日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2018-04-19 05:22:29 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(456)   5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その96)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

25.前述のごとく、全世が信じているのに、以前として肉のよみがえりを問題とする者たちのかたなさについて。(つづく) (「神の国」出村彰訳)

 

26.祝福された魂は肉体と関わり合いを持つはずがないというボルフェリオスの説は,プラトンの見解と矛盾する。プラトンによれば、最高神は神々に対し決してその肉体を失うことがないと約束したのである。

 

27.プラトンとボルフェリオスの説は互いに矛盾する。もしもそれぞれ他を信じていたならば、二人とも真理から遠くはなかったであろう。(前回はここまで)

 

28.プラトンやラベオ(前50頃~後18年頃、ローマの法学者)やヴァロさえも、もし彼らの意見を首尾一貫したものに結びつけることができたならば、真のよみがえりの信仰に何と大きな貢献をしたことだろうか。

 

29.来るべきよにおいて聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。

 そこで、神の助けによって、聖徒たちが霊の死ぬことのない(つづく) (「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2018-04-19 05:20:20 | 大分中央ウィークリー

創世記25章14節である。「ミシュマ、ドマ、マサ、」という。前節13節からイシュマエルの子孫に与えた神の約束通り、順次その名がここに枚挙される。きっと綿密に結びあった連合組織を持っていたのかもしれない。1節のケトラの子孫6人の名が挙がっているが、隊商の移動民族として活躍し、しかも特別に活動盛んなヨクシャンとミディアンの子孫の系図が紹介されているのに対して、こちら12の名はそうではない。

 

それぞれ12名が部族を形成していたらしく、先の4人に続いて、3名が紹介される。それぞれの子孫を個別に紹介するまで話を広げない意図が汲みとれる。それゆえここに何らかの連合関係を持った重々しく3名の名称の紹介であると思われる。一つの名称を取り上げつつ「ミシュマ、ドマ、マサ、」と報告するだけで十分とする、名称が屋号となるような部族連合体を形成していたと考えられる。

 

15節である。「ハダド、テマ、エトル、ナフィッシュ、ケデマである。」と。残る5名の名が列挙される。さらに残りの5名の名も、重々しく告げられる。続く12節でいわれているとおり、確かに首長(「ネシーイーム」)と呼ばれる人々といわねばならない。その名称は、その下に何人かの協議会を持った組織体であることを暗に示している。

 

それぞれの居住地域をまとめるための組織体をもち、一般住民を統制し外敵から守る権威を持つとともに、あるいは防衛隊のようなものを組織し、その人数も、アブラハムの12人の子たちのように、聖書に類する宗教のような、堅固な思想的指導体制を整えていたようである(創17・20)。神のイシマエルに対する御約束の力がこのような形で表れているといえる。


牧 会 通 信

2018-04-19 05:11:20 | 大分中央ウィークリー

ダンテ(1265-1321年)の「神曲 地獄」編 19歌(その14)

◯ああ、コンスタンティン(ニカヤ第一回世界会議を招集した)皇帝第一世、二七四―三三七年、基督教に帰依し時の法王シルエストロ第一世にローマの領地を供え物としてささげたりとの説ありて、その時事実として認められしも、事後戯言に過ぎざること証明せらるるに至れり)よ、そなたの改宗ではなく、最初の富んだ教父がそなたから受け取つた、あの贈物こそなんといふ悪の母となつたことか!」

 わたしがこのやうに言ひ放つてゐる間、憤怒か良心に噛み苛まれて、霊は両足で激しくもがき蹴つていた。前回はここまで)

◯わたしの確信では、それが先達の気に入つて、ずつといた。満足げな顔つきで、きつぱりした真実の言葉の響きに聴き入つてゐた。

 それで師はわたしを両腕で抱き締め、しつかり胸に抱きあげると、下りてきた道を通つて登つた。

 ぎゆつとわたしを抱きしめたままでも疲れず、第四から第五の堤にかかるアーチの頂までわたしを運んだ。

 (つづく)

◯本日、4月15日の日本聖書協会の「聖書愛読暦」の主題は「あがない」と。聖書はⅠペトロ1・13~21。その13節、「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」といいます。終末の時まで待つという信仰である。それは、気が遠くなるような遠い話ではない。今日か、明日という感覚で待つようにという意味である。神には、わたしたちのようなゆったりとした時間感覚は通じないのです。「千年といえども~夜の一時」(詩90・4)と。人生は短いが、信仰によって長くかつ豊か。神共にいつも感謝。

写真は4月15日頃まで大分城址公園にイルミネーションで天守閣を構築。


プロテスタントとカトリック

2018-04-12 21:17:23 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(455) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その95)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

24.この世は裁きの下にはあるが、しかも創造主は祝福をもってこれを満たしておられる。

 神の知恵が何の問題もなしに、至上の浄福をもってその源泉にまで溢れ渡るそのところでは、誤りも悩みも抜きにしたすべてのものの知識は、何と偉大で・美しく・確かであることだろう。からだがすべての点で霊に従い、これによって十分に養われて他の何物をも必要としないとき、それは何と完全なことであろうか。それは確かに肉の本体を有してはいるが、その罪過は少しも残らず、したがって「生まれつきのまま」ではなく、霊的なものとなるのである。

25.前述の(前回はここまで)ごとく、全世が信じているのに、以前として肉のよみがえりを問題とする者たちのかたなさについて。(つづく) (「神の国」出村彰訳) 

26.祝福された魂は肉体と関わり合いを持つはずがないというボルフェリオスの説は,プラトンの見解と矛盾する。プラトンによれば、最高神は神々に対し決してその肉体を失うことがないと約束したのである。 

27.プラトンとボルフェリオスの説は互いに矛盾する。もしもそれぞれ他を信じていたならば、二人とも真理から遠くはなかったであろう。(つづく)  (「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2018-04-12 21:14:39 | 大分中央ウィークリー

創世記25章13節である。「イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば長男がネバヨト、つぎはケダル、アドベエル、ミブサム、」という。17章20節で、イシュマエルの子孫に与えた神の約束は、その通り実行されていくのであった。まず4人の子息が紹介される。聖書の中に出てくる名は、「ネバヨテ」と「ケダル」である。ネバヨテは3ケ所にある。創世記では28章3節と36章3節、そしてイザヤ書60章7節である。しかしこのイザヤの方は、その同じ名前が一か所だけで、結びつけるのは危険である。

 

「ケダル」はネバヨテと一緒にイザヤ書60章7節に出て来るだけでなく、同じイザヤに21:16以下、42:11、その他エレミヤ2:10,49:28、詩編120:5などに出てくるところによれば、その歴史的長さは不明であるが、有力な部族として存在したと推定される。

 

14節である。「ミシュマ、ドマ、マサ、」という。前節13節からイシュマエルの子孫に与えた神の約束通り、順次その名がここに枚挙される。きっと綿密に結びあった連合組織を持っていたのかもしれない。1節のケトラの子孫6人の名が挙がっているが、隊商の移動民族として活躍し、しかも特別に活動盛んなヨクシャンとミディアンの子孫の系図が紹介されているのに対して、こちら12の名はそうではない。

 

それぞれ12名が部族を形成していたらしく、先の4人に続いて、3名が紹介される。それぞれの子孫を個別に紹介するまで話を広げない意図が汲みとれる。それゆえここに何らかの連合関係を持った重々しく3名の名称の紹介であると思われる。一つの名称を取り上げつつ「ミシュマ、ドマ、マサ、」と報告するだけで十分とする、名称が屋号となるような部族連合体を形成していたと考えられる。