五、「教会とわたしたち」(393) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その33)
⒙ 他人によって加えられた情欲の暴行は道徳的悪事であろうか。肉体はそれを忍ぶように強いられても、こころは同意を与えることなしに堪え忍ぶのである。
しかしこうも言えるであろう。その人は他人の情欲によって汚されるのを恐れているのだ、と。しかし彼は他人の情欲によっては汚されることはない。もし汚されるとすれば、それは彼自身の情欲によってである。さて、しとやかさはこころの
美徳であり、勇気はその伴侶である。勇気はあらゆる種類の悪に同意を与えず、かえってこれを耐え忍ぶのである。どのように慎み深くすぐれた人であっても、彼自身の肉体を意のままにする力を持たない。ただ彼のこころが受け入れたり
拒絶したりするところに従うのである。人の肉体が力づくで捕えられ、(前回はここまで) 不本意ながらも他人の情欲を満足させる手段に利用されたからと言って、彼の慎みが失われたとは分別のある人は考えないであろう。もしも慎みがそ
のような方法で失われたとすれば、それはこころの美徳ではないし、良き生き方にも属さず、むしろ力や美や健康といった肉体的条件と考えられるであろう。そのような良きものを失うことは、決して有徳な生き方を失うことではない。
もしも慎みというものがこのような種類のものであるとすれば、なぜそれを失う恐れがあるからと言って、われわれの生命そのものまでも危険に曝さなければならない道理が~
(つづく)~(教団出版「神の国」出村彰訳1968)