五、「教会とわたしたち」(350)
4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―ツヴィングリ
鉄の搬入はもとより、穀物・塩、ぶどう酒のような生活物資までも一切の搬入が阻止された。もともと生産力の弱い山岳森林諸邦はたちまち困窮に陥ることになった。したがって森林諸邦はそのまま座して破局を待つわけにはいかない。軍事的冒険に出て活路を拓く路を取らざるを得なくなったと言ってよい。したがって、開戦の避けがたいことを感じたツヴィングリは、進んで軍事的指導をも買って出ようとするが、彼には軍人的訓練はもとより軍事的情報も乏しかった。悪いことには、職業軍人たちはチューリヒ連邦の軍事費削減の経済的事情で既に10年も前から、そのチューリヒを見棄てていた。しかもツヴィングリ側には、それにさえ気がつく人もいなかったといわれる。
10月4日、ついに森林諸邦が(ここまで前回)軍事的には十分準備して総動員令を発し、約8000もの兵力を差し向けた。前回の1529年6月、森林諸邦(ルツェルン他5邦)は劣勢を背景に「カトリック・キリスト教連合」を結成して軍事行動に及びカッペルの野に兵力を集結したのを第一カッペル戦役というが、既述のように、仲裁和議が成立した。それから二年後のこのとき、チュウリヒ側の迎撃体制はまったく不備であった。緊急招集をかけられた市民軍はそれでもその数、数千にも及んだが、戦いにならない。10月11日朝から始まったカッペルの戦場に残された約500の戦死者のうちに、カトリックの宿敵ツヴィングリの遺体が発見された。(つづく)