カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

バブルというもの

2009-10-30 | エッセイ

前回blogの続き(2回目と3回目の投稿を合わせて10000文字は超えないと思いますがなぜか送ろうとすると10000文字を超えていると判定され、送れませんでした。桁が違うのではと思います。で、2回に分けています。このgooのソフトによると、この1文で7655文字だそうです。)

さて、ここからなのだが・・・問題なのは実は言葉の定義ではない。バブルが引き起こされ、はじけるとどうなるかということなのである。大多数の人は知っている。知ってはいるが自分は関係が無かったと思っているだろう。実は私もそうである。が、しかし・・・

 バブル経済がはじけると投機目的で動いていた諸機関は個人投資家も含め、売り抜けた者以外は損害を被るが、その補てんをするという段階で関わっていない者が痛む。投機をした者が損失を出し修復不能になり破産等に至ってもそれは本来、自己責任のはずである。しかし、それを行わなかった人々にまで直接的、間接的に害を及ぼす。言わずもがなのことだが、ここが問題なのである。従って損失を出し修復不能になる前の投機段階で、何らかの歯止めが必要になる。当たり前のことだが、ここの方策を真剣に考え、その道の専門家がアイデアを出しているかと言うと、はなはだ疑問に思う。もしそういったものがあるなら知りたいところである。聞いたことが無いのだ。

 経済的側面からのみ捉えている限りは、以上のような事なのだが、それだけとっても確たる方策に接したことが無い。そして、それ以外に別の側面があるのである。ここで先程、経済的閉鎖性に入りこまぬように、現代に即して言葉の意味を広げておいたことが、意味を持ってくる。その別の側面とは、もう一つ別の痛む部分があるということであって、バブル経済下、投機目的でその部分経済が動いている時、正に、その周辺の所生活が落ち着いて安心してまともに営むということができなくなる、ということなのである。このことは経済的側面からのみ語るかぎり視野には入ってこないようである。何だ、そんな事かという向きもあるだろうが当事者にとっては十分に重要なことなのである。人間だからだ。格差を、それも納得することの難しい格差を目の当たりにするからである。そもそも実体にそぐわぬ投機が、投機をするためだけに投機をするという、言ってみれば自己充足的目的だけで行われているのを見るにつけ、まともな生活を営もうという気力など容易に損なわれてしまうのだ。さもなければ、その投機の行われている部分に接触して少しでもそこからの上がりを狙おうとするだけだ。やはりそれも落ち着いて安心した、という状態とはほど遠いものとなるだろう。

 その時の人間の精神の内に生じる感情を、例えば単純に「嫉妬、妬み」の類の言葉で片付けられるほど、今の現代社会が単純でない事は、たぶん、そうなのだろう。ここの部分を経済的観点からのみ語ろうとする方々は、どう考えているのか、はなはだ疑問に思いつつ見ているのである。どうなのだろう? そういうもの、なのだろうか?

  もちろんここで私は平等主義者ではないことは申し添えておきます。

   バブルで潤っている人たちを見るのもなんだかなー・・・という一文で終わりなのだろ 
  うか。  

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バブルというもの | トップ | ホモ・モーベンス »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。