日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-06-26 16:13:06 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(417)  近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その57)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

1.  天使と人間の創造について

  初めにこの世界を創造し、精神と肉体をあらゆる良き物をもって満たされたのは神である。神が創造されたもののうちで、霊よりすぐれたものはない。(前回はここまで)神はこれに理性を賦与され、神を観想し、受け入れる能力を備えられた。神はこれらの霊を一つの交わりにらしめられた。わたしたちはそれを上からの聖なる国と呼ぶ。この国の市民たちが浄福を得、これを喜ぶのは神御自身によってである。神が彼らの共通の生命であり、糧であるからである。

  これら理性的存在に対し、神は自由意志を与えられた。それは、もしも欲するならば真の浄福である神を捨てることさえできるような自由であるが、それには必ずや悲惨が伴うであろう。神はある天たちが驕慢に思い上がり、淨福な生き喜びとするには自分自身だけで十分であると考えて、神とともにある善を捨て去るであろうことをあらかじめ知っておられたが、しかも彼がそうする力を奪い取られなかった。いっさいの悪を禁ずるよりは、悪から膳を作り出す方が、神の力にとってよりふさわしく、またこれを明示することになると判断されたからである。

  彼らの可変的な本性は、すべてのものを良きものとして創造された・最高善にして変わることなき神によって造られたのであるから、それ自体としては~ (つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-06-26 16:10:12 | 大分中央ウィークリー

創世記24章41節である。「『~そのとき初めて、お前はわたしに対する誓いを解かれる。またもし、わたしの親族のところに行っても、娘をもらえない場合には、お前はこの誓いを解かれる』と言いました。」という。予定通り願いがかなったときも、また実現しなかったときをもといっている。実に丁寧なアブラハムの配慮である。

 

多分、アブラハム自身も、メソポタミヤを出てからの長い間、この唯一の兄弟親族との交流がなかったようである。どのような生活状況であり、どのような心の状態なのか、ただ親族というだけであって、全く予想がつかなかったといってよい。それゆえその結果については、全く僕の彼に責任がないといって、現状復帰を保障している。彼は安心して勤めについて、なお話をとくとくとつづけるのであった。

 

42節である。「こういうわけで、わたしは、今日、泉の傍らにやって来て、祈っておりました。『主人アブラハムの神、主よ。わたしがたどってきたこの旅の目的を、もしあなたが本当にかなえてくださるおつもりなら~、』」という。リベカを嫁にくれるかどうかの訴えであるのに、これに至る出来事をとくとくと語り続けている。らくだ10頭を引き連れ多くの贈り物を持ってはるばるやって来たのであったから、この語り方は聞く側が承知の上であったと思われる。多分、中近東の習慣であったのかもしれない。

 

それにしてもこの事情は、嫁取りの極めて上品な訴えになったに違いない。聞いている側は話の順序に従って、徐々にその気持ちにさせられるのである。これは初代教会の説教もそうであった。たとえば、五旬祭の日のペトロの説教が、「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」から、すでに知らされていた話をしている。


牧 会 通 信

2017-06-26 15:57:51 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その5)

◯そこで師は言つた、「この環(みち)について完全な経験を得るためには、行ってあのものたちの状態を見   よ。

  話は短く切上げよ、そなたが戻るまでに、強い肩を貸してくれるやう、わたしはこの獣と話合はう。」

  かうしてさらにわたしは第七圏(たに)のいちばん端の上を、たつた一人で悲惨なものたちが坐つてゐるところまで進んだ。(前回ここまで)

◯その眼からは悲嘆が噴き出てゐた、あちこちへ手を振り動かして、火の子を払ひ、熱砂を引つ掻いてゐた。

  夏に犬たちが蚤や蠅や虻に刺されるとき、鼻づらや足で身を引つ掻くのにそつくりだつた。

  じりじり焼く火が落ちかかる幾人かの顔に眼を凝らしても、一人も見分けがつかなかつたが、わたしは気づいた、(つづく)

 

◯本日、6月25日(日)の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「栄光の望み」という。聖書はローマ8

章18~25節である。その18節に、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取

るに足りないとわたしは思います。」といいます。更にいうには、24~25節で、「~見えるものに対する希望は

希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望ん

でいるなら、忍耐して待ち望むのです。」といっている。この世は、時に悪人善人時に敵味方、合間見えながら

戦い争って、そのバランス関係の中で生きている。基本的には悩みの多い世の中ではある。しかし「望み」があ

る。

◯写真は6月11日教会筋向かい側グランシアターでの2017年ファミリーコンサート(市成好姉出演)。


プロテスタントとカトリック

2017-06-19 17:53:22 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(416)

近代から現代へ(宗教改革とその後)  はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その56)

  第二篇から第二十一篇までを割愛して、最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

1.  天使と人間の創造について

前篇で約束したように、本書の最後となる。この篇において、わたしは神の国の永遠の浄福について論ずるこ

ととする。「永遠の」という形容句は、何世紀もの間続き、そしていつの日にか終わりが来る、という意味ではな

く、「その支配はかぎりなく続く」(ルカ一・三三)と福音書に記され(前回はここまで)ているようなものである。そ

れはまた、常緑樹の場合のように、その緑は永続的であるように見えながらも、実は枯れた葉が落ち、新しい

葉がその代わりに現われることによって、いつも緑繁く見えるというのではない。一つの世代が消滅し、別の世

代がとって代わることによって、永続性の見せかけを持つのが「永続の」という意味ではない。この国において

は、すべての市民は死ぬことがない。人間でさえも、聖なる天使らが決して失わなかったその不死性に到達し

ている。この国の創設者である全能の神御自身がこれをなしとげられるであろう。神はこれを約束されたし、神

は偽ることはないのである。そのことの保障として、神はすでに約束された以上のことを果たされている。

初めにこの世界を創造し、精神と肉体をあらゆる良き物をもって満たされたのは神である。神が創造されたも

ののうちで、霊よりすぐれたものはない。~(つづく)(「神の国」出村彰訳)

 


聖書研究

2017-06-19 17:50:38 | 大分中央ウィークリー

創世記24章40節である。「主人は、『わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。お前は、わたしの親族、父の家から息子のために嫁を連れて来ることができよう。」と。この言葉は、まだ現実にはなっていない。アブラハムの僕にとって、人間的には、主人のアブラハムから聞く一つの予想であり、一つの仮説である。その反対の結果もありうる性質の言葉であった。

 

しかし、そうであるにもかかわらず、やはり僕の主人アムブラハムは、信仰の人であった。それゆえ彼の不安を払拭すべく、ここで主人アムブラハムが彼に語りかけたのを思い出させたのであった。「主人は、『わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。~』」と。それゆえ、「主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。」という。三段論法である。彼、僕は得心して、その心の内の言葉を感謝して打ち明けた。それゆえ、まさに神ご自身が「旅の目的をかなえてくださる。」という。

 

41節である。「『~そのとき初めて、お前はわたしに対する誓いを解かれる。またもし、わたしの親族のところに行っても、娘をもらえない場合には、お前はこの誓いを解かれる』と言いました。」という。予定通り願いがかなったときも、また実現しなかったときをもといっている。実に丁寧なアブラハムの配慮である。

 

多分、アブラハム自身も、メソポタミヤを出てからの長い間、この唯一の兄弟親族との交流がなかったようである。どのような生活状況であり、どのような心の状態なのか、ただ親族というだけであって、全く予想がつかなかったといってよい。それゆえその結果については、全く僕の彼に責任がないといって、現状復帰を保障している。