日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2015-11-26 16:08:13 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(337)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

以後、その年の12月には修道院はすべて閉鎖されている。改革派教会の会堂はただ説教壇と洗礼盤、聖餐台だけを残す簡素さを特色として今日まで続いている。その後オルガンを伴う讃美歌を歌う習慣は回復した。ステンドグラスもデザインは変化させたものが大聖堂に見られるが、いずれも19世紀に入ってからであるといわれる。チューリヒの福音主義への改革完了を告げるしるしは1525年3月、イースターを期してのミサの式典廃絶であるといわれる。3月12日、チューリヒにおける最後のミサ執行ののち、聖体や聖油、その他一切の聖具、(ここまで前回)ミサ典礼書は会堂から運び去られて焼却または棄却された。

その翌日、13日には最初の福音主義の立場による聖餐式が執行された。それまでは、派手な緋色の祭服を身にまとい、会衆には背を向けて、祭壇に相向い、「これはわたしの身体である」と称えたそのときにパンが聖なるキリストの体に変化し、聖体となったキリストを、罪の贖いとなった犠牲として先ず神に奉献する。それが人々の見慣れたミサの祭儀であったが、今や、質素な説教ガウンを身に着けた牧師が、会衆に向かい合って正面に立ち、聖餐台の上の木の皿に盛られた小さく四角く刻まれたパンと杯のぶどう酒とを会衆に分かち与える。それまでは会衆が受けることができたのはパンのみであった。ぶどう酒は祭司が飲み干す定めであったが、今や会衆のすべての手にぶどう酒の杯が渡される。(つづく)


聖書研究

2015-11-26 16:06:10 | 大分中央ウィークリー

創世記22章1節である。「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が『はい』と答えると、」という。アブラハムにとっては、二度と起こってはならない信仰の試練のときが始まった。このあと独り子イサクを神のために犠牲としてささげるという試練が始まろうとしている。そのための神の呼びかけであった。 

もともと、中近東には人身供養の風習があった。その社会的文化の中に後から入ってきて、その文化風習に対して、アブラハムに率いられたヘブライ人がどのようにして対決したのかということを、この物語を通して伝えようとしている。「これらのことの後で、」という。資料説によれば、この前節34節「アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した。」から文体が一転している。E典である。「これらのこと」とは、何のことであるのか不明。重大な事件があったのかも知れない。 

22章2節である。「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』という。アブラハムには大変な試練となった。異教の神々に献げる人身供養のような神からの言葉であった。神の言葉を聴かされたアブラハム、その言葉に従うべきか、従わざるか、まず、その判断に苦しんだのであろう。 

アブラハムがいかに苦しんだか、言葉の並びが暗示している。他でもない先ず「あなたの息子」という。第二は、「あなたの愛する者」、第三、「独り子」そして「イサク」であった。一つ一つによってアブラハムの胸を打ったであろう。


牧 会 通 信

2015-11-26 15:57:47 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その9)

◯だから高利貸しは別の道を歩んでゐるのだ、あらぬところに希望をかけ、自然自身に従ふ技術を軽蔑してゐるのだから。

だがもうわたしに従って進むがよい、魚座が地平線の上できらめき跳ね、大熊座はすっかり北西の上に位置し、

崖路はずつと向うで下つてゐるのだから。」(ここまで前回)

ダンテの「神曲 地獄」編 第12歌(カッコ内は筆子、その1)

◯崖を下るためにわたしらの来た所は嶮しく切立つてゐたし、さらにそこにゐたもののために、誰でもぞッとして眼をそむけずにはゐられぬほどだつた。

  激震か支えが不十分なためにトレントのこつちで、側面からアディチェ川を襲つたあの岩崩れのために(トレントの南約13キロ)、

  それが動き出した山頂から麓まで岩石ががらがらに積み重なつてゐて、上にゐるものはどうにか下つて行けさうになつてゐるが、(つづく)

 

◯2015年11月22日は、今年の第四十七主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「主をあがめ ほめたたえよ」という主題である。聖書は黙示録3章1~6節、その4節「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。」という。いかに地に落ちたと見られる教会にも主は何人かの残れる民をおかれる。教会の再建が起こされる。

 

◯写真は、11月15日の午後沖縄地区2教会を問安したときの伝道協議会、(沖縄5名、宜野湾5(宜野湾伝道所で)


プロテスタントとカトリック 

2015-11-20 17:31:52 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(336)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

  このような衝撃波の表れが、翌年1524年早々には、旧信仰に固執する者たちは市参事会員の職から追われ、チュリッヒは共同体全体としても福音主義支持の姿勢を明らかにした。同じ年の六月には聖画像が、市内のすべての教会から撤去された。中世壱千数百年にわたって、文字を解することの出来ない一般信徒のために、信仰の手引きの役割を果たしてきた聖母マリアをはじめ、諸聖人の画像、聖遺物、またそれらを主題とするステンドグラスなどはすべて姿を消した。今日的には考え難いことであるが、その当時の豪勢で派手なものとして見らながらも、ごく一般的であったオルガン演奏も禁じられた。音声での詩編歌を歌うのが主流となった。さらに諸聖人の祝祭日など何百年にも渡ってカトリックの信徒の日常生活の習慣も一切停止された。(ここまで前回)

以後、その年の12月には修道院はすべて閉鎖されている。改革派教会の会堂はただ説教壇と洗礼盤、聖餐台だけを残す簡素さを特色として今日まで続いている。その後オルガンを伴う讃美歌を歌う習慣は回復した。ステンドグラスもデザインは変化させたものが大聖堂に見られるが、いずれも19世紀に入ってからであるといわれる。

チューリヒの福音主義への改革完了を告げるしるしは1525年3月、イースターを期してのミサの式典廃絶であるといわれる。3月12日、チューリヒにおける最後のミサ執行ののち、聖体や聖油、その他一切の聖具、(つづく)


聖書研究

2015-11-20 17:30:11 | 大分中央ウィークリー

創世記21章34節である。「アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した。」という。ここの「長い間」はどれぐらいの期間であったのかは不明である。つづくイサク奉献の物語では、19節に、「アブラハムはベエル・シェバに住んだ」とあるのと、そのときのイサクは嬰児ではなく、少年であり、立派に成長した様子がうかがえるところから、それ相当に長く住んでいたことが伺える。しかしそれはあくまでも「寄留」であって、永住ではない。

 

それにしても歴史は冷酷である。アブラハムがこのとき親しくしていた「ペリシテの国」は、やがて、イスラエルのダビデに頑強に敵対して苦しめることになった。この時を紀元前18世紀とすると、ダビデの時代まで800年経過したことになる。

 

22章1節である。「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が『はい』と答えると、」という。アブラハムにとっては、二度と起こってはならない信仰の試練のときが始まった。このあと独り子イサクを神にために犠牲としてささげるという試練が始まろうとしている。そのための神の呼びかけであった。

 

もともと、中近東には人身供養の風習があった。その社会的文化の中に後から入ってきて、その文化風習に対して、アブラハムに率いられたヘブライ人がどのようにして対決したのかということを、この物語を通して伝えようとしている。「これらのことの後で、」という。資料説によれば、この前節34節「アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した。」から文体が一転している。E典である。「これらのこと」とは、何のことであるのか不明。重大な事件があったのかも知れない。(つづく)