摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

登彌神社(とみじんじゃ:奈良市石木町)~「筒粥祭」の社の祭祀氏族は物部氏と同族か

2022年04月02日 | 奈良・大和

 

富雄側東岸の、間近まで奈良市の住宅街が迫るような処にある、こんもりとした森の中にひっそりと鎮座します。筒粥神事が良く知られており、今年オミクロン株が蔓延するなかでも2月1日に行われたようで、その結果も簡単に掲示されていました。以前は「登弥神社」と書かれました。

 

・なだらかな登りの長い参道が良い感じです

 

【ご祭神】

東の社殿に高皇産霊神、誉田別命、西の社殿に神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋根命がお祀りされています。かつての調査文献では、明治3年の「神社覈録」が饒速日命としますが、明治7年の「郷村社取調帳」は天児屋根命、誉田別命、明治12年の「神社明細帳」はこの二神に高皇産霊神、神皇産霊神を加えています。

 

・こじんまりした境内

 

【鎮座地、比定、発掘遺跡】

富雄川東岸のなだらかな丘陵に鎮座し、「延喜式」神名帳にのる小社・登弥神社に比定されています。富雄川が奈良市西部から生駒市東部にかけて形成する谷を富雄谷と呼び、このあたりは奈良時代は「登美郷」、「和名類聚抄」には「鳥貝(見?)郷」、中世には「登美庄」、「鳥見庄」と記され、「延喜式」の当社の名前もこの「トミ」に由来すると、「日本の神々 大和」で土井実氏が書かれています。

 

・拝殿

 

現在の石木町は石堂村と木島村が合併したもので、当社は古くから「木島明神」と呼ばれてきたようです。延喜式の社の所在について「大和志」「大和名所図会」は木島村にあり、と書き、各書もそれを引いていますが、「大和志料」は異説を述べています。つまり、「石上神宮旧記」と題する書に゛饒速日尊ハ大和国鳥見明神河内国岩船明神是也゛と書かれていて、饒速日命が初めて大和に入った河内の旧跡に岩船明神として祀ったのが南原田の岩船社。一方、鳥見明神は饒速日命夫妻の廟社でこれこそが登弥神社であるべき。本来鳥見は岩船越えに沿う山間の総称で長久寺辺りにあるべきなので、北倭村大字上村長久寺元鎮守の牛頭天王社が式内登弥神社だ、とする説です。先の土井氏はこの説に対して特に見解は述べられていませんでした。

当社境内と続く丘陵の東北部からは土馬の破片が出土し、和同開珎の銀銭、銅銭や土師器片が発見されています。土馬の破片は数十個に及んでいて、奈良時代までに遡る祭祀遺物と考えられています。土井氏は、とくに土馬片の出土数からみて、この遺跡のもつ意義は大きいと考えられていました。

 

・本殿。摂末社も隣接して鎮座しています

 

【祭祀氏族】

佐伯有清氏編「日本古代氏族事典」によると、登美氏は、真人姓、連姓、首姓がいました。氏名は、神武天皇即位前期に、゛時の人は鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのは訛ったものである゛と書かれ、「続日本紀」和銅七(714)年に見える登美郷(奈良県生駒市北部から奈良市西端にわたる地域)の地名に由来すると説明されます。当神社に関わるのは、連姓の登美氏と思われ、物部氏の同族だと「氏族事典」では説明されています。「新撰姓氏録」左京神別上に゛登美連。饒速日命六世孫伊香我色呼命之後也゛、河内国神別に゛鳥見連。饒速日命十二世孫小前宿禰之後也゛に見えるのがその氏族ですが、他史料には見えないそうです。

 

 

【祭祀・神事】

2月1日(もとは小正月)の筒粥祭(粥占い)が有名で、通常は賑わうそうです。鉄の大釜に小豆粥を炊き、そして長狭20センチの細い竹筒を37本束ねたものも一緒に炊きます。1時間ほどで竹筒を引き上げ、農作物の品目毎に竹筒を小刀で割り、粥の入り具合を見て37品目の作柄を占うものです。鉄釜に元禄八年(1695年)の陽刻銘があり、古い起源が有る事が知られ、奈良市指定民族文化財になっています。

 

・今年の筒粥祭の結果一覧表

 

【社殿、境内】

東西に並んで鎮座するのは、共に一間社春日造の社殿です。また、本殿向かって左に神饌所があり、手書きの説明板によると、昭和14年の建築。゛小規模ながら均整のとれた格調ある意匠の建物で、昭和前期の神社建築様式をよく伝えている゛そうです。登録有形文化財です。

 

・神饌所

 

【伝承】

東出雲王国伝承によれば、この神社名の「登彌(弥)」は、高槻市の登美の里町(古代の所在はJR高槻駅付近と推定)や、桜井市の鳥見山(古くは登美山。桜井市にも等彌神社があります)と全て語源が同じ、となります。そして、弥生時代中期から後期に、高槻市→桜井市→奈良市西部や木津川市の順にその名が伝わっていったと理解されます。その語源となった氏族・登美氏は、東出雲王国富氏から分家し、その順番で大和での居住地を拡げていく中で、木津川市勢力の方は賀茂(鴨)氏と呼ばれるようになっていったらしいです。そして、「登美饒速日命」との神名は、出雲伝承を前提とすれば、その登美氏が饒速日命の子孫の九州東征勢力に圧迫された歴史によるのだろう、と思えてきます。

 

・印象的な神饌所の瓦の飾り。逆立ちした獅子?

 

(参考文献:登彌神社ご由緒掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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