摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

伊勢神宮 4 内宮別宮-風日祈宮、倭姫宮、 外宮別宮-風宮、土宮 ~さまよう倭姫と伊勢津彦の姿~

2019年03月30日 | 伊勢、東海

内宮外宮両方に別宮として存在する、風日祈宮と風宮。元々は摂社、末社にも入らない小社でしたが、風雨の平安を祈る上で大きな機能を果たしてはいたようです。それが中世になって急激に神威を高め、別格に昇格したのは、あの蒙古襲来がきっかけです。その時、この両社が鳴動し、神殿から赤雲の一群や鬼神が出現し、大風を吹かせたのですが、ちょどその後、蒙古軍が滅んでいた、との「太平記」記述の「神風」伝説がこの宮の位置付けを高めたのでした。

・外宮 風宮


谷川健一氏編「日本の神々」で松前健氏は、「伊勢国風土記」逸文の伊勢津彦の話を取り上げ、伊勢で古くから崇拝されていた風や波を支配する神だと考えておられます。つまり、神武天皇に従わない伊勢津彦に対して、天皇から派遣された天日別命が服従を迫った時、伊勢津彦が日のように光輝きながら海上を東に去っていく、という描写に、単なる風の神というより太陽神を感じられ、風日祈宮と風宮のご祭神の級長津彦とは、伊勢津彦である可能性を示唆されています。

・内宮 風日祈宮


東出雲王国伝承では、伊勢津彦は出雲から初めて伊勢に移られた方としています。ただ、西出雲王国神臣氏の多岐津彦であるという話と、東出雲系の富氏系の御方だという話と、2種の話があります。東出雲系の御方とする話では、東に去った先は、伊豆半島に入ってその地を開拓した、という話になっています。



土宮は、外宮の敷地山田原の地主神であるとされます。「止由気宮儀式帳」では宮地神と呼ばれる小社でした。それが、1128年、宮川の氾濫を防いだ功により、土宮の名が許され、間もなく別宮に列せられました。






倭姫宮(タイトル写真も)は、大正12年に創始された一番新しい宮です。場所も、両神宮の中間、神宮徴古館に隣接しています。伊勢神宮の鎮座地選定や神戸及び神田の起源、祓などの風習の起源等々、伊勢神宮の主要な制度などほとんどを決めたのが倭姫とされています。つまり、斎王の元祖です。ただ、松前健氏は、倭姫とは代々の斎王の一般名称だったと考えられており、それが由緒話を生成する段階で元祖の個人名にされたと推定しています。



それは、記紀に始まり、804年の「皇大神宮儀式帳」から、中世の「倭姫命世記」に至るまで、上記のような話がどんどん増加、複雑化していってる事を鑑みての事です。さらに後世なればなるほどさらに神秘化されていき、「諸社一覧」では、”開化天皇の手箱の中に物が有り、小虫の動くようであったので、よく見ると人の姿をしていた。これを養わせると、美女となり、これが倭姫だ”という話まで出てくる有様です。さすがにここまで来ると、おとぎ話ですね。

 

 以前に少し記載しましたが、倭姫について、東出雲伝承では2種類の 話があります。一つは、魏志倭人伝に記載された時代、九州から東征 して来たイクメ王との、一時休戦協定の為の后で当時の大和側のヒミコだったサホ姫(魏志倭人伝に書かれた人ではないそう)が、実際は焼け死んではなく、その後、美濃、丹後、そして伊勢へと太陽神の信仰を広めていった話。或いはそれは、後に終戦協定の時点で后となったヒバ ス姫の可能性もあるとか。丹後に行ったのは、アマ氏の分家、海部氏が誘ったからだそうです。

もう一つは、そのヒバス姫が海部氏のいる丹後の竹野で生んだ皇女が、 竹野社、奈具社を経て、伊勢に行った話。いずれの話でも、「倭姫命世記」の記載の通り、志摩にも行き、登美氏出身の伊雑登美彦を頼っている事は共通です。また、イクメ王と政略結婚した、登美氏系の皇女というのも一貫しています。

・古殿地も有ります


松前健氏の論考は、基本的に記紀の話は説話であり、人物も創作である事が前提になっていますね。ただ、伝承話に触れていると、後から出て来た話が、必ずしもエスカレートした創作ばかりではないのでは、という気もします。時代が降って、話しやすくなったから出て来た史実も有るのではないでしょうか。



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