日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-04-27 22:30:14 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(409)

近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その49)

 30.キリスト教の影響について不平を述べ立てる者は、実は恥ずべき快楽の機会を求めているにす

な い。 

そうして、実際彼の判断は誤っていなかった。そののち起こったことは、彼が真実を語っていたことを証明した。

カルタゴが潰滅(かいめつ)したとき、ローマ共和国は深い不安から解放され、恐れは取り除かれた。しかし万

事が好調に進んでいる状態から途方もない悪が生じ始めた。(前回はここまで)その結果、まず調和の精神

が、野蛮で残酷な反乱によって損われ・失われてしまった。さらに打ち続く反乱は内戦にまで発展し、大量虐殺

や流血が行なわれ、貪欲や強奪、追放に示されるような恐るべき非人道的行為が現われた。かくして、国が安

全であった時代には、ただ敵の手による害だけを心配していたローマ人は、今や平和が失われると、同国人の

手によっていっそう残酷な運命を味わわなければならなくなった。人類に共通の悪徳のなかでもことにローマ

人の特質である支配欲は、小数の有力者に特に明らかに示されたのち、残りの国民をそのとりことした。彼ら

はすでにうみ疲れ果てている。

 31.どのような邪悪な過程を経て、支配欲がローマ人民の間に生長したか。

 32.舞台劇の導入。

……あの恥ずべき見世物、放逸な虚栄心の現われである舞台は、初めは人々の邪悪さによってではなく、あ

なたがたの神の命令によって創始された。(つづく) (「神の国」出村彰訳)

 

 


聖書研究

2017-04-27 22:27:56 | 大分中央ウィークリー

創世記24章32節である。「その人は家に来て、らくだの鞍をはずした。らくだにはわらと餌が与えられ、その人と従者たちには足を洗う水が運ばれた。」という。彼、リベカの兄ラバンは挨拶の言葉通り、丁寧に迎え入れた。10頭のらくだに餌を用意して与える仕事が難なく成されているようにみえるが、その接待は大変な仕事になるはずである。がしかし、それを感じさせない腰の軽さを報告している。

 

次に遠来の客を迎えるに接待の仕方の第二が記されている。「その人と従者たちには足を洗う水が運ばれた。」と。足の疲れがいくらか和らぐ、人と人の最初の接待の方法である。家の僕がこれに当たる。そのことによって大体その家の待遇の全体が伝えられる。受けた方はこの接待によって全体を把握する。大事な二つであった。

 

33節である。「やがて食事が前に並べられたが、その人は言った。「用件をお話しするまでは、食事をいただくわけにはまいりません。」「お話ください」とラバンが答えると、」といわれています。娘リベカが第一報を伝えてから、どれくらい時間がたっていたのであろうか。ただの客人ではないということがわかっていたので、十分に夕食の用意が整えられていたようである。

 

しかしこの客人の、その長い一ヶ月以上に渡る旅路には、果たさねばならない一つの使命があった。何の障害もなく目的地に到達した背後には、神の支えがあったことを思い出していたのであろうか。とくにリベカとの出会いの成り行きに、祈りがそのまま適えられる体験がそのことを教えていた。神は目に見えないけれども、生きて働く神であられると。それゆえ食事の前に畏れをもって用件を話したいという。


牧 会 通 信

2017-04-27 21:30:05 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その11)

◯アーメンという時間よりも早く消え失せてしまつた。それで師は立去る潮時と思つた。

  わたしが師に従つて少し進むと、話してもほとんど聞こえまいほどに水音が近くなつた。(前回ここまで)

◯モンテ・ヴェゾから東へ伸びるアペニン山脈(の支脈、イタリア半島)の左側で、ポー河(アドリア海北部に注 

  ぐ)に流れ入らぬ最初の川、下の川床へ落下する前は静かな水(アツクワ・クエタ)と呼ばれ、フォルリでその

 名を失ふあの川が、

  千人も収容できるだろう、あのサン・ベネデッド・デル・アルベ(アペニン山脈のフォルリ付近にある僧院の名)

の上で、轟然と一気に落下するやうに、

  嶮しい崖をあの血色の水が落下して轟(とどろ)いていた、すぐにも鼓膜が破れてしまひさうなほどに。わたし

は一本の紐を身に巻きつけてゐたが、かつてこれで彩られた毛皮の豹を捕へるつもりだつた。(つづく)

 

◯本日、4月23日の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「キリストの死と復活にあずかる」とい

う。聖書はローマ6章1~11節である。その11節、「あなたがたは自分は罪に対して死んでいるが、キ

リスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」という。実際にそのように考えられ

るか。聖霊の導き、助けが必要。

◯写真は、四月一六日、イースターおめでとう。イースターを迎えた喜びの記念写真である。この礼拝では

受洗者が与えられ、主の祝福に満ち満ちた一日となり、感謝したい。


プロテスタントとカトリック

2017-04-21 13:53:44 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(408)      近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その48)

 30.キリスト教の影響について不平を述べ立  てる者は、実は恥ずべき快楽の機会を求めているにすぎない。

   あなたがたが平安とあらゆる種類の善が豊かであるように願うのは、あなたがたがこれらの便益をそれに

ふさわしい方法、すなわち節度・真面目・節制・敬虔をもって用いるためではなく、狂気の沙汰をつくしてかぎり

なくさまざまな歓楽を追い求めるためである。かくして、あなたがたは順境にあっても、どのように暴虐な敵の

行いよりもはるかに悪い結果をもたらすような悪を生み出している。このような理由から、先に述べたあなたが

たの大祭司で元老院の指導者で(前回はここまで)あったスキピオは、まさにこのような災難があなたがたの

上に降りかかることを案じ、あなたがたの好敵手、カルタゴの町を破壊することに反対し、その破壊を提案した

カトーと対立した。スキピオは絶対的な安心感が弱い人間にとって危険であると考えたので、それを心配した

のである。彼はいまだに後見人の下にある市民たちにとって、ある程度の恐怖感は良い教師であることを知っ

ていたのである。

 

  そうして、実際彼の判断は誤っていなかった。そののち起こったことは、彼が真実を語っていたことを証明し

た。カルタゴが潰滅(かいめつ)したとき、ローマ共和国は深い不安から解放され、恐れは取り除かれた。しか

し万事が好調に進んでいる状態から途方もない悪が生じ始めた。(つづく) (「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-04-21 13:37:25 | 大分中央ウィークリー

創世記24章31節である。「そこでラバンは言った。『おいでください。主に祝福されたお方。なぜ、町の外に

立っておられるのですか。わたしが、お泊りになる部屋もらくだの休む場所も整えました。』」と。兄ラバンの丁

寧なご挨拶である。らくだの数は十頭であった。その「らくだの休む場所も整えました」というのであるから、十

頭のらくだに水を飲ませたリベカの報告がしっかり受け止められていました。

 

ラバンの初対面の挨拶の言葉に「主に祝福されたお方」という。アブラハムの弟のナホルの家に同じヤハウェ

への信仰があったかどうか不明である。もとは彼らの父テラも含めユーフラテス河の河向うの神々を拝んでい

た(ヨシュ24:2)。しかし、アブラハムは一つの神の信仰をもってカルデアのウルを出発して長い旅路に出た

(11:31-12:1)。兄ラバンの挨拶の言葉はアブラハムを意識しての尊敬語のようである。

 

32節である。「その人は家に来て、らくだの鞍をはずした。らくだにはわらと餌が与えられ、その人と従者たち

には足を洗う水が運ばれた。」という。彼、リベカの兄ラバンは挨拶の言葉通り、丁寧に迎え入れた。10頭のら

くだに餌を用意して与える仕事が難なく成されているようにみえるが、その接待は大変な仕事になるはずであ

る。がしかし、それを感じさせない腰の軽さを報告している。

 

次に遠来の客を迎えるに接待の仕方の第二が記されている。「その人と従者たちには足を洗う水が運ばれ

た。」と。足の疲れがいくらか和らぐ、人と人の最初の接待の方法である。家の僕がこれに当たる。そのことに

よって大体その家の待遇の全体が伝えられる。受けた方はこの接待によって全体を把握する。大事な二つで

あった。