摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宮内庁、堺市と共同で仁徳天皇陵を発掘へ ~さらに過去2回の発掘記録の事~

2018年10月17日 | 大阪・南摂津・和泉・河内


●翌年、第9回百舌鳥古墳群講演会での結果報告はコチラの記事で

●堺市博物館特別展「百舌鳥古墳群ー巨大墓の時代ー」 での宮内庁研究員に
 よる講演でも発掘結果が報告されました


今週、古墳の話題が全国紙トップレベルで報道されましたね。さすがに
大山古墳、つまり伝の仁徳天皇陵です。

特に歴代天皇陵としている陵墓は一般の民間人は、いわゆる立ち入り禁止
であり、宮内庁が単独で調査するだけでした。そんな中、今回、外部機関の
堺市の学芸員一人を加えて、この最大の天皇陵の、南側の一番内側の堤を、
今月下旬から3カ所調査する事に決まったのです。あの白石太一郎先生も
歓迎のコメントを出されています。


この機会なので、過去の立ち入り調査経緯に触れたいです。実は過去に2回、
墳墓内の石棺を確認した記録が残っています。(参考文献:「天皇陵の
謎:矢澤高太郎氏)

最初は江戸時代中期。後円部の埋葬施設が描写された記録が残っています。
この頃の後円部の石棺は盗掘で露出していたようで、堺市博物館にその絵が
掲示されています。長さ3m20cm、幅1m70cmの堂々たる大王の
柩だったようです。



2回目は、明治5年。時の県令(知事)税所篤氏が、鳥の糞で汚れた古墳を
掃除するのだ、との名目で、堂々前方部を発掘してしまいました。大の考古
学好きだったそう。翌年には中央から中止命令が出たものの、その間に前方
部の石室、石棺、各種副葬品を確認し、同行した絵師が克明にスケッチしま
した。その複製も、堺市博物館に展示されていました(今年5月)。石棺長さ
は、後円部ほどでないものの、堂々の2m60cm。



この話には謎が続いていて、なぜかアメリカのボストン美術館に、仁徳天
皇陵出土と公称している刃身のない環頭大刀の柄頭と銅鏡、三環鈴、馬鐸
が有るそうです。平成20年に宮内庁書陵部が調査に赴きましたが、上記の
明治5年に確認されたものではなさそう、と判断されました。残念ながら、こ
れらの遺物がどこから出土したものなのかはわからないままです。


今では、上記白石先生にょる、バブルチャートのようなわかりやすい古墳
編年絵図にもある通り、大山陵は百舌鳥古墳群で一番古くなく、上石津ミ
サンザイ古墳(伝履中天皇陵)が大王墓級では一番古い事が定説になって
います。

古伝では、ミサンザイとはミソサザイの事、つまり鷦鷯(サザキ)なので、
上石津ミサンザイがオオサザキの仁徳陵らしいとしています。一方、大山
陵は昔の舳松村にあるので、履中陵の可能性が大きいとのこと。ただ、ミ
サンザイの名の古墳は、他に河内やヤマトにもあるし、一般には陵(ミサ
サギ)が転じた言葉とされていますから、どうなのだろうと思います。



百舌鳥古墳については、また別の機会でも取り上げたいです。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 飛鳥寺西方遺跡の歴史的変遷 ... | トップ | 粟嶋神社、宗形神社、美保神... »
最新の画像もっと見る

大阪・南摂津・和泉・河内」カテゴリの最新記事