摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

兵主神社(ひょうすじんじゃ:岸和田市西之内町)~豊臣秀吉建造による重要文化財の本殿をもつ兵主神の祭祀氏族

2021年04月24日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

泉穴師神社から直線距離で4kmほどの近い位置にある、こちらも「延喜式」式内社です。二つの神社は名前は違いますが、「日本の神々 和泉」で大和岩雄氏は、穴師の神は兵主神のことであり、当社は泉穴師神社や奈良・山辺の道の穴師坐兵主神社との関係を抜きにしては論じられない、と書かれています。

 

・整備された参道。掲示の由緒によると、明治6年に兵主神社と改称したそうです

 

当社のご祭神は、天照大神、八幡大神、菅原道真となっています。ただ、変遷があるらしく、明治12年の「大阪府神社明細帳」では主神が八千鋒大神、日本武尊で菅原道真、品陀別命が付記され、また、昭和27年の明細帳には、主神が八千鋒大神、相殿に大和武尊、天照大神、品陀別命、菅原道真とあるのです。現在のご祭神は、1413年の当社の由緒書や1743年の岡部長富の奉納文によるようですが、「延喜式」の兵主神社一座のご祭神は、由緒書きのご祭神とは関係ない、と大和氏は断言されてました。

 

・折れ曲がって二の鳥居があります

 

穴師兵主信仰の元と思われる、奈良桜井の穴師坐兵主神社の記事で記載しましたが、兵主神とはの時代に斉の国から取り入れ祀った八神の内の一柱で、鉄から武器を鍛造していた部族を擬人化した蚩尤(シユウ)の神の事です。それが三輪山で穴を掘って砂鉄などを採鉱する人達゛穴師゛が信仰し結びつたと考えられます。一方で、泉穴師神社の記事で書きましたように、アナシは風のとも関連し、そのアナシと兵主神は製鉄に関わる事で関係するのです。だ、この神社のように兵主だけで呼ばれる社も多く、兵主神として祀時期には昔から議論が有ったようです。

 

・拝殿

・拝殿の後の、国指定重要文化財の本殿

 

穴師兵主神に関して゛兵主゛神表記が初めて見えるのは、「三代実録」の859年(貞観元年)の条の゛穴師兵主神゛゛壱岐神・・・兵主神゛が最初で、730年の「大倭国正税帳」には゛穴師神戸゛、806年(大同元年)の「新抄格勅符抄」には゛穴師神゛とありす。なので、井上薫氏は大同の次の弘仁から貞観の前の天安の間に、奈良桜井の元社で穴師坐兵主神社の表記になったとされます。一方、広瀬明氏は「大倭国正税帳」や「新抄格勅符抄」は、基本地名を神名として表記している例が多いので兵主表記がないからといって断定できないと考え、「播磨国風土記」(宝亀以前)゛倭穴(アナシ)神゛を神名とみて、穴師坐兵主社への改名を715年(宝亀元年)ころとされました。ただ、穴師社から穴師坐兵主神社に変わっとする点は同じ意見でした。

 

・本殿。三間社流造。安土桃山時代に豊臣秀吉によって再建。三間に内陣があり、中央の間が少し幅が広く見えます

・連三斗と平三斗の組み物。鯖雄は唐様の拳鼻で、室町時代以降の形態

 

志賀剛氏は、当社も含めて「延喜式」神名帳に19もある兵主神社は、平安初期にあった新羅船の侵寇に対して、天日矛を中心とする新羅系の神々に対する恐怖心から、奈良桜井の社も含めて多くが兵主神社に改名したらしい、と考えられてたそうです。一方、大和氏はこの説を取らず、天日矛命を祖とする氏族がもっと以前から兵主を祭っていたと推測されていました。とくに多く鎮座する近江播磨、丹波、但馬などの地が、天日矛の伝承地であることを根拠とされていました

 

・2009年に保存修理されています

 

東出雲王国伝承では、斉の国の徐福が最初に出雲に渡来し、その徐福の連れて来たのが原ハタ氏であり、いわゆるアマ氏とも呼ばれ、後に海部(&尾張)氏になったと一貫して説明します。そして、初期大和政権と言える、いわゆる葛城王国を東出雲系の登美と海部氏が立ち上げた時に、徐福の孫が大和の穴師の地に建てたのが゛射楯゛兵主神社だと説明しています。伝承の説明からすると、穴師の地名がいつ付いたのかがわからないのですが、中国の武神である兵主神を最初から祀っていただろう、との理解になります。

 

・本殿を取り囲む、市指定天然記念物の社叢。そして末社

 

一般には弓月君の秦氏は応神王朝の時代に渡来したとされます。兵主神がその秦氏に由来するとする説が有りますが、大和氏はこれを積極的には採用せず、先に記載の通り、新羅から来た天日矛命との関係を重視されます。多くの兵主神社の鎮座地が天日矛命伝承と関わるから、言う説明ですが、個人的には少しわかりにくく感じています。

 

・恵比須社(大宮戎神社)。ご祭神は事代主命

 

出雲伝承に馴染んだ身には、丹波は当然として、播磨、但馬、して近江も、海部氏に縁の深い地だと理解されます播磨に魂神社や海神社など海部氏系神社が鎮座しますし、造は海部氏です。播磨と但馬には、海部氏が2世紀までに侵入しが伝承にあります。また近江も天御影命(「海部氏勘注系図」は倭宿禰)にゆかりある御上(三上)神社が鎮座しています。天御影命は、「勘注系図」や出雲伝承では海部氏の最初の御方だと説明しているのです。

 

・境内はゆとりありますが、駐車場としても使われ、お祓いの車も入ってきます。右奧が社殿

 

当社のように゛兵主゛を名乗る神社が、゛穴師゛より圧倒的に多いから、兵主神が本来の信仰であると考えるのが自然な感じがするのですが。ただ、斉木雲州氏「出雲と大和のあけぼの」に記載の説明によると、徐福と渡来した元ハタ氏と、通常言われる朝鮮渡来系の秦氏との混同が起こっているらしく、その中で天日矛の信交じり合うようなことがあったのでしょうか。今後もく見きたいと思っています。

 

(参考文献:兵主神社公式HPご由緒、岸和田市公式HP中村啓信「古事記」、治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、宇佐公「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、梅原猛「葬られた王朝」、斎木雲州「出雲と大和のあけぼの」、士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その大元出版書籍

 


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