかにも無意識に針を動かしてしまったために針で指を強く突いてしまった。
その血の一滴がSnow Whiteのちょうど左目の下あたりに落ちて跳ねた。
白雪のごとくその肌に落ちた真紅の雫(しずく)。
つづいて二滴、三滴と血が垂れ、Snow Whiteのその顔はまるで血の涙を流しているかのように見えた。
王女がまたぼんやりしているとSnow Whiteが王女の血の垂れる左の人差し指を見て言った。
Snow White「これが…うつくしい…?」
そしてSnow Whiteはその指を乳首を吸うようにちゅうちゅうと吸いだした。
黙ってそれを見つめていると、いつまでもSnow Whiteは吸っていた。
王女はやはり乳離れはすこし早かったのだろうかと心配した。
Snow Whiteが2歳になったときから王女は一度も自分の乳から母乳を与えることはしなかった。
4歳になってもまだSnow Whiteは寝惚けているときは決まっておっぱいをせがんではぐずつくのだった。
しかし自分が母と離された頃は母が病を発病した2歳の頃であったし、自分も耐えてきたのだから、我が子も耐えられないはずはないと厳しく育てたかった。
王女は夜明け前近くまで”煙の王者”という異世界滑稽ミュージカル劇の台本を書いていたのでついと睡魔に襲われ気を失うようにして眠りの世界に入っていった。
垂れた涎に目を醒まされ、右手の甲で涎をぬぐった瞬間、王女は異様な光景を目の当たりにした。
目の前には何一つ変わらない体勢で、されどその目は何かにとり憑かれてでもいるかのような据わった目で同じように自分の指を吸いつづけているSnow Whiteがいたからである。
王女は首を捻(ひね)って壁に掛かった時計を見た。
確か眠るまえは朝の十時前頃であったはずだ。いま時計の針は午前十二時の三分前である。
まさか我が子は二時間近く自分の指を吸いつづけていたのだろうか…?
王女はSnow Whiteの口からすぽんっと指を引っこ抜いた。
その指は第二間接あたりまで青白く不気味に変色してふんにゃふんにゃになってふやけていた。
Snow Whiteの顔を見ると、その顔もどこか、ふんにゃふんにゃとした感じだった。
王女は薄っすらと胸の中心部が寒く凍えるような感覚になり、呆然となった。
乳離れが早すぎたために、異様な人間になるのか、こいつは。
王女は目の前の我が息子に対して初めて言い知れぬ怯えのようなものを感じた。
今から気も狂わんばかりに我がすべての情熱を絞るようにあまねくこの乳を息子に与えつづけるなら狂人になっていくことを食いとめることができるのだろうか。
そうはいってもSnow Whiteの身長は今で一メートルをちょっと超えた辺りである。自分よりもわずか60cmほど小さい位である。そんな大きな子供に乳を与えるなど恥ずかしくて耐えられない。
馬鹿でかい品も恥じらいも当の昔に忘れ去ったかのような乳であるなら減るものがあるとも思えないからまだしも、自分の乳はあまりに小さく、まだ少女のように恥を知る乳である。(そう自分で想いたい)いくら我が子といえども、何かが減っていくような気がしてならない。
嗚呼、想わば、よく考えてみたらば、わたしは自分の乳を始めて吸わせたのは我が夫ではなく、猿みたいなこいつだったのである。悲しい。まるで羞(はじ)らう処女をこの猿みたいな人間に奪われたのも同じではないか。わたしにとって、女である喜びとはいったいなんだろう。わたしは男に抱かれる喜びもまだ知らない。わたしはまだ、男を知らない。お父様との一度きりの交わりは…あれは男を知ったとは決して言えるものではなかった。激痛と恐怖以外のなにものもなかったではないか。わたしはまだ愛する男と、接吻すら交わしたことがないのである。いったいどのような喜びなのか知らん。よく、天にも昇るような心地だと言うではないか。一度でいい。一度でいいから、わたしはそれを味わってみたい。やはりこの乳は、この羞らひを知る胸は将来の男の為に取って置こう。この我が猿坊主にこれ以上やる必要はないだろう。
もうおまえは、存分に我が乳を吸い尽くしたではないか。そう王女は訴えかけるようにSnow Whiteを凝視した。
Snow Whiteは久方振りに、余は満足也。とでも言いたげなふにゃふにゃな顔のままどこかあらぬほうを見つめておった。
王女はなにゆえに、Snow Whiteを可愛がって愛しながらも、Snow Whiteの存在にどことなく腹立たしくなるのかは既に気づいていた。
それは王女がSnow Whiteを身籠ったことがわかったそのときから、王が娘であり妻である自分に対しどこかで落胆の想いを抱きつづけているような気がしてならなかったからである。
それは王の自分自身に対する落胆であったかもしれない。
王は王女を愛するがゆえに、Snow Whiteが誰の子であるかも知らないまま、自分の子としてこの城で育てることを王女に誓ったのである。そのことから、Snow Whiteが王の子ではないという気持ちでいるのは王ただ一人だけなのである。
王女は男の真の喜びを知りたいと強く願ったが、それは謂わば生命が自然と求める好奇心のようなものであり、また本能の欲求であり、知らないものを知りたいと希(こいねが)う情熱であった。
また本来、王女は父の愛に渇きつづけたために、父の子を欲しがったのであり、今度は子に愛されてもなお、父の愛に飢えつづけ、日ごと苦しみは和らぐどころか深くなってきているが為に、またもや他のもので慰みを切々(せつせつ)と求め、それがほかの男の喜びという激しい欲求不満の表れとなってしまったわけである。
とどのつまり、何が言いたいかと言うと、王女はこう想いたかった。
王がちょうど好い加減で娘である自分を愛していたのなら、きっと自分は子を産みたいなぞとは願わなかったろうし、ましてやほかの男による性の喜びや恋の喜びといったものは大したものではなく、そんな喜びは父に好い加減で愛されることに比べたならどれほど貧弱で儚く、悲しくもなく美しくもないものであるか。それは王女にとっては、本物の愛ではないからである。王女にとっての本物の愛とは、王との愛、それただひとつだけであったからである。王女に姉や兄といった存在がいたならすこしは違ったのかもしれないが、王女は一人子であり、また母の記憶のないそんな王女にとっては、王以外との愛などは、”滅びゆきて去りぬ”ものでしか、在り得なかったのである。
そう想えば想うほど、王女は自分のことを愛し慕(した)ってやまないこのSnow Whiteが一層悲しく想えるのだった。
しかしほんとうに美しい(悲しい)子が欲しいと願ったのは自分であったことを王女は気づいていた。
この先も、ずっとずっとSnow Whiteは母親だけを愛するというならば、どれほど悲しい人間ができあがることだろう。
そんな我が息子Snow Whiteは、どんなにか美しい存在になるであろう。
王女はそう想うとまだふにゃふにゃ顔をやめないSnow Whiteを抱きあげ、一緒にランチを食べにお城の中の食堂に向かった。
そうして、また次の冬がやってきました。
Snow Whiteは五つ、王女は二十歳となりました。
王女の二十歳の誕生を祝う大宴会がお城で開かれ、王女は苦手な奥様連中からの御追従に辟易しながらも愛想笑いでもってなんとかその場を受け流し終わった後にはどっと疲弊の黒い波が押し寄せては引いてゆくのであった。
王女はその夜に、魔法の鏡に向かってこう問いかけた。
王女「鏡よ鏡、わたしの大切な鏡よ、今日はたくさんの人間たちがわたしのお城へとやってきたわ。ほんとうに疲れたわ。うんざりよ。いったいみんなで集まることの何が楽しいのかしら。わたしはさっぱりわからない。見た目だけは美しいような御婦人方や、散々と辛酸を嘗め尽くしてきたかのようなどっぷり疲れの色が見える顔のご老人までもが蟻のようにうじゃうじゃといたわ。鏡よ鏡。正直に仰ってね。今日のお城のなかでいちばん美しい者はどこのだれかしら」
すると鏡はすぐさま返事をした。
鏡「王女さま、わたしの愛してやむ日を見ないわたしの王女さま。お答えいたしましょう。今日のお城のなかだけでなく、全世界でいちばんに御美しいのは、あなたです。何故なら、あなたの愛はだれの愛よりも深く、それはそれは悲しく美しい愛だからです」
それを聴いて王女はにんまりとして応えた。
王女「おまえはほんとうにいつも正直で素直でよろしいこと。では興味本位で訊いてみましょう。わたしのつぎに美しいのはどこのだれなのかしら?」
鏡は一瞬の間を置くとこう応えた。
鏡「お答えいたします。王女さまのつぎに御美しいのは、それは、Snow Whiteでございます」
王女はその名を聴いた瞬間、まるで稲妻が頭の天辺から刺さって尾骶骨から抜けでていくような衝撃を受けた。
その時、部屋のドアをトントンと叩く音が聞こえたかと思うと、そのあとにつづいて「お母さま」と泣声で呼んでいる声が聞こえた。
王女「Snow Whiteだわ…」
王女は吐息を漏らすと、虚ろなその目を鏡の闇の奥へとやった。
放って置こう。そしたらそのうち、家来の誰かがやってきて、「あらあら王太子さま。こんなところにいらしたのですね。ささ、お部屋へ戻りましょう」とかなんとか言って、連れてってくれるに違いない。
王女はそれを期待してじっと待っていたが、今日は宴会の後片付けでみな忙しいのだろうか、いくら待っても誰もやってはこない。嗚呼っと叫んでは王女はドアを開けて部屋の中を覗かれないようにすぐに部屋の外へ出て閉めた。
王女「こんなに夜遅いのに、どうしておまえは寝てくれないの?!」
王女の怒りにショックを受けてSnow Whiteは声をあげて泣きだした。
困った王女は身長が伸びて重たくなったSnow Whiteをうんしょと肩に担ぎこむようにして抱きあげるとSnow Whiteのベッドのある部屋に向かった。
部屋に入るとベッドの上にSnow Whiteを寝させて自分は椅子に腰掛け、ちょうど枕元の小さな本棚に置いてあったグリム童話「カエルの王子さま」をSnow Whiteの為に早口で静かに朗読してやった。
しかし次の瞬間、それまで感じたことのない、何か不思議な甘い感覚が王女の全身を貫いた。
「これは何?いったいなんなの?」
王女は自分にそう問うた。
これまで自分で自分を慰めていたときとは比べ物にならない。強烈な感覚である。
しかし王女は慌てて首を振ってそれを打ち消し……
しかしカエルが面白がって、王女の身体のあちこちを探検し始めたとき、王女は思わずたまらなくなって、こう呻いた。
「あ、ああ、やめて……ってなんで官能小説みたいなグリム童話がここにあんねんっ」
と思わずどこぞの国の方言が出て王女はその本を壁に向かってぶつけた。
非常に気まずい想いで、そぉっとSnow Whiteの顔を王女は横目でちらと覗きこんだ。
するとSnow Whiteは男も立てずに、否、音も立てずに、天子(てんし)のような寝顔で眠っておった。
ふぅ、と息をついては王女はその可愛らしいSnow Whiteの顔をじっと見ていた。
欠伸がでて、そろそろ部屋へ戻ろうと立ち上がったその時、何かが引っかかった。
引っかかった部分をよく見てみると、それは服の裾が家具か何かに引っかかったのではなく、Snow Whiteがその左手でぎゅうっと思いきり王女の寝巻きの白いワンピースの下のペティコートの裾を握りしめたまま眠っていたためであった。
王女はなんとなしに腰が抜けたように椅子にすとんとまた座ると、先ほどの鏡の言葉を脳内で何度と反芻しだした。
「王女さまのつぎに御美しいのは、それは、Snow Whiteでございます」
ははは。気づけば王女は声にもなっていない空笑いが漏れでてはつぎには泣きたくなった。
そんなまさか。どこぞの方言で言うなれば、「んなあほな」
わたしは信じられない。こんな、まだ、まだ仔猿かカエルかウリ坊かゴマフアザラシかというような小僧の悲しみが、こんなにあどけない顔で何にも知らないように眠る坊やの悲しみが、まさかわたしの次に悲しいなどと、いったいどこのだれが本気にして信じられようか?
なにがそんなに、そこまで悲しいというのか。まだたったの五年しか生きてはいないではないか。
あほなことを言ってはいけない。あの鏡、いったいどういうつもりなのだろう。
もういちど、もういちど明日同じことを訊こう。いや何度でも、何度でも、何度でも訊き倒そう。
きっとなにかの間違いでしょう。
こんなに幼い子供がそれほど深い悲しみを知るというのなら、この先、暗闇のくらのくらではないか。生きてゆけるはずなどない。ないはずなどない、などと言わせておけるはずなどない。わたしは死ぬまで息子のお守(も)りをして生きるつもりはない。そんなことをすれば、Snow Whiteはわたしのどの積荷よりも重い銛(もり)の先に付いた錘(おもり)となるであろう。その銛はやがて深海の底を突きぬけ、異界の森すらをも突きぬけ、死は積もりゆき、その灰の底をも突きぬけるだろう。つまり、死んだあともどこまでゆくんだ、という話である。そんな気の遠くなる話をこのSnow Whiteはわたしに聴かせたいのだろうか。頭が回って目が眩(くら)む。
いったいどうすれば、この子はわたしを手放すのだろう。
可愛く真っ白なちいさいお手てで掴まれた綿のペティコートの裾には複雑なレース刺繍が施されていて、王女はその部分をよく見つめてみるとSnow Whiteの細く短い指が一本ずつそのレースの穴の部分に食い込んで突っ込まれては複雑に穴と指が絡み合っていて、簡単には離れないようにしていることにようやく気づいた。
ぞっとする気持ちもとうに突き抜けて、なぜだか、ふと、花札の墨がかった芒(すすき)に白い月がでっかくかかろうとしていて、その空は真っ赤な血の色という確か八月の光札である坊主に月の札の情景が脳裡に浮かんで離れなかった。
花札でお父様と一緒に昔よく遊んだことがある。でももう遊び方を忘れてしまった。
次の日の午後、王女はSnow Whiteにあたらしい絵本を読んであげました。
それは「ジンジャーブレッドマン(しょうがパンぼうや)」というイギリスの昔話です。
暖炉のあたたかい火のそばで、Snow Whiteはわくわくと胸をときめかせていました。
王女は昨日はいらいらとしていたので早口でグリム童話を読んでしまったことを申し訳なく想い、きょうはゆっくりと読んでやろうと想いました。
「ジンジャーブレッドマン」
むかしむかし、あるところに、おばあさんがひとりですこし古いおうちに住んでいました。
おばあさんはひとりぼっちで子供がいなくて寂しかったので、ジンジャーブレッドで男の子を作ることにしました。
おばあさんはじっくりとバターをまぜあわせ、生地を巻いて、とてもすてきなジンジャーブレッド・マンを切りとりました。
そしておばあさんは髪と口と服に砂糖漬けをつけくわえて、ボタンと目にキャンディーチップをつかいました。
彼はどんなに素晴らしいジンジャーブレッドの男だったか!
おばあさんはさっそく彼を焼くためにオーブンに入れた。
彼が完全に焼きあがったあと、ゆっくりとオーブンの扉を開きました。
するとジンジャーブレッドマンは跳びあがって言いました。
「熱い!熱い!はやくそとへだして!」
そしてジンジャーブレッドマンは走って走りました。
彼が走っていると、一頭の牛に出会いました。
「Moo」
牛は言いました。
「おまえさんはとっても素敵だ!食べちゃいたいくらい素晴らしい!」
そして牛は走るジンジャーブレッドマンを追いかけました。
しかしジンジャーブレッドマンははやく走って
「ぼくはおばあさんから逃げたんだよ。ぼくはおばあさんから逃げて、あなたからも逃げられるよ!ぼくならできるもんね!」といって笑いました。
「走れ、走れ、もっとはやく走ってごらんよ!ぼくを捕まえられるもんか!ぼくはジンジャーブレッドマンだもの!」
おばあさんと牛はひっしにジンジャーブレッドマンのあとを走って追いかけましたが、とうとう彼を捕まえられませんでした。
ジンジャーブレッドマンは走りつづけて、つぎに馬に出会いました。
「N..e..i..g..h ...(ネヘヘヘヘェ~)」
馬はいなないて言いました。
「じぶん、おいしいかもしれないな!わたしはあなたを食べたいとおもいます」
「でも、きみはむりだね!」ジンジャーブレッドマンは自信たっぷりに言いました。
「おばあさんから逃げて牛からも逃げられた。ぼくなら逃げられるもんね!」
そして彼は歌をうたいました。
「走れ、走れ、できるだけはやく!きみはぼくをつかまえられっこないさ。ぼくはジンジャーブレッドマンだぞ」
馬はジンジャーブレッドマンを走って追いかけましたが、とうとう彼を捕まえられませんでした。
ジンジャーブレッドマンは走って走って、笑って歌った。
彼が走っていると、つぎににわとりに出会いました。
「ケックル!」にわとりは言いました。
「夕食のためにあんたをペク(つつく)してもいい。ジンジャーブレッドマン!あんたを食べにいきますよ!」
しかしジンジャーブレッドマンはただ笑いました。
「ぼくはおばあさんから逃げて牛から逃げて馬からも逃げたんだよ。ぼくはきみからも逃げることができるもんね!」
そして彼は歌をまたうたいました。
「走れよ、走れ、できるかぎりはやく走れ!きみはぼくを捕まえられやしないさ!ぼくはジンジャーブレッドさまだぞ!」
にわとりはジンジャーブレッドマンを追いかけましたが彼を捕まえられませんでした。
ジンジャーブレッドマンはとてもはやく走られることを誇りにおもっていました。
「だれもぼくは捕まえることはできないさ」と彼はおもいました。
そこで彼はきつねに会うまで走りつづけました。
彼はきつねにじぶんがほかのだれよりも速く走ったことをちゃんと伝えなくてはなりませんでした。
「きつねくん」と彼はいいました。
「ぼくがおいしそうだろう」
きみはぼくを捕まえて、きみに食べさせることはできない。
ぼくはおばあさんから逃げた。
ぼくは牛から逃げた。
ぼくは馬から逃げた。
ぼくはにわとりから逃げて、ぼくはきみからも逃げることができるもんね!
ぼくならできるんだ!
しかしきつねは気にしなかった。
「なぜわたしがあなたを気にする必要があるでしょうか?」
きつねはそうたずねた。
「あなたはおいしそうに見えない。
ノン、ぼっちゃん、わたしはあなたをちっとも食べたくはありません」
ジンジャーブレッドマンはとっても安心しました。
「これはおどろいた。きつねくん」
ジンジャーブレッドマンは言いました。
「きみが気にしないなら、ぼくはここですこし休もうとおもう」
こうしてジンジャーブレッドマンは走るのをやめてつっ立っていました。
するときつねが言いました。
「そういえば、この川の向こうにあなたが住むのにぴったりな素敵なおうちがあるのです。そこへ連れてってあげましょうか」
ジンジャーブレッドマンは目をかがやかせてこたえました。
「ほんとに!まるでそのおうちはぼくが住むのを待っていたみたいだ!ぜひ連れてっておくれよ。やさしいきつねくん」
きつねはやさしくほほえんで言いました。
「では連れてってさしあげます。あなたを待つ最高のばしょへ。わたしの鼻のうえにのってください。わたしはおよいでこの川をわたりますから」
「ありがとうきつねくん!」
ジンジャーブレッドマンはよろこんできつねの鼻のうえにぴょんととびのりました。
きつねは彼をのせて川をおよいでわたりました。
そしてむこうぎしについて、目のすぐまえにいるジンジャーブレッドマンに向かってやさしいえがおで言いました。
「さあいますぐ連れてってあげましょう。あなたにいちばんふさわしいばしょへ」
そのときです。きつねは鼻をいきおいよくうえにふりました。
ジンジャーブレッドマンは「うわ~」と叫んで空中になげだされ、下におちました。
そこに、きつねがおおくちをあけてまっていました。
ジンジャーブレッドマンはきつねのおおきな口のなかにおちると、きつねはくちをとじて、彼のすがたは見えなくなりました。
次の日、きつねはジンジャーブレッドマンを作ったというおばあさんのおうちの戸をとんとんとノックしました。
おばあさんがでてくると、きつねはきのうのことをすべておばあさんに話しました。
そしてさいごに、こう言いました。
「彼は結局、とてもおいしかったです」
そう言ってきつねは帰ってゆきました。
おばあさんはとてもかなしんで、それからなんどもジンジャーブレッドマンを作ろうとしましたが、もうにどと、生きたジンジャーブレッドマンを作ることはできませんでした。
おしまい。
王女は静かに聴いていたSnow Whiteの顔を覗きこんだ。
Snow Whiteは、どこか思いつめたような顔をして、じっとして動かなかった。
「気に入らなかったのか…」王女はそう想って息をちいさくつくとSnow Whiteを抱っこして膝のうえに載せてやった。
すると、Snow Whiteはぎゅっと抱きついてきたあとにぷるぷると小刻みに震えだし、王女を見上げて震える声で言った。
Snow White「な、なぜ…なぜ、ジンジャーブレッドマンは、食べられなくてはならなかったのですか?」
王女は考えて、返事をした。
王女「人生というものは、決まりきった道に用意されているものではないから、予想のつかないことが普通に起きては、人はそのたびに嘆き悲しむ。それはなんで悲しむかというと、心のどこかで、そんなことは起きるはずがない、起きるべきではないと想っているからさ。Snow Whiteは、ジンジャーブレッドマンは食べられるべきではないと想ってるだろう?」
Snow Whiteは神妙な顔で「うん」と頷いた。
王女「でもそんなことは、決まっているわけではない。実際に、牛も馬も鶏も狐も、彼を食べるべきだと想ってただろう。それにそんなおまえだって、昨日の夕食には牛を食べたし、今日の昼食には鶏を食べてたやん。それなら、牛や馬や鶏や狐が、ジンジャーブレッドマンを食べたらいけない理由などどこにもない。お母さまは可笑しいことを言っているかしら?」
そう言うと、Snow Whiteの顔は見る見るうちに青褪め、肩を落として悄然(しょうぜん)となった。
そして涙をうるうるとさせた目で王女を見て言った。
Snow White「ぼくは…ぼくは、うしさんやにわとりさんを食べたの?」
王女は頷いて言った。
王女「ほかにもぶたさん、ひつじさん、うさぎさん、うずらさん、ロブスターさん、お魚さん、たくさんおまえは食べてしまったよ」
Snow Whiteは両手で口を押さえこんで咽び泣きだした。
そして真っ赤な目で王女を見据えて言った。
Snow White「ぼくはもう、にどとかれらをたべません」
王女はSnow Whiteの頭を撫でてやると応えた。
王女「おまえはそのほうがいいかもしれないね。胃腸の弱いおまえにはきっとそのほうが合ってるのだろう」
王女はSnow Whiteを抱きしめると「なんて心の優しい繊細な感性だろう。きっとわたしとお父様の優性遺伝子の感性の深さが合わさることによってこのような深い感性が生まれたのだろう」と喜びに打ち震えた。
Snow Whiteはお母さまが今日は優しいことが嬉しかったが、それでもたくさんの生き物を食べてきたことの悲しみは消えず、こころのなかでなんどもなんども「ごめんなさいごめんなさい」と謝りつづけた。
そうしてまたいちねんのつきひがながれました。
Snow Whiteは六歳、王女は二十一歳となりました。
ある晴れた冬の夕方、王女がいつもの窓辺の揺り椅子に座ってSnow Whiteのちいさな藍色の手ぶくろを編んでいるとそばでブロックで遊んでいたSnow Whiteが唐突にこう言った。
Snow White「お母さま、ぼくはお母さまと連想あそびがしたいです」
「連想あそび?」王女はつと手を止めると訊ねた。
王女「はて、それはどのようなあそびなの?」
「ええっと」Snow Whiteはきょろきょろして後ろを振り返り、テーブルの上に目をやると応えた。
Snow White「Pommes en Cage(檻の中のりんご)は、中にりんごが閉じ込められている。ってぼくが最初に言ったら、ぼくがまた、”閉じ込められているといえば?”って言うと、つぎ、お母さまが、閉じ込められているものを探して、それをお母さまが答えて、そんで、なになにといえば?っていうのをぼくとお母さまがかわりばんこに言っていくってゆうあそびです」
王女は編み針を交互に動かして編みながら「へぇ、そんなあそびがあるんだね。どこで知ったの?」と訊いた。
Snow White「こないだ読んだ”たとえ物語”の本のなかにそのようなあそびが書いてあったのです」
王女「それは面白そうな本だこと。ではさっそくおまえから始めてごらん」
Snow Whiteは嬉しそうな顔で「はい」と応えるとつづけて言った。
Snow White「ではさっきのつづきで、りんごは閉じ込められています。閉じ込められているといえば?」
王女「うぅん、家畜。家畜といえば?」
Snow White「家畜はかわいそうです。かわいそうといえば?」
王女「お母さま。お母さまといえば?」
Snow White「ぼくの婚約者です。婚約者といえば?」
王女はSnow Whiteを咎める顔で見ると「いったいお母さんはおまえの婚約者にいつなったんだい」と言った。
Snow Whiteは頬をりんごのように赤くして応えた。
Snow White「ゆ、夢のなかでです」
王女「お母さまの婚約者はお父様です。お父様といえば?」
Snow Whiteは低くうなだれて答えなかった。
「お父様といえば?」と王女はもう一度言った。
するとぼそぼそとSnow Whiteは答えた。
Snow White「ぼくは、お父様のことをあまり知りません。し、知らないといったら?」
王女「物語の行方。行方といえば?」
Snow White「とても、不安です。不安といったら?」
王女「すべてです。すべてといったら?」
Snow White「ぼくのすべてはお母さまです。お母さまといえば?」
王女「お母さまはいつか死ぬのです。死といえば?」
Snow White「ぼくは…ぼくはお母さまを死なせるわけにはいきません。ぼくは、死と戦います。戦いといえば?」
王女「戦いは、愚かです。愚かといえば?」
Snow White「それは…ぼくのことを言っているのですか…?」
王女は編んだ部分をほどきながら言った。
王女「そうです」
Snow Whiteは黙りこんで悲しそうな顔で王女を見つめた。
王女「おまえはさっき答えをはぐらかした。お母さまは”死といえばなにか?”と訊いたのです。でもおまえはそれに答えられなかった。おまえは死がなんであるかも答えられないのに、いったいどうやって死と戦うつもりなのです?相手がどんな存在か、ちっともわからないのに、どんなふうに戦えるのでしょう」
Snow Whiteは打ちのめされた表情でちょっとのま動かなかった。
そしてにわかに王女を見つめながら言った。
Snow White「愚かな者は、ぼくです。ぼくといえば?」
王女はつと手を止めるとSnow Whiteを見つめ返して答えた。
王女「おまえはこの国の次の王です。王といえば?」
Snow White「王さまは…ぼくのことを愛していません。愛していないといえば?」
王女「Snow White。おまえこそ王さまを愛していない。Snow Whiteといえば?」
Snow White「ぼくはお母さまを愛しています。愛しているといえば?」
王女はすこし手を止めて答えた。
王女「お父様。お父様といえば?」
すると、いくら待っても何も返ってこないので王女がSnow Whiteを見やると目をぱちぱちと大きく瞬(しばたた)かせて絨毯の一点を凝視し、何かに耐えているような顔をしていた。
王女が「どうしたの」と訊くと、Snow Whiteは黙って立ち上がってドアのほうへ走ってゆくと部屋を出て行ってしまった。
何事もなかったかのようにまた編み物を再開しようと指を編み針にかけたが、王女は思いがけなく咽るように涙がでてきて、なかなか止まらなかった。