日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリッ

2017-12-30 20:44:49 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(442)

 5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その82)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

 11.物質の重さを考えて、地上のからだ天にあることはできない、と主張するプラトン主義者に反論する。

 12.肉のよみがえりというキリスト信者の信仰を嘲笑する不信者の中傷に反論する。   

・・・・・・これが彼らのあげつらっている質問である。そして彼らはよみがえりについてのわたしたちの信仰を軽蔑する。彼らは二つの可能な回答を提示する。一つはプラトンの考えで、それによれば人間の魂は真の悲惨と偽りの幸福の間を交替するという考えであり、他はポルフェリオスに従って、魂は多くの異なった肉体を住み家としたのち、悲惨さを終了し、もはや肉体へ帰って来ることはないという考えである。どちらの場合でも、肉体は不可死的とは考えられず、ただこれから逃れ去ることだけが望まれている。

13.もしも流産児が死者のうちに含まれるならば、彼らもよみがえりの一部分とはならないだろうか。

これらの問い(前回はここまで)に対し、わたしは神の助けによって答えることにしよう。母胎の中では生きていても、生まれる前に死んでいる流産児については、わたしはそのよみがえりを否定も肯定もしない。しかし、もし彼らを死者のうちに含めるのならば、彼らを死人のよみがえりから除外する理由があると思われなすべての死人がよみがえらず、したがってからだを持たない(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-12-30 20:42:34 | 大分中央ウィークリー

創世記24章66節である。「僕は、自分が成し遂げたことをすべてに報告した。」という。「すべて~報告した」というが、長い旅路のことであるから、立ち話はできない。どこかに腰を下して、24章11節あたりの、ナホルの町外れの井戸のそばに休憩をとって祈ったときからの劇的な出会いの話を話し始めたのであろう。 

その報告を今、聞いた。しかし無事に目的を達成したことを振り返って単なる旅行記を読むのでない。編集者とともに神の大きなご計画と神の働きとしての嫁探しの旅であったことを考えねばならない。われわれも神と共にある人生はかくのごときである。 

67節である。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを向かえて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」と。嫁を探して長旅を終えて、無事イサクのところにつれて来られたリベカはベールをかぶってそばに立っていたのであろう。そのリベカと出会ったときのヤコブの気持ちはどうであったか。その喜びを察して余りある。詩編19編8節に「太陽は、花婿が天蓋から出るように 天の果てから出で立ち 天の果てを目指して行く」と歌われる。その先、「千里の道も遠しとせず」といわれる、花婿としての新しい旅立ちであった。 

早速ながらイサクは、連れて行くべきところは、前もって決めていたようである。127歳でその生涯を閉じた(23・1)母サラが住んで生活していた天幕であった。その天幕で、恐らく簡潔な家族だけの結婚式を挙げたのであろうか。「彼はリベカを向かえて妻とした。」といわれる。そしてイサクの嫁リベカへの気持ちは、押して知るべしであった。ここに「イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」という。


牧 会 通 信

2017-12-30 20:24:23 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎、)   ダンテ(1265-1321)の「神曲 地獄」編 18歌(その15)

◯糞だらけの爪で自分のからだを引掻き、しやがんだり立上がつたりしているあの女は、タイデ(遊女の名)、贈物をしたなじみの客が、

大きにお気に召したかね?と尋ねたとき、それどころろかとてつもなくよ!と答へた遊女だ。

こんなものにはもうわたしらの眼はうんざりだらう。」前回はここまで)

ダンテ(1265-1321)の「神曲 地獄」編 19歌(その1)

◯おお、魔術師シモンと、その卑劣な追従者たちよ、善徳の花嫁たるべき、神の事物を、貪欲なお前たちは、金銭と引替へに

  売り瀆(けが)したのだ、いまこそ容赦なくお前たちのためにラッパが鳴り響かねばならぬ、お前たちは第三の袋の中にゐるのだから。

  すでにわたしらは次の墓穴に着いて、堀の真中の真上に当る、岩橋の頂に登つてゐた、(つづく)

◯本日12月24日(日)は、プロテスタント諸教会では、1517年の宗教改革以来の伝統となったクリスマス主日です。従ってこの日の主日礼拝が「クリスマス礼拝」となります。しかし日本聖書協会のこの日は「アドベント(待降節)4」です。聖書本文はマタイ1・18~25であり、その主題は、「よろこびのおとずれ」という。クリスマスはイヴ(夕)に静かに、教会に人々が集まって、キャロリングして帰って来た人々と共に一緒になってクリスマス曲の大合唱。そして世界中(カトリックとともに)で、イヴ礼拝が始まります。

写真(中央)の愛する兄弟は去る9月26日夕、鹿児島のご自宅で脳幹出血のために倒れたが、主は彼の命を守り、左半身不随の後遺症リハビリ中。12月18日わたし、牧師(左)が見舞う。


プロテスタントとカトリック(先週12月10日不掲載のため追加掲載)

2017-12-20 15:28:41 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(440)    5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その80)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福(先週2017.12.10、この「440」不掲載のため追加掲載)

 11.物質の重さを考えて、地上のからだ天にあることはできない、と主張するプラトン主義者に反論する。

 12.肉のよみがえりというキリスト信者の信仰を嘲笑する不信者の中傷に反論する。 (前回はここまで)  

彼らは肉のよみがえりというわたしたちの信仰を嘲笑し、愚かな問いを発する。「死産児はどうだろうか。彼らもまたよみがえるだろうか。主が『あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない』(ルカ二一・一八)と言われているからには、すべての〔よみがえりの〕からだは同じ背丈・力・大きさであろうか・・・・・・)と。

死体は腐敗・分解に関して言えば、あるものは土に帰り、他は空中に分解し、さらにあるものは獣に食われ、火に焼かれ、難船し、溺死し、そして水に溶解したりする。わたしたちの論敵は、こうした事実に心惑わされ、これらすべての肉体が再び集められ、元の肉の状態に修復されることを信じない。彼らはまた、生まれつきにせよ、事故によるものにせよ、かたわやしみを好んで取り上げ、恐れと嘲笑とを混じえて生まれつきの奇形を引証し、このようなかたわもよみがえりのからだにおいて保存されるのかどうかを尋ねる。

もしもわたしたちが、この種のことはよみがえりのからだには、再現されないと答えると、彼らは主キリストがよみがえられたとき、〔十字架上の〕傷あとがそのままに残されていたというわたしたちの立言を引いて反論して来る。もっとも難しい質問は、極度の飢えに迫られて他の人間の肉を食したような場合、その肉(つづく)

(「神の国」出村彰訳)


聖書研究(先週12月10日不掲載のため追加掲載)

2017-12-20 15:26:17 | 大分中央ウィークリー

創世記24章64節である。「リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、」という。らくだがイサクに向って、近づいて来た。「リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。」という。しかしどこの誰か、リベカには顔をみるだけでは初めての男子であり、旅の目的からしてそれとなく感づいてはいたが、全く分からなかったに違いない。きっと心の高まりを感じてらくだにまたがっているわけにはいかなくなった。

 

互にそれぞれの顔を確認できそうになったのであろうか。長い旅路の据えであるから、それとなく、多分リベカが自分に決められていた男子が迎えに来たのではなかろうかと、感づいたのあろう。確認する必要があると判断した。僕に尋ねるためである。それでだれの指示もないのに、まだ、いくらか距離があるあいだにと思い、いよいよ自ら「リベカはらくだから下り」たのであった。

 

65節である。「『野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰ですか』と僕に尋ねた。『あの方がわたしの主人です。』と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。」という。夕暮れが近づいていますから目的地近くに来ていることは承知していました。とっさのこととはいえ、リベカにはそのための旅路ですから、その心の用意は十分できていたと言うべきでありましょう。

 

それにしてもこのときの相手はイサクであり、アブラハムではない。僕はリベカに「あの方がわたしに主人です。」と答えている。一族の財産相続がイサクに移っていたからであろう(36節)。「ベールを取り出してかぶった。」(口語訳「被衣(かずき)で身をおおった」)は未来の夫の前では顔を覆う習慣があった。時に体全体も(38・14)覆った。