五、「教会とわたしたち」(473) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後」
初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その113)
最終篇に入ります。「神の国」出村彰訳より)
第二十二編 神の国永遠の浄福
30,神の国の永遠の浄福と永遠の安息について。
わたしたちのなすすべての善きわざは、わたしたちのというよりは神のわざと考えられるが、しかもこの安息を得るためにわたしたちのわざとしてわたしたちに帰せられる。もしそれをわたしたち
自身のものとするならば、何の力もな(前回はここまで)いものとなろう。「なんのわざをもしてはならない」(申命記五・一四)と記されているからである。預言者エゼキエルはこう言っている。「わ
たしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。
これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである」(エゼキエル書二〇・一二)。このことをわたしたちが完全な安息を喜びとし、神が神であることを完全に知るそのとき完
全に理解するであろう。
もしも世界の歴史の各段階を一日と数えるならば(そしてそれはそれが各時代を記録する仕方であるが)、安息日は第七の段階と考えられる。第一日はアダムから大洪水まで、第二日は大洪
からアブラハムまでである。経過した年の数は等しくないが、おのおの十年と考えられる世代の数では同じである。
そこからは、使徒マタイの示すように、キリストの来臨までの三つの時代が経過する。おのおのは十四代であるが、第一はアブラハムからダビデまで、第二はダビデからバビロニア捕囚まで第
三はキリストの肉における来臨までで (つづく)
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