創世記24章33節である。「やがて食事が前に並べられたが、その人は言った。『用件をお話しするまでは、食事をいただくわけにはまいりません。』『お話しください』とラバンが答えると、」といわれています。娘リベカが第一報を伝えてから、どれくらい時間がたっていたのであろうか。ただの客人ではないということがわかっていたので、十分に夕食の用意が整えられていたようである。
しかしこの客人の、その長い一ヶ月以上に渡る旅路には、果たさねばならない一つの使命があった。何の障害もなく目的地に到達した背後には、神の支えがあったことを思い出していたのであろうか。とくにリベカとの出会いの成り行きに、祈りがそのまま適えられる体験がそのことを教えていた。神は目に見えないけれども、生きて働く神であられると。それゆえ、食事の前に畏れをもって用件を話したいという。
34節である。「その人は語り始めた。『わたしはアブラハムの僕でございます。』~」と、開口一番の言葉である。先に、食事が並べられたとき、彼は、「用件をお話しするまでは、食事をいただくわけにはまいりません。」といった。一般的には失礼な話であった。しかし相手は、快く『お話しください』と受け入れた。親戚のよしみがあるといえばそうなのであるが、遠路を危険を冒してやって来た者の要望への敬意であろう。
開口一番、「わたしはアブラハムの僕でございます。」と、単なる自己紹介ではない。「アブラハム」の名には千鈞の重みがある。アブラハムがハランで神の召命を受けたとき、「あなたが祝福する人をわたしは祝福し」(創12・3)と。娘リベカの祖父の「ナホルの父テラを含めて、~他の神々を拝んでいた」(ヨシ24・1)ので、アブラハムの重みは異邦人の邪教の神々でない神、アブラハムに付与された真の神の祝福の力の偉大さである。