日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-02-28 22:02:28 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(401)

近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その41)

   27.罪を避けるため自殺することは許されるか

なぜそのような多くの重大な危険を愛するのだろうか。あるいは、愛するとは言わないまでも、少なくともこの世に留まることによって、

それと直面する冒険をあえてするのか、正当にこの世に別れを告げることもできるというのに。

・・・だれかに(前回はここまで)よって捕えられ、その強要の下に罪を犯すことを避けるために、自らの生命を絶つことが合法的だとすれば、

それにもかかわらず人は生き延び、そして刻々とこの世のもろもろの誘惑に抗せねばならない、と考えることなどは愚かの限りではなかろうか。

一人の主人によって蒙る恐れのある誘惑だけではなく、無数の誘惑が存在する。誘惑なくしてはこの世の生活は考えられないのである。

そうであるとすれば、わたしたちが説教にかくも多くの時間を費やし、新たに洗礼を受けた者の中に処女の貞淑ややもめの貞節、

また婚姻の節操への情熱を燃え立たせようと努める意味は、どこにあるのだろうか。もしも彼らを説得し、洗礼によって罪の赦しを受けた直後に生命を断ち、

かくして清く汚れないままで神のみもとに赴くよう教える方が、はるかに正しく・また便利ではあるまいか。

しかし、もしだれかがこのような立場が健全だと他の人を納得させようとするならば、わたしはそのような人は愚かであるだけではなく、気が狂っている (つづく)(「神の国」出村彰訳)

 


聖書研究

2017-02-28 21:56:49 | 大分中央ウィークリー

創世記24章24節である。「すると彼女は、『わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です』と答え、」という。このような状況の下でわたしたちならどうであろうか。「わたしの父はナホル、母はミルカといいい、その娘です。」と答える

のではなかろうか。役所に戸籍があるからそれでよい。しかしこれはそうではない。族長時代の特色がよく現されているということであろう。

 

どこまでも一族のつながりによって人間としての存在感を共有していた社会なのであった。「ベトエルの娘です」というだけで名を言わない。しかし僕には彼女の名は「リベカ」とわかった。すでにアブラハムには、ナホルに8人の子があり、その

末っ子ベトエルはリベカの父となったとの報告があって、よく覚えられていた(22:23)。

 

25節である。「更に続けて、『わたしどもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊まりになる場所もございます。』と言った。」という。もちろん、このリベカの答を聞くまでもなく僕はそうであろうと予測していた。リベカの言葉によって、自分自

身の考えと一致して、これこそ神の祝福であると確信した。従って、僕は感謝して、彼女「リベカ」のその言葉に従うことにした。何にもかも順調であるのに、これこそ神の仕業であることを知って畏れを覚えたに違いない。

 

アブラハムの弟ナホルとミルカの間の八人の子は、イサクの従兄弟に当るから八番目の末の従兄弟ベトエルの娘がリベカである。イサクからは、再従姉妹(はとこ)になる。そのリベカが、アブラハムの一人息子イサクの嫁に選ばれようとし

ている。近親結婚になるが、この時代ではまだ離れている方である。ちなみにアブラハムの妻サライはアブラハムから見れば、「父の娘」腹違いの妹(創20:12)あった。


牧 会 通 信

2017-02-28 21:50:30 | 大分中央ウィークリー

 ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その3)   (原 光訳 2000年、沖積舎)

◯その絶叫を聞くとわたしの師は立止まり、わたしに顔を向けて、言つた、「待つがいい、このものたちには礼儀正しくふるまってほしい。

この場所の自然が射放つ火がなければ、わたしは言ふだらう、走り出すのはこのものたちよりもそなたにふさわしいと。」

わたしらが立止まるなり、三人はまたきりのない悲鳴を発しはじめ、わたしらのところに達すると、三人で一つの輪を作つた、(前回ここまで)

◯裸身に油を塗つたレスラーが互に打ち突き傷つけ合ふ前に、相手を有利に掴む機会を狙ひながらするやうに、

そのやうにぐるぐる回りながらめいめいに顔をわたしに向けてゐたので、三人の内では頸(くび)と足が不断にぐるぐるしつづけた。

「この柔かい場所の悲惨、皮ズルズルに焼き焦がされた裸身のために、」と一人が口を切つた、「わたしらとわたしらの願ひは軽蔑されるでせうが、(つづく)

 

◯本日、2017年2月26日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「全身を献げる」と。聖書はローマ12・1~8、その1節、「兄弟たち、神の憐れみによってあ

なたがたに勧めます。自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」

と。聖なる日(日曜日)の礼拝とは、「全身を献げる」ことをいう。

 

◯写真は2月21日、大分中央教会の4人が観光した。大分県津久見市にある四浦半島の河津桜、2月上旬に開花が始まり、現在見頃

を迎え、3千7百本が咲き誇る。2005年から植栽を始めた新しい観光名所。車で約1時間半。


プロテスタントとカトリック

2017-02-23 12:43:11 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(400)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その40)

   27.罪を避けるため自殺することは許され

    るか

わたしが前に述べたように、人が自らの死を招来する方が有益に思われるただ一つの理由が残されている。(前回はここまで)

それは快楽の誘惑によるにせよ、責めさいなむ苦痛によるにせよ、自らが罪に陥るのを防止するためである。もしこれが自殺の

理由になるならば、最良の策は洗礼を受け、新生の洗いによって清められ、すべての罪の赦しを受けた直後に生命を断つこと

である、と結論せざるを得なくなるであろう。すべての過去が拭い去られたその時こそは、あらゆる将来の罪に対して予防策を講

ずる好機と言うべきである。

   もしも自殺によって合法的にこれを果たしうるとしたならば、なぜこの時にしないのか。ひとたび洗礼を受けたそのときに、なぜ

人は自殺をはばかるのか。このように解放されておりながら、なぜ生きながらえ、再びこの世のもろもろの危険に陥るのか。自ら

の生命を断つことによって、これらすべてを避けることがたやすくできるというのに。「危険を愛する者は、その中に陥るであろう」

(シラクの知恵三・二六)と記されているではないか。なぜそのような多くの重大な危険を愛するのだろうか。あるいは、愛するとは

言わないまでも、少なくともこの世に留まることによって、それと直面する冒険をあえてするのか、正当にこの世に別れを告げる

こともできるというのに。

・・・だれかに~(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-02-23 12:35:23 | 大分中央ウィークリー

創世記24章23節である。「あなたはどなたの娘さんですか、教えてください。お父様の家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでし

ょうか」と尋ねた。」という。多分カナンからの出発に際して、この僕は、主人の使いですから、主人アブラハムの親族関係をつぶさに聞いてい

たと思われる。それで「あなたはどなたの娘さんですか、教えてください。」という言い出しになったのであろう。あまりにも祈りの通りに驚きつつ、

ほぼ間違いなくアブラハムの親戚の一人であろうと予想したようである。

 

「泊めていただける場所があるでしょうか」とは、万が一、もし、間違ったときのことというより、何もかも知っているという立ち入り方を避けて、

わざと知らない部分を作って、時の旅人のように見せた言葉のように思われる。従って、一つ知らない部分を作って尋ねるのは、儀礼的な

質問であろう。そして彼女からの答を待った。

 

24節である。「すると彼女は、『わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です』と答え、」という。このような状況の下でわたしたち

ならどうであろうか。「わたしの父はナホル、母はミルカといいい、その娘です。」と答えるのではなかろうか。役所に戸籍があるからそれで

よい。しかしこれはそうではない。族長時代の特色がよく現されているということであろう。

 

どこまでも一族のつながりによって人間としての存在感を共有していた社会なのであった。「ベトエルの娘です」というだけで名を言わない。

しかし僕には彼女の名は「リベカ」とわかった。すでにアブラハムには、ナホルに8人の子があり、その末っ子ベトエルはリベカの父となった

との報告があって、よく覚えられていた(22:23)。