◆秋とくれば読書週間だといわれる。その秋も過ぎ去り、早、冬の師走へ移る今頃、やっとのことで1冊の本を読み終えた。1ヶ月余りもかかってしまったのである。どうしてか分からないが途中から進まなくなったのであった。よくあることである。こちらの持続性の欠如かもしれない。題名は、新田次郎の「八甲田山死の彷徨」である。昔、少し眺めた程度でそのままだったのをここへきてまじめに了読したつもりなのだが、果たして最後の方は飛び飛びの極めていい加減な不真面目な読み方となった。読む前に何となくストーリーが分かるのだった。扱っている内容は重いものだと思うのだが、なぜかそういう感じに受け取ることができなかったのはたぶん作者の新田次郎の生来の明るさかもしれない。意外な感じもするが他の作品を読んだ印象もそんなだったと思う。新田次郎は自身も山登りをしたが、暗いと先入観で思われがちな山好きの人間が根っこの所で楽観的で明るい人が多いのと関係があるかもしれない。時代背景もそうだし、遭難の物語ということもあり、深刻で暗い話しのはずなのだが、どこか健康的なものを感じるのだった。いくら暗く書こうとしても作者の性質が出てしまうようで、またそうでなければウソだとも思う。読み終えて、寒いところへはあまり行きたくないなと思うのだった。
◆パソコンやケータイを使うようになった時に感じたこと、特に新鮮であった感覚などは直ぐに慣れて忘れてしまうものだ。その中の一つに日本語入力をするときに、ずらずらと同音異義語が出てきてその中から適当な言葉を選ぶという作業がある。これは初めて見た時、ダジャレのオンパレードではないか、と思ったものだ。これは、手書きの時はないことだった。人間の頭のファジーで凄いところは、同音異義語の中から言葉を選ぶという作業を経ずして、いきなり、その一文字が出てきてそれらを書き連ねていくということができるということなのだ。パソコンをやるようになって気づくことである。驚きである。アルファベットを使う言語圏の人たちにはパソコンを使うようになって以来発生するそういった違いはないから、これは日本で引き起こされる独特の状態ということである。ズラリと並ぶ意味の無関係な言葉を一時的にでも見ることは無意識のうちに余計なことが目に入ることでもあり、集中を欠くことになるのかもしれない。
・・・今回、私は大いに集中を欠いて逆に面白かった。
「八甲田山死の彷徨」は、道に迷って大惨事になったわけだから「八甲田山死の方向」。死の彷徨も怖いが死の方向もリアルで恐ろしい。生きて帰れぬ方向へ歩を進めるわけだ。oh!・・・ などと馬鹿なことを言っていてはならぬ・・・。が、先日、六本木でも変な「方向」へ行ってしまい、さすらって「六本木死の彷徨」をし、「ここはどこだ、どうやったら三田から抜け出せるのだ!???」と、最後に「六本木死の咆哮」をした・・・というような馬鹿な話に日本語圏パソコン使用者はなってしまうのである。同じ六本木の、こちらは居酒屋での話なのだが、ことさら緊張した面持ちの若きウェイトレスがいたことがあり、どうしたの???と訊くと、まだ日が浅く緊張しているんですと言った。怒ったような顔をしていたので、こちらが客として何か気付かずにおかしなことでもしているのかと思ったのだった。勤めはじめて間もないからだったのが分かってほっとしたのだが、これが奥のカウンターでアドバイスを受けつつ客へのサービスにこれ努め、テーブルの間を迷いつつあっちへ行きこっちへ来、「六本木死の奉公」の様相を呈するのだった。
これに類することで、今年の初めの頃に行った新潟でも、ある居酒屋で「新潟死の奉公」というのが発生したのだが、これは長くなるのであまり書かない。が、これもモデルにでもなりそうな20歳前後の新潟美女だったのだが(もうあまり覚えていない)、モデルにでもなりそうなだけあってなにしろ痩せている。これがやはりカウンター内の厳しいマスターの指導であれこれしつけをされ鍛えられつつテーブルを拭いたり品物を運んだりするわけで、その場の雰囲気が体育会系のノリになってしまうのだった。その時はお客が少なく私とその娘と1対1のような格好となり、それに追い打ちをかけるようにマスターの威勢のいい大きな指導の声が店に響き渡り、そこまでしなくてもいいのに「新潟死の奉公」。モデル歩きのはずがフラフラヒョロヒョロ歩きになって畳で滑り座布団でつまづき、息が上がり顔が上気し。大丈夫か?と訊いたら、ハイと答えつつも私のテーブルへ来て休憩し息を整える始末。日本酒の徳利を傾けようとする私は、その娘をかばう側へとまわるのだった。・・・長く書いてしまった・・・。あと、放校、芳香、砲口などはどなたかにお任せします。fu~っh!!
Marisa Monte