摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

海神社 (神戸市垂水区)~五色塚古墳との繋がりが語られるワタツミの神

2024年08月13日 | 兵庫・西摂津・播磨

[ わたつみじんじゃ/かいじんじゃ ]

 

かつての摂津国と播磨国の境界だった地域の、少し播磨よりに鎮座する神社です。そして、この地のもう一つのスポットで、当社との繋がりも語られる五色塚古墳が歩いてすぐの所に有り、併せて訪問しました。古墳は50年ほど前の早い時期に築造当時の姿に復元したもので、その存在感ある風貌も感動ものですが、そこから望む明石海峡大橋や淡路島の絶景も見ごたえがありました。古代から畿内への入口として重要な地であったろうことを体感しました。

 

境内。敷地はわりとこじんまりしています

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の綿津見三神で、相殿に大ヒルメ貴尊が祀られています。社伝によるご由緒としては、神功皇后が新羅遠征から凱旋の途中、この垂水沖でにわかに暴風が起こり、怒濤のため船が漂って進まなくなったとき、皇后が身を祓い清めて海神三座をいまの社地に勧請されたので、風波は静まり、船は無事に進んだというのが当社の起源になります。

 

拝殿

 

社名については、九条家本「延喜式」(鎌倉時代初期)には「アマ」、武田祐吉本「延喜式」(1251年)には「タルミ」「アマ」の二訓があります。ここで、タルミは地名を表し、アマは祭祀氏族が海直(アマノアタイ)である事を表すのであろうか、と「日本の神々 播磨」に黒田義隆氏が書かれています。現在の公式の読みの「ワタツミ」は、明治時代にこの神社名を復活する際に、本居宣長がワタツミと読むべきと主張していた事に従ったものです。ところが、「日本の神々」では「かいじんじゃ」と訓がふってあり、現在でも氏子さんのほとんどが「カイ」と呼ばれているようで、呼びやすさから明治以降現在にかけてカイがすっかり定着していったというのが実情のようです。

 

本殿。江戸時代築造の流造

 

「延喜式」神名帳に「三座」とあるように、当社ははじめは三神だけを祀っていたと考えられますが、その後、祭神に仕える巫女が神の代言者として尊ばれ、比売神として相殿に祀られた時、それを綿津見三神が日向で化生したことにちなんで大ヒルメ貴尊として祀るようになり、総称して当社を「日向大明神」と称するようになったと、先の黒田氏は言われます。ちなみに当社は古くは四殿からなり、ご祭神については豊玉彦・豊玉姫・椎根津彦とする異説も存在するようです。

 

境内社の天神社

 

【神階・幣帛等】

延喜の制では三座ともに明石郡の名神大社で、名神祭と月次・新嘗の祭には国より幣帛が奉られました。黒田氏によれば、「住吉大社神代記」の中で部類神として「明石郡垂水明神」とあるのは、当社だということです。「新抄格勅符抄」には平城天皇の806年、明石垂水神に神封十戸が寄せられたとあり、「和名類聚抄」で明石郡「垂水郷」の次にある「神戸郷」は海神社の神戸のあった所と解されます。「三代実録」の859年に従五位下から従五位上に昇叙された事が見えます。

 

稲荷社、蛭子社、猿田彦社

 

【中世以降歴史】

中世以降は戦禍のため社殿が数回炎上しており、社領は略奪され当社は荒廃しました。しかし、1583年の検地にあたり豊臣秀吉は垂水郷百姓中に宛てて、先例のように垂水郷山内の山銭を大明神の祈祷米料として納めるように伝えて末代まで安堵します。この頃には社号は変更されていたようで、元和(1615~1624年)の頃には「日向大明神」を称していた事がわかります。江戸時代には歴代明石城主が高二石を寄進しました。明治時代にはいると国幣中社に列せられ、社号も海神社に戻ります。明治30年には官幣中社に昇格しています。

 

えびす様にちなんだ七福神の石像

 

【祭祀氏族と五色塚古墳】

当社の旧社家は、鎮座以来の家筋であるとされる宮脇家です。その所伝によれば、神功皇后が海神を勧請されたとき、同家の先祖公文大夫を日向国小戸橘庄から召し登らせ、多くの社領を賜ったので、以後同家は数百代にわたって神事祭礼を執行しました。室町時代には社領地兼帯公文社務職、瑞丘八幡別当社務職でもありましたが、1441年の赤松氏の兵乱や1763年江戸訴訟の際に記録文書を失ったと云います。

 

神社から歩いていくと、住宅街から突如現れます

 

黒田氏は、上記の伝承の始めの部分は、社号を「日向大明神」と変更した中世以降に表現を改めたとみられる点があるとしつつも、同家が鎮座以来の家筋である事は、一応古伝によるものと考えてよいだろうと考えます。また、「続日本紀」の769年に明石郡の海直溝長ら十九人に大和赤石連の姓を賜ったとあります。この人々は明石国造家に連なる一族とみられますが、黒田氏は宮脇家がこの溝長の子孫に当たるのではないかと推測されています。

 

西側から。くびれ部あたりに昇り階段があります

 

当社西方に築造当時の葺石による様式を復元した前方後円墳・五色塚古墳が有ります。明石海峡を臨む全長194メートルの前方後円墳で、「日本書紀」神功皇后の新羅遠征からの凱旋の場面での、皇后を待ち構える麛坂王、忍熊王が偽って仲哀天皇の為の陵を造るそぶりをして立てた山稜のこととも見られていますが、おそらくは明石国造の古墳だろうとされていて、ここを中心に地域には古墳群が形成されています。黒田氏は、宮脇家の伝承が古い事実を伝えているとすれば、古墳群の存在からしても、海神社・宮脇家・大和明石連(明石国造家)がつながる可能性は大きい、と書かれていました。

 

前方部から見た後円部

 

五色塚古墳の墳丘は三段築成で、下段の斜面には付近で集めた小さな石で葺き、中段と上段は淡路島から運ばれた大きな石を葺いていました。二重の浅い濠があったことも分かっています。埴輪のほとんどは鰭付円筒埴輪で、4~6本に1本の割合で朝顔形鰭付埴輪が並べられていました。鰭が接するか前後に重なるように下部を土に埋めて固定されていたようです。2200本あったと推定される埴輪は合成樹脂で再現されています。このような形の保存に関しては文化庁が計画を立て、神戸市によって1965年から10年かけて発掘調査と復元整備工事が行われています。ただ、埋葬施設の発掘調査は行っておらず、埴輪の形式から4世紀後半の古墳と考えられています。

 

後円部から望む淡路島

 

【鎮座地】

大化二年(646年)の改新の詔は畿内の範囲を規定するものでしたが、その西の「赤石櫛淵」が当社の東方にあたります。摂津と播磨の国境が鉄拐山の尾根だったので、赤石櫛淵を境川に当てる説がありましたが、黒田氏はその境川と西のジェームス山の麓までの間の山陽道(西国街道)に沿った場所にあったと考えます。山陽電鉄本線の滝の茶屋駅の付近は「滝ヶ谷」と呼ばれ、東側のジェームス山の中腹にある岩船不動明王には現代になっても清水が湧き出ているそうです。江戸時代には「駒捨の滝」などいくつかの滝があり、地名の「垂水」はこれらの滝に由来していて、「和名類聚抄」にも「明石郡垂水郷」が見えますが、さらに遡って「東大寺要録」所収の748年の太政官符からも垂水郷があったことが分かるようです。そのような岩船の如く水をたたえた珍しい景観が地元でおそらく聖地とされたことから、畿内の西限に規定されただろうということです。

 

明石海峡大橋と復元埴輪

 

海神社はそのような垂水と櫛(奇し)淵に近く、畿内との境界を画する土地にあって、往来する船を守護するとともに、大阪湾への「禍つ日」の侵入を防ぎ祓い清める役目を負っていたと考えられ、だから畿外にあって畿内の神社同様の待遇を国家から受けていたのだろう、と黒田氏はまとめられています。

なお、垂水区下畑町にも下畑海神社がありますが、これは当社の分社であり、4キロの道のりを氏子さんが日参するには遠路であるということで、分社を建てたと伝わります。

 

後円部の葺石。隣の小壺古墳は同時期の築造で、鰭付円筒埴輪は有りましたが、葺石はなかったそうです

 

【社殿、境内】

当社の社殿は古くは四社別殿の造りでしたが、1660年に一棟四拝構えの一社建てに改築されました。明治7~8年に本殿を十四.五間後ろに移す大改造がされています。

 

神社の海側に立つ大鳥居。裏の扁額には「綿津見神社」とあります。表は「海神社」。コンクリート造

 

 

(参考文献:海神社公式HP、神戸新聞Next、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 播磨」三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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