五、「教会とわたしたち」(462) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後」
初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その102)
最終篇に入ります。
第二十二編神の国永遠の浄福
29.来るべき世において聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。
そのとき、これらの目は神を見奉るであろう。なぜなら、これらは霊的な非身体的な本体をも知覚できるような、高次の知性をそのうちに持つからである。もっとも、このことを聖書の事例や本文から証明することは困難で、事実上不可能である。
30,神の国の永遠の浄福と永遠の安息について。
いかなる悪によっても汚されず、すべての善が明らかにされ、すべてにおいてすべてである神を讃美する暇のある(前回はここまで)浄福は、いかに大いなるものであろうか。いかなる怠情も存せず、労苦の要の全く存しないようなところで、他の何物にわたしたちの心を用いることがあろうか、わたしにはわからない。わたしは次の聖詩編に見習うことにしよう。「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。」(詩編八四・四)。
いまはやむを得ない役に立っている肉体のすべての四肢・器官も、その必要がなくなり、完全で確実・永遠的な浄福だけが残るそのときには、ただ神をほめたたえる用を果たすだけのことになるであろう。わたしが上に述べたように、今はその機能を秘かに果たしている身体的調和の各部分も、そのときには(つづく)(「神の国」出村彰訳)