横浜27団ローバー隊

ローバー隊の現スカウトや近況とOBとの連絡所

27団の離島遠征は              吉川  純

2009-02-19 21:40:23 | 投稿
今年もベンチャースカウトの離島遠征の計画の連絡があった。
今を去ること20数年前、シニアスカウトと言われていた頃。
「個人プロジェクト」を計画し、1年間を通して活動していく
プログラムを組んでいました。
テーマは、「おいしいご飯の炊き方」このプロジェクトの
メインは、沖縄への離島遠征、底土へ志村副長率いるスカウト
数名、おいしいご飯を求めて旅立ったのがその始まりです。
沖縄は遠く、費用もかさむので次の離島遠征からは、伊豆七島
になり、ほぼ毎年新人歓迎キャンプを兼ねて実施されています。
今年は、八丈島です。

訃報 椎名 透さん                   吉川  純

2008-12-26 22:52:41 | 投稿
 伝説の上級班長、椎名透さんが、去る11月8日に脳溢血で亡くなられていたことが、弟の朗さんから、目崎さんに連絡が入った。私は、中上さんから連絡を受け取った。頭の中が真っ白になった。スカウトの気持ちを理解しながら、厳しく後輩を鍛える。うらやましい才能の持ち主だった。27団の上班は、彼の右に出るものはいない!
 いつも明るく、情にもろく、27団を代表するスカウトの一人だ。雨に濡れ、ひん曲がり、日焼けして薄茶になったスカウトハットで、目に涙をため火起こしをする姿が目に浮かぶ。早すぎる死を悼む。    +

最後のブログ 小山

2008-09-24 22:48:47 | 投稿

10月から新しい次年度の活動が始まります。私はローバー隊の隊長を退き団委員として活動することになりました。今後はBV隊担当としてお手伝いすることになります。これまでRS隊のスカウトたちに与えるものはなかったかと反省する一方、個人的なことを言うと私にとっては本当にたくさんの経験をしました。

 まず、団の有名人である吉川副長を知ったことだ。寡黙な人柄の中には、何時も揺ぎ無い、しっかりとしたスカウト精神を持っている。謙虚な姿勢で若者に接し、弱音を吐かない精神と体力を携えている。27団の長い歴史の中で静かに歩んできた立派なスカウトだと確信している。

 さて私はというと、45歳を過ぎてからRS隊を経験したが、ダイビングのライセンスを取得し、シュノケーリングによる海の楽しさを知った。ディンギー(一人乗りヨット)をなんとか操縦することができたし、大島や千葉の鴨川までヨットで行った。おまけにマストが折れる最悪事故も体験した。海外で一日中のラフティングも体験した。

またサイクリングの楽しさを満喫した。コンスタントに自宅から1時間で茅ヶ崎駅前、もう1時間で小田原駅までいける術を知った。そして箱根マラソンコースを経て箱根の里まで2回走破することができた。昨年は途中御殿場から川口湖までバスで経由しながら本栖湖まで走破した。オーバーナイトハイクでは観音崎や高尾山コースにも参加した。離島遠征も楽しい思い出になった。

 一方、健康も害した。骨折3回。両眼網膜はく離。尿管結石による七転八倒の苦痛を伴った緊急一晩入院も経験した。

 私にとってRS隊は青年に還る、思いがけない時代だったと振り返る。さあ、今後は、、、どんな時代になるだろうか?この文章で私のブログを終えるとします。


渋沢龍彦展

2008-05-05 23:00:32 | 投稿

今日は、神奈川近代文学館で開催されている渋沢龍彦展に行ってきた。(6月8日まで)

実は4月29日にも行ったのだが、今日は午後2時から人形職人の‘四谷シモン’氏の講演があったので再び行ってきた。あまりの人気で別室でモニターによる講演を受けた

昔からいろいろな文化人の本や言葉から渋沢龍彦を耳にしていた。実を言うと高校1年時の11月25日三島由紀夫の自決によって初めて本を手に取った。

マルキド・サドを日本に紹介したフランス翻訳家であり、晩年は小説家でもあり、サド侯爵婦人裁判で有名になった人でもある。

今日の四谷シモン氏は講演の中で「渋澤さんは、急に私のことを‘君は雲だ!’と言い出す変な人」とも語っていたが、私は渋沢龍彦の莫大なフランス語の翻訳本の多さにびっくり。予想通り、日本人という範疇に入らぬ好奇心旺盛な自由人だった。今後もこの人の残した文献(全集)に目を通したい。

 


モリディアーニ展

2008-05-05 22:09:28 | 投稿

4日モリディアーニ展(国立新美術館)へ行って来た。

前回は、モネの筆タッチの技法に感動した。「睡蓮」や「日傘の女」を見たい一心で出かけたのだが、現地では特に「かささぎ」という雪景色に言葉がなかった。あざやかな雪景色のキャンバスに対してまじかに寄るとたくさんの色のドットが塗りつぶされていた。色を混ぜることで色がくすんで暗くなることを防ぐためにモネは、まるで山下清の貼り絵のように色を細かく重ねていったのだ。

今回は、首を長くした人物像で有名なモリディアーニだ。自宅の美術集を勉強していったので、有名な作品のことや若くして(35歳)人生を終えた画家であることを理解して行ったつもりだった。が、特に人物画の作品では、思った以上に背景の暗さにより、浮かび上がった首や頭部の鮮やかな明るさに感動した。モデルの内面を表現しようとしたモリディアーニの感性の鋭さに感銘を受けた。 

6月9日まで開催されている。東横線で中目黒で乗り換え、日比谷線六本木駅下車。


宇宙のことを調べたから話すよ         小山

2008-03-14 01:18:12 | 投稿

太陽系9番目となる未知の惑星が海王星の外側に存在する可能性が高いことを、神戸大のパトリック・S・リカフィカ研究員と向井正教授が、詳細な理論計算で世界で初めて突き止めた。 

そこでみんなは天文学の歴史を知っているだろうか?今夜は私の好きな天文史を話そう。                                             1600年代に初めてコペルニクスが天動説を唱えた。それまでは地動説だったのを。みんなはこの地動説って理解しているのだろうか?地球は動かないで地球の周りを太陽や惑星が回っているのだという理論だが、ギリシャやローマ時代から1600年になるまで、ずっと地球の外側にまん丸く、水、金、太陽、火、木、土、天王星、海王星、冥王星と並んでいるんだと考えられていただね。                    それを天体望遠鏡をも使わないで理論的にコペルニクスが天動説を唱えるのだから誰も信じないよね。彼は嘲笑の的になるのが嫌だったから‘天体の回転について’という本を亡くなる時に出版するように命令したらしい。彼がその本を目にしたのは死ぬそのときだったと言う。 

ちょうどその頃に生まれてきた赤ん坊がケプラーだった。有名な惑星運動ケプラーの法則の彼だ。惑星の並び方は楕円系であって、しかも惑星は太陽に近づくときのほうが離れてゆくときよりも速く進む事を発見する。太陽からの平均距離が短い惑星ほど軌道を速く移動することを突き止めるのだ。彼は敬虔なカトリック教徒だったから古代からのの地動説をねじまげることにかなりの抵抗があったといわれる。でも斬新な理論を証明したみせたのだ。彼は自分の唱える本について「私は本を書く。後世に読まれようがかまわない。読まれるまでに100年かかってもいい」と言ったそうだ。 

そこへ超有名なガリレオというコンパスを発明した数学者が出現する。彼は天体望遠鏡を持ってして‘星界の報告’という本に新しい恒星をいままでの10倍も発見し、しかも月の表面が地球と同じく陥没や隆起していることを唱えたのだ。         実は、それまでのコペルニクスやケプラーは、皮肉な事にメジャーな人間ではなかったために彼らの主張は、公にはされなかったのだ。                  が、一方のガリレオは敵対する人たちを「人間という名に値しない輩」だと決め付けたものだから教会や神学者の皆は彼に警告を与えるのだ。ところがこの警告の発した約20年後に‘天文対話’という3人の天文学に対する対話集を出版する。         3人の一人はガリレオ風で、二人目は専門家ではないが教養豊かな紳士、最後は信心深いが頭の悪い男だった。                                この本が出版されると、これまでの宇宙観を否定され、しかも公の場で罵倒されたことにカトリックの裁判所は激怒して、ついには有罪としてこの本は発禁となる。彼はフィレンチェの自宅で軟禁生活を送る。最後には視力さえ失ってしまう。  

さあそれから後に、どういう力で惑星や恒星が宙にうかんでいるのだろうかという疑問に答えをだしたのがアイザックニュートンだった。 ニュートンがすごいのは、23歳の大学生の頃にペストが流行ったために自宅へ帰省したたった一年半の間に新しい微積分法を発見し引力の計算式の基礎を見つけるのだ。

残念ながらすでに亡くなったが、とてもわかりやすい解説で出版物も超売れ子だったカールセーガンは、後に‘地球はつまらない惑星’と評するのだね。古代からずっと地球を中心に宇宙があると信じられてきたが、結果人間の数よりはるかに多くの銀河が散らばる宇宙の中の忘れられたような片隅に横たわる銀河に紛れ、太陽という‘平凡な恒星のまわりをめぐって’いるのだというのだね。

最後にヨーロッパでは17世紀にこれらの天文学理論が世の中の天と地をひっくりかえすほどの騒動になったのだが、日本は、古代から天照大神という天を中心に考えられてきたものだから、この太陽中心説はすんなりと受け入れられたのだ。

人は宇宙の中心でもなんでもなかったとわかっても悲しみを感じなかった。      むしろ詩人たちはこの発見を歓迎した。

最後にニュートンの墓碑銘として有名な詩(アレグザンダーポープ)を紹介します。

自然と自然の法則は闇に隠れていた

神が言われた‘ニュートンあれ’と 

すると  

すべてが光に照らされた                            


感性を磨くには好奇心から?                   小山

2008-03-13 22:38:29 | 投稿

12日の朝刊にノーベル賞期待の2氏と題して、一人は、神奈川科学技術アカデミー理事長の藤嶋昭(ふじしまあきら)氏が語っていた。藤島さんといえば環境の浄化技術の先駆者であり、光を当てると臭いや汚れが消えるという光触媒現象を見つけた方だ。

 この記事での藤島さんのエピソード。東大の赤門から入って自分の教室に行くまで、ずーと咲いているツツジが不思議でしょうがない。と、いうのもツツジの真ん中のところには例外なく赤い点々があるんです。10年以上も見てきてなんでだろうと思っていたらある時‘あれはミツバチが来てとまるための標識だ’と教えてもらったのです。ミツバチがとまるとちょうど受粉できる場所になってるっていうのです。エーッそうだったんだなあ。ツツジ一本でもそんな不思議があったんだ。 

私は、こんな話を聞くと、学者も作家も詩や歌の作詞家もそして芸術家も皆、驚くほどの観察の五感が鋭いんだなあと感心する。我々凡人も少しは見習って、まずは何にでも興味を持とうと言いきかせたい。


学園紛争って?               小山

2008-03-13 22:10:50 | 投稿

今度の日曜日、テアトル新宿で若松孝司監督の‘実録連合赤軍’の映画を観る予定だ。昔からこの人は、赤軍内部を知る人物として有名な人だったから、暴走した彼らをどうやって描き出すのか、とても興味がある。

 60年安保で全国の大学が揺れに揺れて、日米安全保障条約が、結局締結をみると急速に学生たちは静まり返った。ところが、いろんな場所でくすぶっていたのだ。  たとえば大阪では68年~69年には大阪府立高校で学校封鎖があった。私の知り合いの先生の母校で、府高連(ふこうれん)と名乗っていたのだが、一般市民からは‘親不幸連’と呼ばれたそうだ。

 さて私は九州の田舎の高校出だが、この火花が私の高校にも来たのです。   70年の私の高校入学式の日は、とんでもない一日だった。正門から壁まで赤ペンキや黒スプレーで落書きされ、入学式も大騒動の中、(在校生のアジ演説によって式の進行が妨害された)時間も短縮されてやっと終了する。                入学後は毎回大荒れの生徒集会。遠足、運動会、生徒会すべてがボイコットされて中止。時には偽の投票用紙をつかまされての生徒会選挙無効投票事件と次から次へと騒動の発生。そして勉強するでも部活するでもなく早々と帰宅する生徒たちが裏門わきで紛争運動に入れようとする上級生徒らとのいざこざ。

 運悪く2年次に生徒会議長になった私は、彼ら運動家のかっこうの標的にされた。(当時、生徒会は議長副議長のたった二人だけだった)毎日帰宅途中で彼らに襲われ詰めより議長辞退から生徒会開催ボイコットへの要求へと吊るし上げられた。  

 有名な浅間山荘事件の中継中、授業中でありながら私は一人職員室に呼ばれ、生徒指導の先生らに今後のことで議論というか、時にはテレビの画面を指差し‘我々教師は彼らをこんな事件を起こす卑劣な人間にしたくないんだ!議長の君は絶対に学校側に付くべきなんだ!’と説得工作にかかる。窓からみえる向かいの校舎の踊り場でズラリ紛争に夢中な上級生たちが私の方をにらめつけている状況を一人、体を硬直させながらおどおどしていた自分の姿を思い出す。これらの経験がおよそ35年以上の人生の思い出場面のワースト1で宿る後日談となるのだ。 

皮肉なことにあの上級生らの内、過激だった3人が、ここ横浜国立大学に入学した。田舎の母校創立始まって以来の珍事だった。それもそうだろう、なんで九州から横浜国立大学めざすの?わずかの学園紛争の火の粉みたいなものに触れたかったのだろうか? 昨年、東京での高校同窓会にこの3人は医者や弁護士になっていると聞いた。3人とも国大を中退して他大へ行ったらしい。 今振り返ると、彼らの言わんとする中には合点がいくところもあったと思うが、結局、当時を振り返って大きな問題にならなくて良かったと教師らが語るところをみるにつけて‘おらが町の小さなできごとだった’と回想するほどで良かったと感じる。 

若さというのは、それだけで想像絶するほどのパワーの源になることが多い。でもそのパワーは、おおむねあまりにも無謀な衝動と強引なティーラー(舵取り)によって自分の希望するスピードや方向にコントロールできないことが多い。自分だけが夢想家になって言葉だけが走り、頭でっかちとなっていく嫌いがある。やはり誰か一人でも大人の意見を取り混ぜることが必要だと思う。 何でも相談できる他人の大人を持つべきだ。そういう点でBS活動でのコミュニケーションは誰も持たない特権だと思う。


神奈川県の日本史必修               小山

2008-03-08 12:10:32 | 投稿

神奈川県高校指導の中で日本史を必修とすると報道された。今の世情を考えると若者が自国のことを知らな過ぎると言われるが、我々の高校時代から同じ風潮があった。すでに30年以上もたっている。かたや英会話の教育は無。日本語教育も無。今度は社会?                                                私の持論は、基本は国語だと思う。英語を話せないで、欧米ですばらしい日本人と言われている有名人は数限りないほどいる。過去に新渡戸稲造も内村鑑三も、そして日野原先生も、皆はじめは英語でのコミュニケーションをとれなかった。がやがて一言二言話せるようになってから急速に親交は深まった。なぜ?彼らが基本的に深く国語を知っていて自論を駆使してかれらに日本を伝えようとする能力があったからだろう。それに欧米人が感動したからに他ならない。それはそうだ。英語が話せても今の欧米人から‘三島由紀夫は知っているか?金閣寺を読んでどう思ったか?多神教の仏教をどう感じるか?’などと質問されて答えられるだろうか?会話の手段が糸電話であろう、インターネットであろう、手紙であろうとも結局会話の中身であって手段ではない。

さてそこで日本史だ。日本史は日本語や日本のことを学ぶ上で歴史である。信長が戦っているときがあったのだと説明してもそれが世界のどんな時代に位置するかをしならなければ信長研究で終わる。                             年号暗記しても、信長が(信長秀吉家康の年齢差はちょうどうちのダンゴ3兄弟や高橋家のダンゴ3兄弟のような年齢差だよね。)、戦った時代にスペインではフェリペ王がいて(フィリピンという国名の由来)今映画で話題のエリザベートがいて、イギリスがスペイン艦隊を破ったからこそ世界におけるスペインからイギリスへと時代が変わって行く。                                            ルターなどの宗教改革が起きたからカトリック教会のあせりからザビエルなどを東方へ派遣させた。あれがプロテスタント教が日本に上陸していたなら、きっと大きな歴史感が変わったのでは?などと世界の中の日本を知る事が世界の人々と対等に話ができるだと知る。

NHK出版のジェイムズ C.デイヴィス著 ‘人間ものがたり’や中央公論新書から出版されている‘マコニールの世界史’は、全国の高校にも置いてほしいすばらしい世界史だ。欧米人が書いた世界史には、日本の記述が本当に微々たるものだが、欧米人が捉える世界史から見た日本史という研究をもっともっとやってほしい。地理分類や時代分類ではなく、もっと項目をほりさげて宗教という項目だけの世界史日本史の研究とか、切り口が変わればすばらしいものがみえてくるだろう。

いいくにって1192年だっけなんて学問が何になるのだろうか?と万人hが考えてる。

 


コメントに注意!              小山

2008-03-08 10:39:53 | 投稿

最近、このブログにも友人のブログにもいかがわしいコメントが侵入してきている。メールもしかりである。さまざまな方面から侵入してくる不審者に対しては、厳重な警戒が必要である事は言うまでもない。

過去のベストセラーでありながら現代でも売れているだろう土井健郎の「甘えの構造」では、赤ん坊の時から守られている日本人の姿そのものが甘えそのものと教示した。我々は再認識したもののの、何を比較しても欧米人とは異なる狭い世界を作っている日本社会は現代も変わらない。交通の往来を遮断する島国であったらそれも良かったろうに、インターネットの世界は島国が何の防御理由にはならないのだ。被害にあって初めて理解することかもしれないが各自未然に防いでほしいものだという啓発も甘えにすぎない。

私の場合、高校出てから一人で生活してきたものだから、当然一人で取捨選択してきた。そのメリットは、こうして一人で業を起こすパワーとして成果をもたらしたと理解するが、それにしても例をあげればきりがないほど莫大な社会勉強に伴う無駄なお金を払ってきた。

アパートの不動産との見解の相違から、また今の職場に移転するときの不動産屋の強引な取引によって意味のないお金をその都度、何十万円も払った。現在の自宅の名義に関しての勘違いから書類書き換えに何十万円も払った。大学卒業前の国家試験勉強中に起きた石油ストーブ不燃焼騒動でススで汚れた部屋のクリーニングで敷金オーバーした清掃費用を10万円ほど払った。お金のない若い時代から無駄な生命保険の掛け金もおおいに払った。私が死んでも誰も損しない時代から自分に死亡保険金をかけるほど無駄なものはない。

これら以外の社会勉強もおおいに払ったが、個人的な馬鹿さも手伝ってこの方面については黙秘とする。今の若い人に多くの社会勉強での損失について伝えたいとも考えるが、聞く耳をもっているかどうかはわからない。そのうち損して勉強するしかないものかとも感じる。それが身から出た生きた勉強なのだから。