日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2018-05-29 01:05:20 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(461)   5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その101)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

29.来るべき世において聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。

 そのときに、わたしたちが新しい天と地の物質的からだを、あらゆるところに存し・すべての身体的事物を統治さ

れる神を透き通るばかりの明確さで見奉るのと同じように、そのときに与えられるであろうからだによって見ることは

ありうるし、恐らく確かである。わたしたちはどちらへ目を向けても、これを目のあたりにするであろう。「神の見えな

い性質」(ローマ一・二〇)を、鏡にうつしておぼろげに、また一部分だけ見るように造られたものにおいて知られ・見

られている今と違って、そのときにはわたしたちが信ずる信仰は、前回はここまで)肉眼によってわたしたちが見る

身体的事物の外観よりもはるかに力強い現実となることであろう。

 例を挙げればこうなる。今日わたしたちは生き・かつ動いている人々の間で生活している。わたしたちが彼らを見

るとき、わたしたちは彼らが生きていることを信じはしない。わたしたちは彼らが生きているのを見るだけである。し

かし、もしも彼らがからだを持たないならば、わたしたちには彼らが生きていることを知り得ないであろう。わたした

ちが何の疑問の余地もなく彼らが生きていることを知るのは、彼らのからだを通してである。そのように、わたしたち

が将来持つであろうからだの霊の目(つづく)(「神の国」出村彰訳)

 

 


聖書研究

2018-05-29 00:55:51 | 大分中央ウィークリー

創世記25章20節である。「イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。」という。結婚したときに親戚になるところのそれぞれの紹介であるが、しかし全くの他人の家族が一つの家庭の中に入ってくることになるのが結婚である。そこに新しい争いが発生する。 

今日といえども同じである。他人が入ってくるという複雑な関係が発生することになる。肉親は肉親同士かばい合い、かばい合うがゆえに他人である関係の溝が深くなるという悲惨な関係である。ここでは、「アラム人ラバンの妹であった。」というところに、その複雑な関係が始まったのである。結婚と共に妻となったリベカの兄、ラバンとリベカの夫のイサクとの関係が、複雑になって来るのであった。 

21節である。「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」という。「妻に子供ができなかったので、」という。今日でもよくある話である。妻をめとるということは、現代でも、先ずは子孫を残すことが第一の目的ある、といえば、必ずしもそうでないというしっかりとした反論が返ってきそうである。

 しかしこのアブラハムの古代もとより現代もまた後継者を残すのが大事な目的の一つであることは同じである。子を産めないと分るときは、夫婦はもとより一族全体の深刻な悩みになる。今日はいろいろ医学的に原因が突き止められ、子が生まれるように可能な限り原因を突き止めるが、しかし現代をも含めて、このイサクの時代にも、祈るという方策を欠かすことができない。神が可能な限りの改善をもたらすからである。


牧 会 通 信

2018-05-29 00:46:55 | 大分中央ウィークリー

ダンテ著〈1265~1321〉の「神曲 地獄」編 20歌(その5) (原光訳、2000年、沖積舎)

◯ここで憐憫は死んでこそ生きるのだ、神の裁きを見て苦痛にめそめそする奴ほど卑劣なものがゐるだらうか?

 頭をまつすぐにしろ、まつすぐに、あいつを見ろ、テーベの眼の前であいつのために大地が裂け開いたのだ、それ

でみな絶叫した、

 どこへ堕ちる、アンフィアラオ? なぜ戦ひやめるのだ? と。だがあいつはあらゆるものを捕へて放さぬ、奈落の

ミノス(既出、第5歌・4「地獄の裁判官」)まで堕ちに堕ちたのだ。前回はここまで)

◯背を胸としてゐるあいつを見ろ、あまりにも前を見ようとしたので、後を見て逆行してゐるのだ。

 ティレシアを見ろ、交(つる)む蛇を打ち離して五体がすつかり変わり、男から女になつて見分けがつかなくなつた

のだが、

それから男の剛髭(こはひげ)を取戻す前に、絡み交(つる)む二匹の蛇をふたたび杖で打たねばならなかつたの

だ。(つづく)

◯本日、5月27日ペンテコステ後の「三位一体祝日」といいます。日本聖書協会の「聖書愛読暦」の主題は「祈り

の準備」である。聖書本文は、使徒言行録1章12~14節。その14節、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア

、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」という。集まっていた人たちの中には、イエスの弟子の

十一人の名を数えることができる。欠けがえのない十二弟子の一人がいないという厳しさが伴っている。イスカリオ

テのユダがいないからである。従って14節の「心を合わせ熱心に祈っていた」とは、祈らざるを得ないからであっ

た。われわれの祈祷会の準備もしかり。祈るためではない。祈らざるを得ない。

写真は、5月母の日、舟橋市の娘から送られてきた、傘ブランカ21日撮。


プロテスタントとカトリック

2018-05-17 21:42:31 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(459)     5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その99)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

29.来るべきにおいて聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。

 わたしらちが神のもとへ行くのは信仰によってであり、またそれは肉体の働きではなく、こころの働きであることにはすべての人の考えに一致している。しかし、霊のからだがどのような能力を持つのか、わたしたちは知らない。わたしが語っていることを、だれも体験したことがないからである。わたしたちの理解力が及ばず、聖書の権威も助けにならないような場合には、「人の考えは乱れがちで、その見るところも不確かである」という知恵(ソロモンの知恵 九・一四)あてはまる。

哲学者たちの前回はここまで) 論議によれば、叡智的な事物は精神によって、物質的な事物は感覚によって知覚される。肉体は叡智的な事物を知覚し得ないし、精神は物質的な事物を知覚することができない。そして、もしこの論議が正しければ、たとえ霊のからだといっても、肉眼をもって神を見ることは全く不可能だということになるであろう。しかし、この帰結は理性そのものと預言者たちの権威とによってしりぞけられる。神が身体的事柄を知っておられることを否定するような真理の敵は、いったいだれであろうか。神はこれらを認知するための眼を備えたからだを持っておられるとでも言うのだろうか。・・・・・・

そのときに、わたしたちが新しい天と地の物質的からだを、(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2018-05-17 21:40:50 | 大分中央ウィークリー

創世記25章17節である。「イシマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。」という。アブラハムの生涯は百七十五年に対してここは百三十七年である。比較的われわれに寿命の年数に近づいてきたが、それでもやや長い。一年の長さが違うのか、年齢の数え方が違うのか、この程度なら、この世にありうる年齢としてその時代の人々の生命の長寿を表したのかもしれない。しかし、常識的には聖書の一般的な寿命は六十歳である(レビ27:3,7)。八十歳(詩90:10)は、聖書の時代にごくまれに見る年齢のようである。 

「死んで先祖の列に加えられた。」とは、アブラハムの場合と同じ表現である,表現の定型のようであるが、男子系の社会であるから、アブラハムの先祖の列に加えられたと考えることが普通である。21章13節に、アブラハムに「彼もあなたの子である」といわれているので、イシマエルの場合、「ハガルを先祖とする列」とは考えにくい。 

18節である。「イスマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」という。人間とはおもしろいといえば語弊があるが、仲良くできないことにおいて、徹底した存在であるといわねばならないほど面白い人間存在なので、別の言葉では罪深いのである。 

本心は仲良くしたいのである。しかし実際はそうではない。利害が相反することに我慢ならない。身近には、兄弟に始まり、男と女の夫婦が一番この例に当てはまる。それでも我慢しているというのが実際であり18節の本文に「道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」という。要するに部族同士互いに争いが絶えないのであった。たまに敵対するのではない。「敵対しつつ生活していた」のであった。