容子の部屋

日記を思いつくままに綴っていきます。

母の日・・・

2007年05月13日 12時47分29秒 | その他



             お母さんに贈る感謝の花束

今日は母の日です・・しかし私の場合はすでに母は天国に行ってしまいました。しかし、世の中には母の日を避けている人も多くいる事がこの記事は私に教えてくれました。
これは中国の話で、しかも捨て子として成長した青年の実話です・・・


この記事によると・・・・ 「僕は小さいときから、母の日を迎えるのが嫌でした。j何故なら、生まれて間もなく母親に捨てられたからだ・・・」とあります・・・

 そしてこの少年は、母の日が来るたびに、嫌な気持ちになったそうです・・・それは母の日が近づくと、テレビもラジオもすべて、母の愛情をたたえる歌ばかりだから・・しかもクッキーのコマーシャルまでも母の日にちなんだ歌で、その少年はこれらの歌はとても耐えられないものだったそうです・・・

 この少年は、生まれて1ヶ月過ぎに、新竹駅で発見され、駅のそばの交番の叔父さんたちが、僕にミルクを与えようとしたが、泣き止まなかったと後で聞きました。

そのうち、赤ちゃんの世話に手馴れた婦人を見つけてきて、彼女がくれたオッパイでお腹いっぱいになってすやすや眠りにつくと、交番の叔父さんたちは、僕を新竹県寶山郷の徳蘭センターへ連れて行き、いつもニコニコしているカトリック教の修道女たちに引き渡したそうです・・・

だから・・・僕は母に会ったことがない・・・・

幼いときからずっと修道女たちに育てられたことしか知らない。夜になると、センターの他のお兄さんやお姉さんたちは勉強の時間に入るから、何もすることのない僕は、修道女たちの夜の勉強会にくっ付いていた。祭壇の下へ潜り込んだり、お祈りをしている修道女たちに向かっておどけた顔をしたりして遊ん出ました・・

時々修道女に寄り添って寝てしまうこともありました。心優しい修道女はミサが終わっていないのに、僕を抱えて部屋へ連れて帰ってくれました・・・

 僕らはみんな、家庭の事情からここにいるのだが、多くの子供はお正月や祭日になれば、親戚や親兄弟が迎えに来てくれるのですが・・・しかし、僕だけは、自分の家がどこなのかも知りませんでした。

 そのため、修道女たちは、僕みたいな本当の家無き子に特に良くしてくれ、他の子供たちが僕らをいじめることは決して許しませんでした。僕は小さいときからまあまあ勉強ができたので、修道女たちは、僕にもっと勉強させようと、たくさんのボランティア家庭教師を見つけてくれました。

 
 僕に物理と化学を教えてくれた先生は当時、博士課程の大学院生で、今は助教授になっています・・・英語を教えてくれた先生は、そのときすでに教授でした。僕が小さいときから英語がよくできたのは、その先生のおかげです・・・

 修道女たちは僕にピアノも習わせました。僕は小学校4年生のとき、すでに教会のエレクトーン奏者で、ミサでは僕が演奏を担当しました。

 僕はピアノが好きですが・・・永遠のタブーが一つありました。それは、母の日にちなんだ歌は弾かないという事・・・・誰かにむりやり弾かされないかぎり、自分から進んで弾くことは決してありません・・

 僕は時に、自分の母親は誰だろうと考えることがありました・・・小説を読むようになってからは、私生児ではないかと思うようになり、父親は乱れた生活をしており、若い母親は僕を捨てざるを得なかったのだとかっての想像したりしました・・・

 幸い、僕はおそらく、素質はそこそこあったと思います・・・加えて、熱心なボランティア家庭教師たちの教えもあって、新竹省立中学・高校に順調に受かり、大学も国立成功大学の土木学科に入学できました。

 ある日、孫さんが真面目な顔をして、僕に話があると言いながら、引き出しから封筒を取り出して、中身を見るようにと言い、 封筒の中には2枚の切符が入っていました・・・

交番のおじさんが僕を連れて来たとき、僕の服の間にこの2枚の切符が挟んであったそうです・・・母は、この切符で自分の住んでいるところから新竹駅までやって来たに違いないと思いました。

 孫さんの話では、彼女たちは捨て子の過去の身の上を調べるのはあまり気が進まないので、僕が大きくなってからにしようということで、その2枚の切符をずっと保管しておいてくれたそうだ。

そして、僕が理性的で、この件をきちんと処理することができるようになったと判断したので、今日話してくれたということでした。

 僕はずっと両親に会いたいと思っていましたが・・・でも、いざこの2枚の切符を手にしてしまうと・・・僕は今、順調に平和に暮らしており、大卒の学歴も持っている。結婚を考えている彼女さえいるのに・・・、なぜ過去に戻ろうとするのか?まったく知らない過去を探しにいく必要なんてあるのか?とも思いました・・・

 孫さんは僕を行かせようとしている。僕にはすでに明るい将来があるのだから、自分の生い立ちの謎で心の片隅にいつまでも暗い影を残しておく必要はないと考えました・・・しかし 僕は思い切って出かけていました。

 僕は、派出所と町役場を行ったり来たりして、ようやく僕と関係がありそうな資料を二つ手に入れました。修道女たちの記録によると、僕が新竹駅で発見された当時、ちょうど1ヶ月あまりだったということで、手元にある資料は恐らく僕の出生資料だろうと思います・・・

ただ、問題は、僕の両親は共に亡くなっているのだそうです。僕には兄がそうですが・・その兄も早くにこの町を離れてしまい、行方がわからないそうです。

 だが、小さい町だから、みんな互いに顔見知りです。

先生が言うには、僕の母はとても優しい人で、確かにずっと学校で働いていた。ところが、父のほうはとても怠け者で、町のほかの男たちがみな都市へ出稼ぎに行くのに、父だけ出稼ぎに行こうとせず、町でアルバイトをしていた。

とは言っても、小さな町なのでアルバイトもろくになく、結局、母の給仕の収入で生計を立てていたという。父は仕事をしないから、しょっちゅう心のバランスが取れず、酒を飲んでは憂さを晴らしており、酔っ払うと、母と兄に暴力を振るったりするような人だったそのです。


 校長先生は僕にいろいろなことを尋ね、僕が北部の孤児院で育てられたことを知ると、先生は興奮気味にクローゼットから大きい封筒を取り出してきて、僕に渡しました。その封筒は母が亡くなったとき、枕元に置いてあったものだそうです。

 僕は震える手でその封筒を開けてみると、中には切符がいっぱい入っていました。この南部の小さな町から新竹県寶山郷までの往復の切符が、一往復ずつセットにして、全部綺麗に保存されておりました。

母は晩年に仏教を信仰するようになったそうで、母が一番誇りに思っていたことは、お金持ちの仏教信者たちにお願いして、百万元(約320万円)を寄付してもらい、それをカトリック教が営んでいる孤児院へ寄付したことだそうです・・・しかも寄付金を渡す当日、母も一緒にその孤児院に行き、それは、南部から仏教を信仰する一群の善男善女が大型バスで孤児院に来たことがあり・・・彼らはそのとき、百万元の小切手を徳蘭センターに寄付してくれました・・・

修道女たちは感激の余り、子供たちを集めて、彼らと写真を撮った。バスケットボールで遊んでいた僕も、そこに引っ張られて行き、しぶしぶ一緒に写真を撮ったのを覚えています・・・

なんと、そのときの写真も封筒の中に入っていたのだ。僕は校長先生に、どの人が母か教えてもらいました。母は僕のすぐそばにいたのです・・・

 また、大学の卒業記念アルバムの中のある1ページのコピーも封筒の中にあり、それにはもっと感動しました・・・それは、卒業時にクラス全員で角帽をかぶって撮った写真で、僕もその中におります。 母は僕を捨てたにもかかわらず、ずっと僕に会いに来てくれていた事を知りました。ひょっとしたら、大学の卒業式にも来てくれていたのかも知れません・・・

校長先生は他の先生たちを呼んで来て、国立大学を卒業できたなんてすごいことだ、と僕のことを喜んでくれました。

僕はエレクトーンの蓋を開け、窓の外の冬の夕日に向かって、母の日の歌を一曲一曲弾き続けました・・僕は孤児院で育てられたけど、孤児ではない。僕には心優しい教養のある修道女たちがいて、母親のように僕を育ててくれました。

僕にとって、今日が母の日だ。切符がいっぱい詰まった封筒が、母の日を恐れる僕の心を癒してくれました・・・

これは中国のある孤児の話ですが、日本にも両親がいてもその愛情を実感できずに育った人もおると思います。でもこの孤児のようにきっと親は心の中ではわが子の行く末を見つめているのこもしれません・・・

(大紀元時報記事引用)

 

               花キューピット★母の日ギフト5/11迄

                                     容子の部屋別室もご贔屓の程を
                                                              ネパールに井戸完成・・大垣高校の善意

        


中小企業飛躍の軌跡・・・

2007年05月13日 06時58分52秒 | 社会・問題国内・海外の問題

 

今日本で注目の的になっている小さな印刷会社が福井県にあります。私もこの記事を読むまではまるで知りませんでした・・ 

 その会社に今多くの、日本を代表する電機メーカーや自動車メーカーが注目しているそうです・・

また、大手メーカーから次々と開発案件が持ち込まれても、新規に人材採用をしても工場を増設しても対応が間に合わず、てんてこ舞いの状態が続いているとの事で羨ましい業績を上げているようです・・・

その会社は、福井県にあり、ここでは複雑な曲面に精密な印刷ができる技術を開発した「秀峰」だそうです・・・会社で、現在では「顧客対応で精いっぱい。メディアになんて会う時間はないよ」と言う村岡貢治社長に、ご無理をいって聞いた所によると・・・ 秀峰に今、最も熱い視線を向けているのが携帯電話機メーカーだとの事です・・

現在日本の携帯電話機は、電子マネーの機能を持った「お財布携帯」とかテレビ放送が受信できる「ワンセグ携帯」など、次から次へと新しい機能が追加される一方で、どんどんスリム化され、 加えて、形やデザインが良くなければ売れないそうで・・・ 秀峰の曲面印刷技術を使うと、デザインの自由度が多彩になり・・・若い女性が好む丸みのある携帯電話機でも複雑な図柄や写真でもプリントできるそうです。

しかも、電池の着脱をするための裏蓋部分との間も印刷ズレは全くないとの事です・・・

また、海外メーカーが 「どこで聞きつけてきたのか・・・「印刷機械を丸ごと売ってくれと・・50億円で買いましょうって、加えて毎年6000万円ずつロイヤルティーを払うと言うんです」

 「村岡社長が、海外メーカーに売らなかったのは日本の携帯電話機メーカーには幸いだったと思います。

 実は秀峰の印刷技術は、デザインだけではなく携帯電話機の小型化にも大きく貢献しようとしているのだそうです・・・秀峰では印刷した面に金属をメッキして導電性を持たせる技術を開発、それを使って増えた部品を集約することを考えているようです・・・ 

 一方、最近はクルマメーカーも秀峰に大変な興味をもっているそうで、キーワードは本物を超える質感と環境対応であるそうです。

 例えば内装の質感。利幅の大きな高級車へのシフトを強めている日本車メーカーにとって、高級感のある室内は売れ行きを左右する最も大切な要素の1つなそうですが・・・ 、例えば、不要な間伐材の上に高級材の木目を極めて精密に印刷することにより、低コストで木目パネルや木目のハンドルを作ることができるようです・・・

 秀峰の印刷技術は、曲面に印刷できるだけでなく、線幅が10マイクロメートル(1マイクロは100万分の1)という精密な印刷ができるのが特徴で・・・ これによって、一部の高級な木材は、表皮の繊維がほんのわずか産毛のように立って木目に奥行き感をかもし出しているが、それを印刷で実現できるようになり、コストは高級な天然素材を使う場合に比べて数分の1以下になるそうです・・・

 

 日本の自動車メーカーは、実は秀峰のような中小企業の技術が支えている部分も相当大きいと思います。 なぜならば、メガネへの印刷技術を自動車メーカーは持っていないし、その技術を必死で別の産業へ展開しなければならない機動力も大企業にはなかなか育たないと思うし、 実際、秀峰が現在のようになるまでには、成功と挫折が何度も体験してきたそうです・・・

この村岡社長が同社を創業したのは1982年。その前にいくつかの会社でサラリーマンを経験したしたそうです・・・

                     

事業を立て直すため、村岡さんは様々な事業を考え、その中でたどり着いたのが、メガネの柄に直接図柄を印刷する技術だったそうです・・・当時は転写紙に図柄を印刷して、それを人手でメガネの柄に1本ずつ転写するという方式だったので、極めて生産性が悪く、 それをオフセット印刷機で直接印刷できるようにしたのが転機になり、メガネ業界では画期的な出来事がここに生まれたのです・・・
 
 その技術が、今や携帯電話機や自動車に使われて大きく飛躍し始めたのですから・・・バブル崩壊後の暗く長いトンネルを抜けて、大企業の業績と財務体質は大きく改善したが、中小企業はまだまだだと言われるいます・・・

しかし、実は秀峰のような企業が日本でたくさん生まれている・・・・と聞き日本は改めげすごい底力があるんだと・・・感じます・・・本当に ニッポンの中小企業・・・・、捨てたものではないと改めて尊敬とその努力を多くの人に知らせたいと思います。

 (産径新聞引用)