日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2015-02-24 20:57:31 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(300)

4.近代の教会の夜明け

―宗教改革―スコットランド

(そのため、スコットランド改革教会はその将来が安定したかに見えたがそうではなかった。幼年ジェームスが1666年7月に戴冠式を挙げて即位し、マリー伯がその摂政となったので、かえって前皇女メアリーの残党たちを刺激した。その摂政マリー伯に安心できない社会状況がなお続いた。マリー伯によってその地位を追われたボスウエルハムのハミルトンが、仲間と共にマリー伯暗殺の謀略をめぐらし、1570年、ついに彼を暗殺した。この突発事件は全国民を驚かせた。マリー伯の死は全国民によって痛く惜しまれ、彼の敵すらも彼の死を惜しんだといわれるほどであった。(ここまで前回)

またこのことは、当然、ノックスに精神的打撃を与えたことはいうまでもない。  そのころから、彼の健康は著しく衰えたといわれる。その年、すなわち1570年10月に彼は、軽微な脳出血に見舞われた。ノックスはエディンバラを去って、静かな聖アンドリューズで養生することとなった。彼はその地でおよそ半年間、半身不自由に悩んだが、それでも宣教をやめなかった。そのときの大事な仕事は、根強く残っていた教会のカトリック的監督制度の変革であった。改革派的な会議制度の形式に全体として変革させるのに成功したが、なお無秩序な混乱が残り、忙しく過ごした。彼のその後の健康は徐々に悪化し、~(つづく)


聖書研究

2015-02-24 20:55:29 | 大分中央ウィークリー

創世記20章14節である。「アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して」という。とにかく相手の言い分はどうであれ、アビメレクは自分の得心の行くようにした。それによると先ず見える贈り物でその本心を表そうとしている。「牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、」という。 

9節で「あなたはしてはならないことをした」といって激怒したが、その怒りの大きさに応えるように、自分の本心、その気持ちを表し、謝罪の意味をこめて十分豊かな贈り物を用意した。6~7節の、夢の中の神の言葉に対するアビメレクの衝撃の大きさは、単なる古代の問題として済まされない。 

15節である。「言った。『この辺りはすべてわたしの領土です。好きなところにお住まいください。』」ここに「お住まいください」というのは、1節のアビメレクの領土ゲラルに住んだときは、アブラハムが許可なく進入してきたのであり、一時的滞在であった。しかしここのアビメレクのいうのは、永住権を与えるという意味である。 

単に、礼を尽くすというのではなく、破格の待遇である。人ではなく神に対する礼の尽くし方を教えている。あるいは、わたしたちの信仰による神の恵みへの応答に匹敵するであろう。彼がアブラハムの心の奥深くを察して、妻のゆえに殺されるとしたアブラハムの、その苦しみに応えようとしたに違いない。それは、その背後の神の怒り、裁きを恐れているといえる。


牧 会 通 信

2015-02-24 20:24:53 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第9歌(カッコ内は筆子、その3)

◯かう訪ねると、師は答へた、「わたしらの内の誰かが、わたしが進んでる道を辿るのは、めつたにないことだ。実を言へば、わたしは一度ここに下つたことがある、霊たちを自身の肉体に呼び戻した、あの残酷なエリトン(「エリトの子」の意、テツサリアの巫女、一兵士の魂を呼び出す)魔術に強ひられて。わたしが肉体を離れてまもなく、あの魔女はわたしをこの壁の中に入らせた、チュダの園から一つの霊を引出すために。 (ここまで前回)

◯そこはもつと低く、もつとも暗く、一切を回転させる天からもつとも遠いところだ。わたしには道がよく分つてる、だから安心するがよい。ひどい悪臭を発してゐるこの沼は、いまわたしらが怒りなしには入れぬ、苦悶の都市(まち)を取巻いてゐるのだ。」外のことも言つたが、それは覚えてゐない、わたしの心は頂の真つ赤に焼けた高い塔に釘づけにされてゐたので、(つづく)

 

◯2015年2月22日は、今年の第八主日である。日聖協の「聖書愛読こよみ」は、エレミヤ29章10~14節。10節に「バビロンに七十年」といわれる。その出発点はバビロニヤ帝国の誕生の前605年から実際に66年後のペルシャの王の宣言(歴下36・23)捕囚解放の538年まで。「七十」は神の聖数。 

◯写真は2月3日九州中連婦総会。東京「中連婦」を解散「女性の会」に。殷(いん)の時代、前15世紀の「婦」は「女性」の尊称。惜しいかぎり。


プロテスタントとカトリック 

2015-02-17 19:13:10 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(299)

4.近代の教会の夜明け

―宗教改革―スコットランド

(このジェームス六世が1歳の誕生日を迎える直前、1567年6月、父ダーリン卿は不審な死を遂げ、母メアリーと引き離された。ジェームスが王位に就いたが、やがて父の暗殺の嫌疑が母メアリーの三番目の夫に及び、母は1568年イングランドに亡命し、以後、1587年に処刑されるまでジェームス六世と会うことはなかった。エディンバラ条約締結以後、政治的権力を、プロテスタント貴族が握ったので、幼年ジェームス六世の摂政も、プロテスタント信仰者でノックスを支え、改革運動に大いに貢献した母方の叔父に当たるマリー伯、ジェームス・スチュアートが任命された。そのため、(ここまで前回)

スコットランド改革教会はその将来が安定したかに見えたがそうではなかった。幼年ジェームスが1666年7月に戴冠式を挙げて即位し、マリー伯がその摂政となったので、かえって前皇女メアリーの残党たちを刺激した。その摂政マリー伯に安心できない社会状況がなお続いた。マリー伯によってその地位を追われたボスウエルハムのハミルトンが、仲間と共にマリー伯暗殺の謀略をめぐらし、1570年、ついに彼を暗殺した。この突発事件は全国民を驚かせた。マリー伯の死は全国民によって痛く惜しまれ、彼の敵すらも彼の死を惜しんだといわれるほどであった。またこのことは(つづく)