創世記24章46節である。「リベカさまはすぐに水がめを肩から下ろして、『どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えてくださいました。「わたしも飲み、らくだものませていただいたのです。」と。ここのところ19節に戻ってみると彼女の気持ちがよくわかる。すなわち、「彼が飲み終わると、彼女は、『らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう』と言いながら、」となっている。
すなわち、自分から、らくだの水汲みを言い出して、その腰も軽やかに井戸に向って走っていったのでありました。これほどまでに労を惜しまず、水汲みに走るとはアブラハムの僕は予想もしていなかったに違いない。ただ神の出来事に驚いたであろう。そればかりではない。彼女への信頼感と、将来への主人アブラハムによって自分に授かった勤めへの希望を持つことができたに違いない。
47節である。「『あなたはどなたの娘さんですか』とお尋ねしたところ、『ナホルとミルカの子ベトエルの娘です。』と答えられましたので、わたしは鼻輪を鼻に、腕輪を腕に着けて差し上げたのです。」と語りました。これは贈り物による彼、僕の意思表示であったが、それを聞く彼らにとっては、初めて、事の次第を納得できたのである。あの時リベカが戻って来た。リベカの異様な姿に、何か大事なことが起こり始めていると気がついたが、ただ親族のその本心は極めて不安だったに違いない。
リベカに何かがあったと判断して、リベカの言葉を聞いてとっさに、兄がまず現場に向った(28節)。遠来の親族がやって来たことが確かに驚きではあるが、それ以上に親族にとって大きな問題は、その目的にあった。兄が反応したのはそのためであった。