摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

闘鶏野神社と闘鶏山古墳(高槻市氷室町)~日本書紀に登場する地名の謎と貴重な未盗掘古墳~

2019年04月06日 | 高槻近郊・東摂津
 
★今年2022年、今城塚古代歴史館の春季企画展として、「王家の丘-弁天山古墳群の系譜」が開催されています(3月12日から6月12日)。これまで十分な公開の機会がなかったようです。弁天山C1号墳の三角縁三神三獣鏡などが展示され、無料で見学できます。闘鶏山古墳は発掘されてないので遺物の展示はなくパネルだけですが、図録にも載る小口積みで持ち送り形態の石室の綺麗な写真は三角縁神獣鏡などの埋葬品の様子の含めてとても分かりやすいです★
 

日本書記の仁徳紀や允恭紀にも登場する、その意味深な名前と、高速道路上に橋の参道が有るという稀有な立地に興味をそそられる、高槻市の神社、そしてその背後に存在する前方後円墳です。神社は神職不在で、管理は茨木市の磯良神社がしているそうです。



 
高槻市の公式説明によると、ご祭神は天照大神、応神天皇、天児屋根命だとしています。元々八幡大神宮と称されていましたが、その名の神社は今は西側に存在します。闘鶏野は、仁徳紀で、額田大中彦皇子の猟場であり、奈良県の闘鶏野などとともに、氷室を発見した話に基づく、としています。また、闘鶏をツゲと読むのは、鶏鳴が神託を「告げる」ことに由来すると説明しています。
 

仁徳紀の闘鶏野及び氷室は、奈良県都祁地域で、氷室跡も確認されており、大和の方の事だろうとされていますね。だとすると、なぜこの三島の地に、日本書紀にもゆかり有る地名が付いたのか不思議です。


谷川健一氏編「日本の神々」の、坐摩神社(大阪市東区)についての大和岩雄氏の論考で、この"闘鶏"について説明が有ります。この由緒ある神社の宮司は渡辺の姓を名乗っていますが、以前は都下を名乗り、都下国造を祖とし、50代以上世襲してきたそうです。闘鶏、都下、都介はツゲと読み、いずれも朝鮮の「三国遺事」に載る、新羅の延鳥郎、細鳥女の記事にある、迎日(ヨンイル)県または都祈野から来ていると考えられます。意味は、日の出です。

神社は豊臣秀吉の大阪城築城の影響で現在地に遷りましたが、元鎮座地は天満橋の東南方の位置であり、ここが上記と同じく都下野と呼ばれたとしています。そしてこの地は、いわゆる河内王朝の重要な聖地と考えられ、坐摩の神は宮廷が大和や山城に移ってからも宮中神として祀られ、この神を祀る巫は、都下国造の子女に限られていた事も、この神が難波の都下野にルーツが有る事の証と考えられます。


 以前の、茨木市の太田茶臼山古墳に関する記事で、5世紀に河内王朝時代の大和王権が主導して三島大溝という灌漑用水を築造して、三島を直接支配し、その象徴として太田茶臼山古墳を築造した定説を紹介しました。もしかしてその時期、都下野の都下国造や坐摩の神、あるいは関連する渡来人が三島となんらか関係を持ったという事はなかったのでしょうか。丁度、韓国から多くの渡来人やその技術を受け入れた時期とも重なると思います。位置的にも新池埴輪製造遺跡と近いです。


一方、その北側の丘陵にある闘鶏山古墳は、埴輪を持たない前方後円墳である事から、河内王朝より前、4世紀の築造を考えられます。2002年の確認調査で、2基の竪穴式石槨を持つ未盗掘の古墳と判明し、当時話題になりました。貴重な未盗掘古墳という事で、板石の隙間からファイバースコ
ープを挿入し内部状況が撮影されました。


第一主体では、埋葬者の頭蓋骨が確認され、その上方に方格規矩鏡(後漢鏡)、さらに上方には2面の三角縁神獣鏡(一面は櫛歯文帯四神四獣鏡)が認められたのです。あとは、碧玉製鍬形石と碧玉製紡錘車形石製品、周辺には朱が撒かれていました。第二主体からはスコープの範囲内では、副葬品類は確認できなかったようです。

墳丘は2段築成で葺石が有ります。埴輪はないものの、後円部墳頂に多くの土師器片が有りました。石槨は第一主体がすべて結晶片岩で、壁面は
小口積みで持ち送り形態が特徴。第二主体は、壁体が結晶片岩が主体で天井石は安山岩。壁面は垂直に近いものでした。
(以上、参考文献:森田克行氏著「今城塚と三島古墳群―摂津」)


未盗掘という事で、よく見ると墳丘には柵や物々しいバリケードが設置されていました。今城塚古代歴史館からは歩いて20分程。高速道路の上を歩けたり、高槻、茨木を一望できる良い景色を堪能できますので、まずまずくつろげるスポットだと思います。

 
 
 

コメント (3)    この記事についてブログを書く
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3 コメント

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Unknown (ひろひめ)
2019-08-13 09:49:18
未盗掘の闘鶏山古墳、いつになったら開けられるのでしょうかね?
闘鶏山古墳の三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳のものの一枚と同型らしく、興味深いです。いつか、闘鶏山古墳が公開されれば、またブログで紹介して下されば嬉しいです!
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闘鶏山って (白髪のくま)
2020-12-18 02:37:29
「闘鶏山」って、古墳の発見まで名もない山だったのを発表にあたって、近接する「闘鶏野神社」からとってつけた名前です。「闘鶏野神社」は、もともとこの地に鎮座していたのではなく、明治以前には、南方の地にあったものを移したとみられます。字などを記録した古い地図には、府立阿武野高校の北辺にあたる土地に「字闘鶏野」とあることから、本来はかの地に鎮座していたとみられます。
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コメント頂き有難うございます (akuto508)
2021-01-30 12:11:58
白髪のくま様
貴重なお話ありがとうございます。
闘鶏野神社が阿武野高校あたりだとしますと、平地の耕作地により近くなり、5世紀に進められたたとされる灌漑事業と、ますます関係しそうな感じがしてきます。
本文にも書きましたとおり、古墳はもっと前の築造で、古墳と神社は直接関係ないのでしょうね。
ありがとうございました。
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