日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2017-07-31 21:56:03 | 大分中央ウィークリー

創世記24章46節である。「リベカさまはすぐに水がめを肩から下ろして、『どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えてくださいました。「わたしも飲み、らくだものませていただいたのです。」と。ここのところ19節に戻ってみると彼女の気持ちがよくわかる。すなわち、「彼が飲み終わると、彼女は、『らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう』と言いながら、」となっている。 

すなわち、自分から、らくだの水汲みを言い出して、その腰も軽やかに井戸に向って走っていったのでありました。これほどまでに労を惜しまず、水汲みに走るとはアブラハムの僕は予想もしていなかったに違いない。ただ神の出来事に驚いたであろう。そればかりではない。彼女への信頼感と、将来への主人アブラハムによって自分に授かった勤めへの希望を持つことができたに違いない。

 47節である。「『あなたはどなたの娘さんですか』とお尋ねしたところ、『ナホルとミルカの子ベトエルの娘です。』と答えられましたので、わたしは鼻輪を鼻に、腕輪を腕に着けて差し上げたのです。」と語りました。これは贈り物による彼、僕の意思表示であったが、それを聞く彼らにとっては、初めて、事の次第を納得できたのである。あの時リベカが戻って来た。リベカの異様な姿に、何か大事なことが起こり始めていると気がついたが、ただ親族のその本心は極めて不安だったに違いない。 

リベカに何かがあったと判断して、リベカの言葉を聞いてとっさに、兄がまず現場に向った(28節)。遠来の親族がやって来たことが確かに驚きではあるが、それ以上に親族にとって大きな問題は、その目的にあった。兄が反応したのはそのためであった。


牧 会 通 信

2017-07-31 21:51:08 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その10)

◯いまはこれを階段にして下りるのだ、前に乗れ、尾がそなたを傷つけぬやうに、わたしは間にゐたい。」

  四日熱の悪寒が迫つてすでに爪が青ざめてゐるものは、日陰を見ただけで全身が震へ出すものだが、

  わたしもこの言葉を聞くとそのやうになつた、だが勇敢な主人の前で下僕を力強くする、廉恥心がわたしを威

嚇した。(前回ここまで)

◯わたしは背の上にまたがつた 、わたしを抱き締めて下さい、と言ひたかつたが、思つたやうに言葉が出なか

つた。

  だがいままで外の危機にわたしを援けた師は、わたしが乗るとすぐ両腕で抱き締めて支へ、

  かう言つた、「ヂエリオン(神話の巨人の名付)さあ動き出せ、大きな環を描いて、少しづつ下れ、背負つてる

新奇な積荷を忘れるな。」(つづく)

 

◯本日、7月30日(日)の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「隣人を愛する」という。聖書はマタイ5章43~48節である。その44節、「しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害するものために祈りなさい。」という。歴史的にいって画期的な主イエスのお言葉である。実際問題としてユダヤ人は、ユダヤ人以外の民族を「異邦人」(使11・1~3他)という。言葉の「異邦人」は、本来敵対関係を現す。それゆえ主イエスが「敵を愛し、自分を迫害するものために祈りなさい。」と。それでは、一般社会はどうか。ある意味では敵だらけではある。まさに、人は、毎日、どうしたら、愛することができるのか悩んでいる。

◯写真は先々週、16日の夕礼拝後、思い立って、牧師誕生日祝いの夕食会となった。何歳なのかと思われる

が、その当日80歳と相成った。郁子から日ごろ、ありつけない馳走に.

 


プロテスタントとカトリック

2017-07-27 00:18:32 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(421)    近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽として   アウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その61)より

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

2.神の永遠に変わることなき意志について。

3.聖徒に対する永遠の浄福

4.人間の地的な肉体を天のすまいに移すこ

  とはできないと考える、この世の知者に対して。

学者や哲学者と呼ばれる人々うちには、前述のごとく、このような信仰と望みをもってあらゆる種類の人々に霊感を与えて来た〔聖書の〕権威の重さに(前回はここまで)逆らおうとする者がいる。彼らはキケロの『共和国論』の第三部に、肉体のよみがえりに対する有力な反論を見いだしたと考える。キケロはヘラクレスやロムルスがどのようにして神とされたかを物語り、こう述べている。「彼らの肉体は天には移されなかった。自然の法則は地から生じたものが地上に留まることを主張する」と。

これは知者の思いである。しかし、「主は人の思いの、むなしいことを知られる」(詩編九四・二)。もしも、わたしたちが霊だけ、すなわち肉体を持たない霊だけで、天に住み、地上の被造物については全く無知であり、あるふしぎな紐帯によって地上の肉体を生きたものとするためにこれと結びつけられるであろうと言われるならば、自然が非物質的本体を物質的鎖によって縛ることを許す、といったことを信じようとはせず、猛烈に反対することであろう。しかし、地は物質的な肉体を住みかとする霊魂によって満ちて (つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-07-27 00:15:25 | 大分中央ウィークリー

創世記24章45節である。「わたしがまだ心に言い終わらないうちに、リベカさまが水がめを肩に載せて来られたではありませんか。そして、泉に下りて行き、水をおくみになりました。わたしが、『どうか、水を飲ませて下さい』と頼みますと、~」という。正確に復唱するような話がなおもつづきます。しかし、聞き手はそのよどみなくつづく話に、かえて興味津々、なお引き込まれていきます。そういう語り口で進みました。

 

話が身内の「リベカさま」に言い及んだ。聞き手は体を乗り出すような感じでありました。彼女はいつもの水くみで慣れているとはいえ、井戸端には見るからに如何にも遠来の客人であることはわかるはずであり、もし必要とあれば飲ませてあげねばならないと、その心積もりをして泉から上がってくるはずであります。そのような心遣いがここでは必要でありました。普通のことではありますが、この経験で普通のことが、普通にできるということは、日ごろの生活の穏健なありかたが問われている。

 

46節である。「リベカさまはすぐに水がめを肩から下ろして、『どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えてくださいました。「わたしも飲み、らくだものませていただいたのです。」と。ここのところ19節に戻ってみると彼女の気持ちがよくわかる。すなわち、「彼が飲み終わると、彼女は、『らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう』と言いながら、」となっている。

 

すなわち、自分から、らくだの水汲みを言い出して、その腰も軽やかに井戸に向って走っていったのでありました。これほどまでに労を惜しまず、水汲みに走るとはアブラハムの僕は予想もしていなかったに違いない。ただ神の出来事に驚いたであろう。


牧 会 通 信

2017-07-27 00:09:01 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その9)

◯雄山羊三頭の財布をもって! と。」ここで口を歪めて舌を外へ引き出した、鼻を舐める牛のやうに。

  もつとゐつづけると、すぐ戻れと忠告した師が苛立ちはせぬかと懼れて、わたしは惨めな霊たちから引返し

た。

  先達はすでに猛獣の背に乗つてゐて、わたしに言つた、「さあ肝つ玉太く思ひきつてやれ、(前回ここまで)

◯いまはこれを階段にして下りるのだ、前に乗れ、尾がそなたを傷つけぬやうに、わたしは間にゐたい。」

  四日熱の悪寒が迫つてすでに爪が青ざめてゐるものは、日陰を見ただけで全身が震へ出すものだが、

  わたしもこの言葉を聞くとそのやうになつた、だが勇敢な主人の前で下僕を力強くする、廉恥心がわたしを威

嚇した。(つづく)

 

◯本日、7月23日(日)の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「共に生きる」という。聖書はローマ1

5章1~13節である。その1節、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求

めるべきではありません。」という。ローマの信徒への手紙はキリスト教神学の基本である。しかし神学の論理

の上に、その実践が伴わなければなりません。著者のパウロは、12章の「そういうわけで」といって、話を続け

キリスト教信仰の実践生活を語る。15章で、わたしたち心のいよいよ深くに入って来て、すなわち「自分の満足

を求めるべきではありません。」と。「おのおの善を行って燐人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」と勧

告し、何としても善を行って「燐人を喜ばせ」という。

◯写真は、先週16日、礼拝後、教会の門の前で、幼稚科の首藤「マナ」ちゃんとお母さんの「さやか」さん、みは祖父の

谷村禎一さん(福岡城南教会員)。