例年の団行事である左近山団地祭のお手伝いを募集しています。
8月18日土曜日;左近山第1小学校のグランドに集合してください
例年第2小学校でしたが、今年は第1小学校で開催されるそうです。
なお、小山隊長は、前日の金曜日の設営に行きます。
例年の団行事である左近山団地祭のお手伝いを募集しています。
8月18日土曜日;左近山第1小学校のグランドに集合してください
例年第2小学校でしたが、今年は第1小学校で開催されるそうです。
なお、小山隊長は、前日の金曜日の設営に行きます。
自分を変えたい!と思うときがある。
若い頃に友人や周囲の批判や意見で落ち込んだとき、また怠惰な毎日の自分に幻滅を感じたときなんか、とことん自己嫌悪に陥り、剣菱(けんびし)の一升瓶を傾けてちびちび飲みながら、黙々と読書に没頭して小説の中に自分を無理やり押し込んで異次元の世界を楽しんで、我を忘れようとした。
ところが、「絶望とは死にいたる病である。自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。それは死を死ぬことである。」というキルケゴールの言葉を知って、ますます絶望したことがある。
でも今度は、ニーチェの本の中で、「中途半端な謙遜や同情で自分をごまかさないで、一度絶望したほうがいい 」とかいてあるのを見つけ絶望は良い事なんだと理解した。
さらにサルトルの「自分を知るってできるの?誰だって自分の背中を自分でみることなんかできないじゃないか?」という本来の意味ではないが、勝手に自分なりに解釈して納得したものだ。
今じゃあ頑固親父に化してしまったが、今でもあのころの弱い自分にももどりたいと思うことがある。若いってすばらしいから。 小山
育成会費、登録費未納の未納スカウトへ
過去に未納のまま退団したスカウトがいたが、これほど恥ずかしいものはない。ちかいとおきてを自ら破ったものと判断している。
未納のスカウトへ:必ず振り込むように!
新しい27団野外帽が完成しました。
富田団員の熱意深い交渉により、リーズナブルな価格で新調できました。RS隊の諸君には1500円で提供できます。
残念ながら今年の団キャンプに参加できなかったスカウトたちもこの帽子で団結しましょう。そしてもう一度スカウト活動のしめくくりを情熱をもって明確にしましょう。
最近テレビなどで、よく女性の芸能人が自分を指して「僕」って使っているのを耳にする。もちろん、「僕」っていう言い方だけでなく、男の乱暴な言い方をまねていう女性もいるが。いつごろから女性も「僕」って言い始めたのかな?【英語では男女問はず「I」と言うが、もちろん日本語では使い分けている。ただ英語でも就学前の子供は、自分のことを日本語で「~ちゃん」にあたる「dear」を使っているらしいが。】
そういえば昔、大学の工学部の中に行くと女子学生も「僕」って使ってたことを思い出す。そう考えると日本語を話す上で大切なのは男や女ではなく内部の話なのか公的な話なのかもしれない。もちろん「私」は、そんじょそこらの女の子ではないのよという自他を区別する断定的な言い方として、また否定的な言い方として「僕」って使うのかもしれない。
うちには女房以外に女の子がいないんで、今の女の子の使っている言葉の感覚に触れることができないが、今の女の子のたくましさを体格や体力、そして運動能力だけでなく言葉においても認めなくてはいけないのかもしれない。
そうこういろいろ考えていたら、そういえば私の母親の親戚のおばさんも時々、自分のことを「わしら」と男口調で話す場面に出くわしたこともあったな。一瞬なんじゃこりゃ?とも思ったが、そのたくましいこと。苦労したあかしかなとも感じたが。与謝野晶子の「君しにたもうなかれ」の大胆な文章とメッセージを知って驚き、さらにそれが戦時中に作られたことを理解した時に感じた「僕」を思い出した。
もっともっと女性はたくましくなれ!男もたくましく鍛えよう! 小山
君は本当に若いといえるだろうか?若さを発揮しているのだろうか?老いることと若さとどう違うんだろう?運動量?仕事量?
ユダヤ系のアメリカ人であり金物屋を営みながら、敬虔な教徒で社会事業にも熱心な人だったサムエル ウルマンが80歳の誕生日を祝って49篇の詩集を出した。その中で世界中に知れ渡った一遍の詩が「青春とは、心の若さである。」であった。1924年に彼が亡くなった後に日本では正式に1986年に出版された。松下幸之助が各地の工場の石碑にこのタイトルに似た文を紹介してる。
青春とは人生のある期間ではなく 心の持ち方を言う。薔薇の面差し(おもざし)、紅の唇、しなやかな手足せはなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さを言う。
青春とは臆病さを退ける勇気。安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。ときには二十歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時初めて老いる。歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。苦悩、恐怖、失望により気力は地に這い精神は芥になる。
60歳であろうと16歳であろうと人に胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、人生への興味の歓喜がある。人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、20歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして已む。
先日、朝日新聞の記事の中で‘心はどこにあるか?’というテーマでダンゴ虫の実験が取り上げられていた。
縦に長い通路の上に何個か突起物を並べていると、ダンゴ虫はその突起物に当たると右、右の次は左、左の次は右と順番によけながら歩いてゆく。突起物が嫌いだそうだ。次に通路の両サイドに水を張ると、ダンゴ虫にとって大嫌いな水を避けるために嫌いな突起物の上にすら登ろうとする異常行動をとるのだそうだ。
通常ではありえない行動を緊急事態と悟ったのか、パニック症候群に陥っているのか、とんでもない行動を伴うのだ。 一方、ダンゴ虫の体には脳がない。 7つの胸部神経節があるのだが、体のバランスをとるだけの機能しかない。脳のないダンゴ虫が恐怖のあまり異常行動をとるのは何だろうか?脳がないのに心があるのだろうか?という疑問が残る、というよう記事だった。
どうなんだろうか? どの生物だって解剖学的根拠や機能構造的根拠では解釈できないものを無限に持っているものだと思う。ましてやテーマを生死にかかわる異常行動に絞れば、もっと身近の生物も信じられないような行動をとるのは必至であろう。 人間は人間を中心に見過ぎだと思う。これを私は主観的とか客観的とか言う言い方に似て‘人観的’と言いたい。われわれ人間だって、まったく解明されていない。
任天堂DSの‘脳トレーニング’を開発した川島東北大教授がいはく 「前頭前野が発達している動物が人間だけ」とか。 犬や猫たちは‘悔いてくやしがっても自殺はしない!自殺を考える脳がないだけ’ 今度生まれ変わっても人間が良い?それとも?
知り合いのパニック症候群の方を代返して言いたい。もうこんな実験やめてくれえ!答えは無限だし、実験繰り返しても人間は人間だと思う。 小山
RS隊では、何回も話している本ですが、
私が座右の書としている本は、ご承知のように私の高校時代に読んだ内村鑑三の「後世への最大遺物」であります。(岩波文庫で昔は150円だったけど。今は400円以上する。ブックオフにもないね。)
彼は「われわれの後に残す子孫への遺産って何だろうか?大きな施設を残したお金だろうか?芸術だろうか?すばらしいものを残したエジソン?仕事?」とかいう疑問を出しながらわれわれに質問を求めてゆく?
その中で感動したのは、ひとつには「フランス革命史」の著者であるトーマスカーライルの話であります。
彼はこの革命史を何十年もかかって書き上げたある日、その原稿を友人に渡したら、友人の身内が誤って?燃してしまった?何十年もかかって書いたのに?コピーのない時代?訴訟?原稿の文は?? しかしながら彼は、また再び何十年もかかってこのフランス革命史をかきあげたのであります。彼曰く「私はまだまだ愚かだ。この革命史は役に立たない。何度でも書き直そう!」と自分に言い聞かせて。
へこたれない精神って、やっぱ一番すばらしい! 小山