摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

墨坂神社(すみさかじんじゃ:宇陀市榛原萩原)~名水「波動水」の湧く古社を祀った人々とは

2022年02月05日 | 奈良・大和

 

龍王宮から湧き出る「波動水」が、「名水・やまとの水」に認定されるほどの清水という事も相まって、記紀に載るこの地の御由緒から病気平癒のご神徳を求めて多くの人々が訪れると言われる神社です。昨年秋にお参りした際も、参拝の方がちらほらお見えになっていました。神社の丁度向かい正面方向が、秋から冬に幻想的な雲海が見れる事で有名な鳥見山と鳥見山公園にあたり、所々紅葉で色づいている山の姿には季節感を感じました。

 

・神社全景。左から斜めに上がってるのが車道で、境内まで車で乗り入れる方が多かったです

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、墨坂大神。これは、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、そして大物主神の六神の総称というすごい神様です。

この神の御由緒は記紀に記述があります。「日本書紀」崇神帝九年には、゛天皇の夢の中に、神人があらわれて教えていわれた。「赤の楯を八枚、赤の矛を八本で、墨坂の神を祀りなさい。また黒の楯を八枚、黒の矛を八本で、大坂の神を祀りなさい」゛と書かれます。一方「古事記」でも、大物主神が天皇の夢にあらわれ、その教えに従って太田田根子に三輪の神を祀らせて、さらに天神地祇の社を定めた後、゛宇陀の墨坂神には、赤色の楯と矛を供えて祭り、また大坂神には、黒色の楯と矛を供えて祭り、また坂の稜線部の神および河の瀬の神に至るまで、すべて落とし忘れることなく、供え物を献上した゛そしてこの後に疫病が収まり国家は平安になったと続きます。

 

・境内

 

この説話について、「日本の神々 大和」で小田基彦氏が池田源太氏の「榛原町史」の説を紹介されています。つまり、古代の色彩、ことに「丹の色」に関する呪術の信仰の存在から、黒色は黒雲を意味し、黒色の楯矛を奉る事により雨を誘促し、赤色の楯矛を奉ることにより流電・雷雨を誘促するの模倣呪術と考える事ができるとの事です。

また「日本書紀」の雄略帝七年にも記述があります。天皇は少子部スガルへ、゛私は三輪の神の姿を見たいと思う。<或いは曰はく、この山の神を大物主神と言うという。或いは云はく、莵田の墨坂神なりといふ>(<>内は宇治谷孟氏「日本書紀」では省略されてます)゛と詔され、スガルが大蛇を捕まえて天皇に見せた話ですが、ここから墨坂神は三輪山の大物主神と混同される神性を持っていたことが伺い知れます。

 

・拝殿

・本殿。春日移しで疎垂木の古風な造り。近年塗装されたようで、鮮やかで若々しいです

 

【神階・幣帛等】

「新抄格勅符抄」には781年に墨坂神が信濃国に神戸一戸を与えられた記録が有ります。神社によると、現在も御分社として長野県須坂市に墨坂神社が二社あるようです。上記のような古い時代と思しき重要な話があるものの、なぜか「延喜式」神名帳に記載はなく、式外社です。

 

・手前から奥に、八幡神社、稲荷神社、愛宕神社、金比羅神社、恵比須神社、菅原神社、市杵島神社、天神社

 

【鎮座地、発掘遺跡】

墨坂神の御由緒譚の前、「日本書紀」神武帝条に墨坂の地が出てきます。゛女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭をおいていた。女坂、男坂、墨坂の名はこれから起きた゛「大和志」はこの墨坂を荻原村の西とし、墨坂神社を所在不明とします。また、「和州旧跡幽考」でも墨坂神社は所しらず、です。当社について、「釈日本紀」は式内社八咫烏神社に、本居宣長の「古事記伝」は式内社宇陀水分神社下宮と比定しますが、小田氏はこれらは誤認だと書かれています。

この地域の伝承によれば、当社は伊勢街道の西峠付近の「天王の森」(神武紀の鳥見の霊畤の跡ともされる)にあったそうですが、社記「宮講由来記」は1449年に現在地に遷座したと伝えます。さらに地域伝承では、遷座のあと旧地に小祠を建てて「上の森」と称しましたが、1839年にそれを数町上の「堂の上」に移して同地の鎮守とし、「天神神社」と称したと「宇陀郡史料」にあるようです。今は「墨坂伝承地」と呼ばれる地がMapアプリで確認できます。

 

・大山祇神社(山の神)。祠後ろの神石がスピリチュアル

 

【社殿、境内】

本殿は、江戸末期の春日大社の文久造替の時に拝領した社殿を、1864年に造営した春日造の遺構です。

 

・龍王宮。そしてご神水「波動水」。ご祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)

 

【伝承】

東出雲伝承を語る斎木雲州氏が当社を訪ねられた時の事が、「出雲と大和のあけぼの」に記されています。斉木氏は、元々三輪山の゛南゛の(先住大和政権の)鳥見山の霊畤(麓に等彌(とみ)神社が有る)が、イニエ王の時代に(九州東征勢力の争乱で)宇陀地域に移らざるを得なくなり、墨坂神社になったとの伝承を書かれています。境内の石碑文に上記した社記の遷座時期の話があり、元鎮座地の゛墨坂中天乃森゛が日本書紀にある゛坂道に熾し炭を置いた゛場所だろうとしつつ、それをした所で横をいくらでも通れそうだ、と斎木氏は冷ややかです。その石碑には昭和58年の大修理の事が記されてるのですが、宮司名の゛太田豊臣謹記゛から、社家が太田田根子の子孫となる太田氏だと記されておられます。

 

・波動水は、手前に蛇口もあります。程よく紅葉が混じって良い感じでした

 

また同書で、むかし、金属精錬の職人に「炭坂」という役があり、木炭を作ってタタラにくべる役で、それが「墨坂」に変わったと説明します。斉木氏は、そこからこの地では古くは銅鐸を製造していたと推定されていました。また、墨坂の名が先に在り記紀の話はその影響による、との意味のことも書かれます。斉木氏の話からは、この墨坂はじめ宇陀地域は弥生時代の先住出雲人の信仰があった地域だった可能性がある、という理解になります。

たしかに、出雲が近い中国山地におけるタタラ製鉄の「山内(さんない)」の集落に、「村下」「炭焚」などと共に「炭坂(すみさか)」と呼ばれる技術者がいたようですが、゛出雲國たたら風土記゛のホームページによると、「山内」集団が現われたのは「高殿たたら」という大規模な設備が出現した近世の頃からだというので、この説明によると「炭坂」と言う言葉が古代に有ったとは思えないです。斉木氏は古代からこの言葉が有ったと確信があって書かれていたか、文面からはよく分かりませんでした。なお、出雲には「菅谷たたら山内」という当時の高殿などの設備が残っている史跡があり、映画「もののけ姫」に登場するたたら場は、ここがモデルだそうです。

 

・神社の正面に、元鎮座地の西峠と鳥見山を臨む絶景

 

(参考文献:墨坂神社公式HP・ご由緒、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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