五、「教会とわたしたち」(377)5.近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その18)
10 この世の財貨を失っても、聖徒は何物をも失わない。
~しかし善良なキリスト信者の中にも敵によって拷問をかけられ、その財貨を差し出すように強要された者がいる。しかし彼らは財貨を差し出すことはできなかっ
たし、また彼らを善きものとする真の財宝を失うこともなかった。もし彼らが不義の財宝の引き渡しよりも拷問を(前回はここまで)ましと考えたならば、彼らは善き
〔信仰者〕ではなかった。金銀のためにこれほどの拷問に耐える心構えのあった者は、キリストのために苦しむ心構えを持つことを学ぶべきであった。彼らはキリ
ストを愛することを学ぶべきであった。キリストは彼のために苦しむ者を、永遠の浄福をもって富ませるのである。偽りを言ってうまく隠しおおせるにせよ、真実を
語って取られるにせよ、金銭のために苦しむのは惨めである。どのような拷問にかけられても、キリストを言い表わすことによってキリストを失った者はいない。こ
れに反して、金銭を保持できたのは、ただそれを否認することによってであった。それゆえに、わたしたちが朽ちることのない宝を愛するように訓練する拷問は、
何の有益な実りももたらさず、ただ強欲の責苦によってその所有者を苦しめる持ち物よりも価値のあるものであった。
11 長短いずれにもせよ、すべての現世の生は同じように終わりを迎える。
しかしながら、多くのキリスト信者が、(つづく)~ (教団出版「神の国」出村彰訳1968から引用)