摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

飛鳥寺西方遺跡の歴史的変遷 ~ 藤原鎌足と阿武山古墳展~

2018年10月15日 | 奈良・大和
この10月6日から始まっている、今城塚古代歴史館と、しろあと
歴史館の合同特別展、「藤原鎌足と阿武山古墳」展。今回は、10月
8日に今城塚の方で開催された、飛鳥時代の飛鳥地域に係る講演会を
聴講したので、個人的に興味深く理解した内容や感じだ事を記事にします。


講師は、明日香村教育委員会の相原嘉之氏。副題は、「飛鳥における
「天下の中心」の創造」という壮大なものです。テーマの中心は、
飛鳥寺の西側の発掘調査内容。つまり、蹴鞠をしていた中大兄皇子
と藤原鎌足が出会ったあの場所、という事で、今回の展示会の主役、
藤原鎌足とつながります。日本書紀でも「飛鳥寺の西の槻の下」など、
この地は何度も登場しているんですね。明日香村では、近年、毎年の
ように継続的に調査されてきたそうです。



要は広場でしょ、と最初思ってしまいましたが、その北隣には、中大
兄皇子が日本で初めての時計、漏刻(水時計)を設置した水落遺跡が、
さらにその北隣には、その同じ斉明帝期に朝鮮半島や東国、隼人の人々
に対する従属儀礼の後、彼らを歓待する迎賓館だとされている石神遺跡が
隣接する、かなりの重要拠点でした。さらに、飛鳥の謎の石造物として
有名な須弥山石や噴水の石人造もここで見つかっています。

飛鳥寺西方遺跡は、推古帝~舒明帝の頃には、特に使われてなかった
ようですが、なぜか地下に土管暗渠の水路が見つかってます。どこ
から来て、どこに流れて行ってるかはわかってないらしいが、気になり
ますね。発掘された土管2つが展示で確認することができます。皇極帝
以降はあの出会いの広場として、その後、外国使節用の饗宴広場として
使用されていきます。残念ながら、日本書紀に記載のある、槻の樹の痕
跡は確認できてないです。

お話の中で興味深かったのが、北の石神遺跡の話。推古帝当時は建物
遺構は確認されてないものの、瓦や新羅土器が出土しているので、建物
が想定されていて、当時の迎賓施設だと判断されています。それより、
その東側のキワにも整地されてたり瓦葺建物の一部や区画塀の北西隅が
確認され、石神地区の東側にも建物が有りそうと判断されています。
そして、相原氏は、これが、まだ確定していない小墾田(オハリダ)宮
だと推定されているのです。この宮は、推古帝~斉明帝の時期まで存在
していた、と説明されていました。

地道で着実な考古学の発掘活動には頭が下がります。また今後、石神東
地区が発掘される機会を待ちたいと思います。


古伝では、小墾田宮は雷丘の南脇にあった、との表現になってます。
そこは、上宮太子(いわゆる聖徳太子)との大王争いに勝利した推古大王の
皇子、尾治(オワリ)大王が政務を執り行った場所でした。「随書」に
書かれた多利思比孤(タラシヒコ)とはこの人だといいます。尾張皇子
の姫が太子に嫁いでいるのは、和睦の意味がありました。その姫の起こ
した事件と、日本書紀の製作者の上宮太子を重視する意図で、史実が
変えられたらしいです。




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