「神の判断」は、自分の心の声を聴いて忠実に従うこと、それは同時に、理性的に、誠実に、真実に判断することなんですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p212の第2パラグラフから。
自分自身が適応することは、一面では、一連の無意識の罠と見なされるのでしょうか? マルティンは息子として、自分が心深く苦しんできたのは、ルターが宗教熱心であることを本物だと父親に認めさせることができなかったからですし、しかも、父親の言葉をずっと後生大事にしてきて、あまりにも長きにわたって、子どものように服従してきたのでした。そのマルティンが、子どもとのしての苦しみを意識的に引き受けようと、宗教のレベルにおいて、考えましたし、自分が長い間息子をやってきたことが、実はキリトスの似姿としての勝利であったのだ、分かったのでした。
ルターは、自分が苦しんだことから逃げなかったんですね。ルターは、なかなか大人になり切れずにいたことに心深く悩んでたんです。ところが、その悩んでいたことが、キリストの十字架の勝利のように、復活の意味があることに気付いて、「無駄でなかった」と感じるばかりではなく、「こんなに深い意味があったんだ」と悦び勇んだのでした。
これは、ルターの経験であると同時に、私どもみんなの経験にもできることなんですね。ですから、ルターの、この天にも昇る悦びは、私ども自身の悦びにもできるんですよ。
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