摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

廣峯神社(ひろみねじんじゃ;姫路市広嶺山)~朝鮮系渡来人と秦氏が関わった広峯牛頭天王

2022年05月20日 | 兵庫・西摂津・播磨

 

播磨一円はいうまでもなく、若狭、丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、備後、備中、備前、美作、淡路そして摂津までという広大な地域で崇敬され、゛万人道を争いて参詣す゛とまで言われた古式ゆかしい神社です。牛頭天王の総本宮を自称していて、別称で広峯牛頭天王とも言われます。車で細めの山道を登ると広い駐車場が有りますが、そこの大鳥居から10分程度さらに歩いてようやく見出し写真の隋神門に着きます。白幣山までお参りするならさらに山道を10分程度歩きますが、程よい時間なので良い運動になりました。スポットが沢山あり(黒田官兵衛ゆかりの新しい官兵衛社も有りました・・・)、さすがに見ごたえある有力な神社だと思いました。

 

・隋神門前にある、重要文化財の宝篋印塔。室町時代初期のもの

 

【ご祭神・ご由緒】

本殿には三つの扉があり、中央の正殿に素戔嗚尊と五十猛尊の主祭神を祀ります。素戔嗚尊の化身が牛頭天王ですね。そして向かって右の左殿に奇稲田媛命とその祖神、足摩乳命・手摩乳命を祀り、一方の右殿には天照大御神と素戔嗚尊の誓約で生まれた八王子神(宗像三女神、天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命)とその他十柱の神々(大年神、御年神、若年神、久々年神、稚産霊神、級長津彦神、級長津姫神、久那斗神、八衢彦神、八衢姫神)が祀られています。「日本の神々 山陽」では浅田芳郎氏が、素戔嗚尊、奇稲田媛命と八王子神の三柱と紹介されていますので、80年代から変わったのでしょうか。なお、この神社名は、1497年の勅宣で決定したものと伝わるそうです。

 

・境内

・長大な拝殿。重要文化財

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

社伝によれば、733年に吉備真備によって創始されます(ただ、716年~735年の間、遣唐使として唐にいたともされますが)。「延喜式」神名帳には載らない式外社ですが、「三代実録」の866年に゛播磨国無位素戔嗚神に従五位下を授く゛と有るのが当社と考えられます。

当社の大別当職は、凡河内氏から出た広峰氏の世襲。905年に「古今和歌集」の撰者である凡河内躬恒が祭主に補され、平安時代はその子孫が別当職を世襲し、明治に至るまで大別当職(宮司)として神社に奉祀し続けました。

 

・摂社・地養社。ご祭神蘇民将来。1687年築

・蛭子社。ご祭神蛭子命。1848年築

 

【京都八坂神社(祇園社)との本末関係】

牛頭天王をお祀りする神社としては、圧倒的に京都の八坂神社とその祇園祭が有名ですが、当社と八坂神社でどちらが本社で分霊かについて、現在でもお互いに本社である事を譲らないようです。当社側の1216年の古い文章では、゛播磨国広峯社者祇園本社゛とあり、1223年にも゛祇園本社播磨国広峯者゛と書かれていて、共に広峯神社を本社としています。一方、八坂神社所蔵の1289年の私領譲状(領地などの財産を譲渡する際にその事実を証明する為の証文)に、゛広峰社権別当職者、先考存生之時、被譲之了゛とあり、八坂神社も否定していないようです。

 

・本殿

・拝殿(左)と本殿の間。特異な形態の社殿が相関連して現存するのは珍しいようです

 

【社殿、境内】

最初の鎮座地は西方の白幣山でしたが、972年に現在地に遷座しました。社殿の創建はこの時のようで、一間社の流造が三棟並んでたらしいです。現在の社殿は、1296年に再建してから1441年の嘉吉の乱で焼失した後に再建されたものが現存しています。

本殿は、゛文安元年(1444年)十月二十一日大工藤原宗久゛の上棟銘があり、室町時代の神社建築の確例として価値が高いとされています。桁行十一間、梁間三間、入母屋造で檜皮葺屋根を持ちます。梁方向は、手前から外陣、内陣、内々陣に区画されます。ご祭神のいる宮殿は各一間社流造で、桁方向の中央間と、東西それぞれから三間目に、三社が並列に配置されています。また、宮殿の横の間に本地仏を安置する形が注目されます。先の浅田氏は、内部構造においては密教寺院的な要素が併用され、神仏習合的な神殿という特異性が著しいと書かれています。

 

・本殿背面

・本殿裏の摂末社。七棟が集まりそれぞれ違う方向を向いて独特です

 

拝殿は本殿と軒を接するくらいに近くに建てられています。1444年の上棟との伝えがありますが、墨書銘に゛再建本願本多美濃守忠政・寛永三丙寅年(1626年)゛とあるので、この時の再建と考えられます。桁行十間、梁四間で向拝が付いています。入母屋造でこちらは瓦屋根です。本殿に対して東端が一間狭いものの、柱筋をほぼ本殿と合わせているので、本殿の宮殿のある間が他の間より広くなっている影響を受けて、厳密には左右対称の平面になっていないのが特徴的だと、姫路市教育委員会は説明しています。

 

・国内最大級という本殿の大きさを実感します。九星早見表も有るので自分がどれか分かります

 

【陰陽・九星参り】

当社の説明によると、吉備真備公は、日本に陰陽学を広めるため、素戔嗚尊を牛頭天王・天道神、御后神の櫛稲田姫命を歳徳神、そして御子神の八王子を八将神に配し、日本の「こよみの神」としました。本殿裏にある九つの穴には、「こよみ」の一白水星から九紫火星までの九星をしめす額がかかっており、それぞれの穴深くには、運命星を司る守護神が鎮まっている、という事です。最初に拝殿にて神様への日ごろの感謝を申し上げ、次に裏側に回って自分の運命星の穴に、願い事を書いた木札(授与所で「九つの穴守り」を受ける必要あり)を投げ入れ、口をあてがいて小声で願い事を3回ささやけば、願いが叶うといいます。これを「九星詣り祈願」と呼び、近年女性を中心に人気が高まっている、と神社は説明しています。

 

・白幣山までの道中。江戸時代まで活動した社家の住まいの跡がちらほら見られます

・白幣山の祠

 

【所蔵神宝】

隋神門前にある重要文化財の宝篋印塔は、当社の背後、俗称「吉備ツ様」と呼ばれている地に埋没していたものらしく、この地に移されました。無銘ですが、様式から室町時代初期のものと考えられています。宝珠の一部を欠いていますが、その他はよく揃っていて、姫路の宝篋印塔のうち最もすぐれたものとして貴重な遺品だと、姫路市教育委員会は説明しています。

 

・白幣山、荒神社。素戔嗚尊の荒御魂。17世紀前半のもの

・白幣山、吉備社。ご祭神吉備真備公

 

【伝承】

この神社について、「出雲と大和のあけぼの」で斎木雲州氏が書かれています。もともと播磨の地は広大な出雲王国の一部でしたが、2世紀の和国大乱の時期に、但馬から朝鮮渡来氏族である天日矛命の子孫が侵攻してきました。「播磨国風土記」に書かれているのがこの時の話です。しかし、それもつかの間、大和からイサセリ彦とワカタケ彦の吉備津彦兄弟らが大軍を率いて攻めて来ました。丹後からはアマ(後の海部)氏も但馬に侵入し、さらに南下してきます。結局、天日矛系勢力はこの地から追っ払われ、そこに海部氏の人々が入り「先祖神」である゛素戔嗚命゛と゛五十猛命゛の親子を祀ったのが当地の信仰の始まりらしいです。いずれの神も記紀にも登場する実在の神の、神話化した別名とか、子供の頃の名前と説明しています。

 

・白幣山、磐座

 

さらに、時代は下ってあの神功皇后がこの社で大斎を行い、牛頭天王を祀って新羅国明神と尊称しました。その神々が後に八坂神社に移されたとの伝えです。当社に神功皇后が関係するのは、海部氏が皇后に協力した実績から「海部」姓を与えられた関係によるのでしょうか。当社を祭祀してきた凡河内氏の祖天御影命は、「海部氏勘注系図」や東出雲王国伝承では海部氏の始祖とされています。

以上の経緯から、斉木氏は、゛秦国系の渡来人(海部氏・尾張氏ら)と新羅系の渡来人(一般的に言われる秦氏)との混同が始まり、秦国系の圧倒的多数の渡来人集団を、新羅系渡来人だと誤解する人が現われたらしい゛という、気になる主張をされていました。海部氏と秦氏がこのように交わっているとすると、後の時代に京都での(出雲伝承では出雲系を祖とする鴨氏と秦氏が共同する動きは、弥生時代の初期大和勢力時代から一貫していたと見えて興味深いのですが。。。

 

・隋神門からの絶景

 

(参考文献:廣峯神社公式HP・境内掲示板、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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