摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

疣水・磯良(いぼみず・いそら)神社(茨木市三島丘)/新屋坐天照御魂神社 西河原社(茨木市西河原)~三島とアマ(海部)氏と疣水の起源~

2019年12月15日 | 高槻近郊・東摂津

 

以前、磯良神社の近くで仕事をしていた時期があり神社の存在は知っていたのですが、この名前でなく通称の”疣水神社”で覚えていました。鳥居の正面にある近鉄バスのバス停の名も「疣水神社前」ですし、堂々たる石標にも疣水神社とあるのですから、そうなるのが自然でしょう。

 

・磯良神社 境内

 

【鎮座地の変遷】

元々この辺りは新屋坐天照御魂神社の西河原社の敷地で、磯良神社はその境内社でした。それが1699年に新屋社の社殿を敷地の西北隅の現在地に遷し、その間の林を刈り開墾して田にし、さらに現在では国道171号線が通って別々の神社になっています。そして、磯良神社の方がすっかり立派になってしまいました。もちろん、有難い疣水の人気のおかげです。

 

・御神水 疣水拝受所。この時は定期検査の結果、一時給水停止でした。。。

 

【疣水と井保桜】

この霊泉はかつては”玉の井”とも言い、「摂津名所図会」では”便(よるべ)の水”として、疣、ほくろを洗えば忽ち抜け落ち、天照御魂社の神水であるから邪念の穢を清め洗えば美しくなれる、と説いています。さらに「図会」には、そばにあった”井保桜”の事も書かれています。つまり、疣水の北にあり、此の花木希代の大樹にして、野辺に只一本ありて、遠境より見え渡っていたようです。残念ながら今は枯れてしまい、石碑がその名残を残しています。

 

・”いぼ櫻”跡地の石碑

 

疣はこの井保から来たのではないか、という見方があります。上記の新屋社を遷す際に林を刈った後、清水がしだいに枯れて少水となった事から、木は井を保つものと考えられたかもしれません。その一方で、古代史目線ではコチラの説が興味深いですが、安閑紀に登場する三島県主飯粒(いいぼ)の名と関係があるだろうとの説も有力です。

 

・磯良神社 拝殿と奥の本殿

 

【ご祭神、ご由緒】

正規の神社名の磯良とは、ご祭神の阿曇磯良のことです。またの名、志賀明神とも呼ばれ、福岡県の志賀海神社を志賀島南側の現在地に遷座した阿曇氏の始祖とされます。神功皇后が三韓出兵の際に、神々を招きましたが、磯良は海中に長い間住んでいたので、牡蠣や海藻がその身にこびりついており、それを恥じて出てきませんでした。そこで皇后が神楽を奏すると、ようやく現れ、その後の三韓出兵を庇護したとされます。その神功皇后は出兵前に新屋社に祈願ていたので、凱旋後も再び立ち寄り、磯良を残してここに神を祀らしめたという俗説が語られているのです。なので、出兵前の祈願は、西福井社でしょう。

 

・磯良神社 住吉大神と神功皇后を祀る社

 

【播磨の揖保と阿曇氏】

さらに「播磨国風土記」では、阿曇連百足が難波の浦上から播磨の”揖保”郡に移住し開墾した、と記されています。その播磨の揖保にも粒坐天照神社が鎮座し、新屋社と同じく天火明命を祀っている事を見て、新屋にも天照御魂社と疣水神社の名が並立し、阿曇族はこの三島でも開拓作業をしたと考えられる、と谷川健一氏が書かれていたようです。つまり、太田茶臼山古墳の記事で記載しました、三島大の掘削など河内王朝主導の三島の開発に、安曇氏もこの地に来て協していたと考えると理解しやすいです。その開発プロジェクトの象徴としての太田茶臼山古墳は、西河原社のすぐ北に有ります。

(参考文献:谷川健一編「日本の神々 摂津」)

 

・西河原社 国道171号沿いです

 

 

【伝承】

東出雲伝承では、天火明命の御子が香語山命であり、後に丹後の海部氏や東海の尾張氏に分かれていく、アマ氏の始祖と説明されてます。中でも海部氏は、4世紀の息長帯姫(神功皇后)の二韓征服に、漁師たちを引き連れて海軍として参加したので、この時に「海部」の名を与えられた、と「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏が書かれています。「日本の神々」の編者、谷川健一氏も、天火明命は海人に極めて関係の深い神と書かれていました。また、「出雲と大和のあけぼの」では、”阿曇”は”海住み”の発音が縮まった苗字で、海部氏の親族と言われる、と説明されています。

 

・西河原社 拝殿

・西河原社 本殿はコンクリート造の建屋に守られるように見えました

 

「播磨国風土記」に飯粒(粒)の由来として、客の神との戦いに備えて主の神が粒丘に先に登って食事をしていた時に、口から飯粒がこぼれた話が書かれます。伝承によれば、播磨は元々、”主の神”の出雲王国の領地でしたが、この播磨国風土記に書かれた2世紀後半の戦いで、”但馬”の地から攻め込んだ客の神に奪われた事は史実であるとの事です。実際に飯粒がこぼれたかは怪しいですが、やはり、一番古い”イボ”は、”飯粒”で、もしかしたら出雲王国時代からあった地名なのでしょうか。。。

 

この戦いの終盤に、丹後から海部氏も播磨に攻め込んだらしく、路市の廣峯神社に先祖神を祀ったそうです。坐天照神社については伝承では記載がないですが、天火明命を祀っているので同様に海部氏の拠点だったようみ見えます。そうなると、イボの大元は播磨で、それが三島の地にも伝わり、飯粒→井保→疣と変遷していったという、「日本の神々」での大和岩雄氏の推論がスムーズだと思いました。

 

 


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