日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック 

2016-09-27 16:51:09 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(381)近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その20)

12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。

彼らが人を殺す場合には、殺される肉体に(前回はここまで)感覚が残っている以上、「なにか」をすることができることは確かである。しかしその後は、彼らは何

もすることができない。ひとたび殺されれば、肉体には感覚が残っていないからである。

 確かに多くのキリスト信者の死体が、土によって被われないでしまった。しかしそれだからと言って、彼らは大地からも天からも切り離されていない。全地はそ

の創造されたものを再び立ち上がらせる術を知っておられる方の臨在で満ちているではないか。詩編にこう記されている。「彼らはあなたのしもべのしかばねを

空の鳥に与えてえさとし、あなたの聖徒の肉を地の獣に与え、その血をエルサレムのまわりに水のように流し、これを葬る人がありませんでした」(詩篇七九・二

~三)。しかし、この語はこのようなことをなした人々の残虐さについて語っているのであって、それを葬った人々の不幸について述べているのではない。このよう

な事は人の眼にはひどく恐ろしく見えるが、神の聖徒の死はそのみ前において尊いのである(詩篇一一六・一五)。

 この事実から、われわれの現在の習慣、すなわち葬儀の世話・墳墓の選択・荘厳な儀式といったものが生じて来る。しかしこれらすべては、死者の助けという

よりは、生者への慰めの~ (つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-09-27 16:45:37 | 大分中央ウィークリー

創世記24章3節である。「天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、」という。「今住んでいるカナン」というのであるが、アブラハムは23章で、ヘトの人々との交渉に見るようにカナンの人々に対していかにも丁重に対応しその言葉にも態度にも謙遜であった。土地を買ったことは、たとえサラの墓に必要な一部分の土地であったとしても彼らと同じ土地に住むことを確認させる。

 「嫁を~カナンの娘から取るのではなく」と。アブラハムと彼の子孫は決して、彼らカナン人とは同じではなく、同じになってはならなかった。それを、この節は読者に伝えている。この地球上で一つ、神に選ばれた民のユダヤ人は旧約全巻に通じる異教徒結婚禁止である。異教の中でイエスとの結びつきを切らない信仰を暗示する。

 4節である。「わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」という。「わたしの一族のいる故郷ヘ」は、原文の言葉(故郷、一族)の逆順序になる。順序どおり「わたしの故郷(国「アーレツ」)へ行って一族(族「トルドース」から(「から」原語「モ」)」としたほうがよい。アブラハムの胸中にあるのはどこまでも「一族から」である。訳文にその言葉の順序を残すべきである。

「嫁を息子イサクのために連れて来るように。」という。嫁を迎えるのはイサクである。ここにはイサクの主体的な嫁への希望が出てこない。本人の気持ちがそこまで進んでいなかったことを現しているようである。従って親であるアブラハムの信仰指導である。婚姻その時になる前の神の選びの信仰指導で、個人的強制ではない。イサクも少年時代のモリヤの山へ連れて行かれた(22章)ことなどから心得ていた。


牧 会 通 信

2016-09-27 16:32:14 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その13)

◯すると言つた、「海の真中に荒廃した国がある、そこはクレタ(南地中海の島)と呼ばれ、そこの王の支配下でかつて世界は純潔だつた。

  そこにはイダ(クレタ島の中央)と呼ばれる山があり、かつては水と葉繁みで陽気だつたが、いまは老い古びたもののやうに荒廃してゐる。

  レア(神話の神々の母)はかつてその山をわが子の信頼できる揺籃(ゆりかご)として選び、もつとよく隠すために、子が泣きだすと人人を叫ばせたものだ。(前回ここまで)

◯その山の中に大きな老人が直立してゐて、背をダミアタ(古代王国の所在地)の方へ向けたまま、鏡を覗くやうにローマを見詰めてゐる。

  その頭は純金で、腕と胸は純銀、それから胯(また)までは銅、

  それから下はすつかり精鉄、右足だけは赤土素焼(原語「テラコツタ」)で、他の足以上にこの足に重みがかかつてゐる。(つづく)

 

◯本日、2016年9月25日は、第三十九主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「悔改め」という主題。聖書はルカ13章1~5節、その5節。「あなたがたも

悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」という。わたしたち日本人には因果応報の思想が行き渡っているので、他人の不幸をその人たちの悪と罪の結果

だと考えて、それぞれのことは、他者のものに、直接には関係がないと考える。もちろん、不幸に陥った責任は当事者にないとはいえない。しかし、果たして

それでよいのかと、今や主イエスによってわれわれの問題として突きつけられている。

 

◯写真は、先週、18日(日)故人記念礼拝において、われわれ大分中央教会とゆかりの深い方々のご遺影を前にして故人の在りし日々を偲びながら礼拝を

ささげた。覚えていただき感謝。


プロテスタントとカトリック

2016-09-21 15:43:23 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(380)

近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その19)

12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。

しかして、余り多くの死体があったので、そのすべてを埋葬することが不可能であった。(前回はここまで)キリスト教の信仰を持つ者は、このことを余り思い煩わない。信仰を持つ者は、たとえ獣が死体を貪り食うとも、彼らは再び立ち上がるであろう、という約束を確信している。なぜならば「頭の髪の毛一すじでも失われることはない」(ルカ二一・一八)からである。もしも殺された者の死体に敵が加えたことが、未来の生への障害となるとすれば、真理の君〔キリスト〕が「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ五・二八)と言うはずがなかったではないか。  

あるいは、人は愚かにもこう主張するかも知れない。死ぬまでは肉体を殺すことのできる者を恐れねばならないし(なぜなら彼らは肉体を殺すことができるから)、さらに死んでからも彼らは死体の埋葬を拒否するかも知れないから、彼らを恐れねばならない。このように主張することは、キリストの言われたこと、すなわち「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな」(ルカ一二・四)(もし実際それほど多くのことを、死体に対して行うことができるとすれば)という言葉を否定することになる。真理の君が教えられたことを、否定するようなことがあってはならない。彼らが人を殺す場合には、殺される肉体に~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-09-21 15:40:15 | 大分中央ウィークリー

創世記24章2節である。「アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。『手をわたしの腿(もも)の間に入れ~』という。ここに出てくる「年寄りの僕」とは、「全財産を任せている」といわれているから、最も信任の厚い「僕」であったらしい。通説では15章2節のイサクが生まれるまで、アブラハム自身が跡継ぎはこの人と決めていた奴隷の子「ダマスコのエルエゼル」であろうとされている。 

相続権を自分から奪ったイサクのために働くため、アブラハムは誓約させるのである。その誓約の儀式が古代の儀式で、このモーセ五書が編集された前5世紀にはこの方法が存在しなかった。説明不十分のまま「手をわたしの腿の間に入れ~」(47・29にも)と。「腿」は男子割礼性器の象徴的表現で、厳粛な儀式であったと思われる。 

3節である。「天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、」という。「今住んでいるカナン」というのであるが、アブラハムは23章で、ヘトの人々との交渉に見るように、カナンの人々に対していかにも丁重に対応しその言葉にも態度にも謙遜であった。土地を買ったことは、たとえサラの墓に必要な一部分の土地であったとしても、彼らと同じ土地に住むことを確認させる。 

「嫁を~カナンの娘から取るのではなく」と。アブラハムと彼の子孫は決して、彼らカナン人とは同じではなく、同じになってはならなかった。それを、この節は読者に伝えている。この地球上で一つ、神に選ばれた民のユダヤ人は旧約全巻に通じる異教徒結婚禁止である。異教の中でイエスとの結びつきを切らない信仰を暗示する。