今日は母の日です・・しかし私の場合はすでに母は天国に行ってしまいました。しかし、世の中には母の日を避けている人も多くいる事がこの記事は私に教えてくれました。
これは中国の話で、しかも捨て子として成長した青年の実話です・・・
この記事によると・・・・ 「僕は小さいときから、母の日を迎えるのが嫌でした。j何故なら、生まれて間もなく母親に捨てられたからだ・・・」とあります・・・
そしてこの少年は、母の日が来るたびに、嫌な気持ちになったそうです・・・それは母の日が近づくと、テレビもラジオもすべて、母の愛情をたたえる歌ばかりだから・・しかもクッキーのコマーシャルまでも母の日にちなんだ歌で、その少年はこれらの歌はとても耐えられないものだったそうです・・・
この少年は、生まれて1ヶ月過ぎに、新竹駅で発見され、駅のそばの交番の叔父さんたちが、僕にミルクを与えようとしたが、泣き止まなかったと後で聞きました。
そのうち、赤ちゃんの世話に手馴れた婦人を見つけてきて、彼女がくれたオッパイでお腹いっぱいになってすやすや眠りにつくと、交番の叔父さんたちは、僕を新竹県寶山郷の徳蘭センターへ連れて行き、いつもニコニコしているカトリック教の修道女たちに引き渡したそうです・・・
だから・・・僕は母に会ったことがない・・・・
幼いときからずっと修道女たちに育てられたことしか知らない。夜になると、センターの他のお兄さんやお姉さんたちは勉強の時間に入るから、何もすることのない僕は、修道女たちの夜の勉強会にくっ付いていた。祭壇の下へ潜り込んだり、お祈りをしている修道女たちに向かっておどけた顔をしたりして遊ん出ました・・
時々修道女に寄り添って寝てしまうこともありました。心優しい修道女はミサが終わっていないのに、僕を抱えて部屋へ連れて帰ってくれました・・・
僕らはみんな、家庭の事情からここにいるのだが、多くの子供はお正月や祭日になれば、親戚や親兄弟が迎えに来てくれるのですが・・・しかし、僕だけは、自分の家がどこなのかも知りませんでした。
そのため、修道女たちは、僕みたいな本当の家無き子に特に良くしてくれ、他の子供たちが僕らをいじめることは決して許しませんでした。僕は小さいときからまあまあ勉強ができたので、修道女たちは、僕にもっと勉強させようと、たくさんのボランティア家庭教師を見つけてくれました。
僕に物理と化学を教えてくれた先生は当時、博士課程の大学院生で、今は助教授になっています・・・英語を教えてくれた先生は、そのときすでに教授でした。僕が小さいときから英語がよくできたのは、その先生のおかげです・・・
修道女たちは僕にピアノも習わせました。僕は小学校4年生のとき、すでに教会のエレクトーン奏者で、ミサでは僕が演奏を担当しました。
僕はピアノが好きですが・・・永遠のタブーが一つありました。それは、母の日にちなんだ歌は弾かないという事・・・・誰かにむりやり弾かされないかぎり、自分から進んで弾くことは決してありません・・
僕は時に、自分の母親は誰だろうと考えることがありました・・・小説を読むようになってからは、私生児ではないかと思うようになり、父親は乱れた生活をしており、若い母親は僕を捨てざるを得なかったのだとかっての想像したりしました・・・
幸い、僕はおそらく、素質はそこそこあったと思います・・・加えて、熱心なボランティア家庭教師たちの教えもあって、新竹省立中学・高校に順調に受かり、大学も国立成功大学の土木学科に入学できました。
ある日、孫さんが真面目な顔をして、僕に話があると言いながら、引き出しから封筒を取り出して、中身を見るようにと言い、 封筒の中には2枚の切符が入っていました・・・
交番のおじさんが僕を連れて来たとき、僕の服の間にこの2枚の切符が挟んであったそうです・・・母は、この切符で自分の住んでいるところから新竹駅までやって来たに違いないと思いました。
孫さんの話では、彼女たちは捨て子の過去の身の上を調べるのはあまり気が進まないので、僕が大きくなってからにしようということで、その2枚の切符をずっと保管しておいてくれたそうだ。
そして、僕が理性的で、この件をきちんと処理することができるようになったと判断したので、今日話してくれたということでした。
僕はずっと両親に会いたいと思っていましたが・・・でも、いざこの2枚の切符を手にしてしまうと・・・僕は今、順調に平和に暮らしており、大卒の学歴も持っている。結婚を考えている彼女さえいるのに・・・、なぜ過去に戻ろうとするのか?まったく知らない過去を探しにいく必要なんてあるのか?とも思いました・・・
孫さんは僕を行かせようとしている。僕にはすでに明るい将来があるのだから、自分の生い立ちの謎で心の片隅にいつまでも暗い影を残しておく必要はないと考えました・・・しかし 僕は思い切って出かけていました。
僕は、派出所と町役場を行ったり来たりして、ようやく僕と関係がありそうな資料を二つ手に入れました。修道女たちの記録によると、僕が新竹駅で発見された当時、ちょうど1ヶ月あまりだったということで、手元にある資料は恐らく僕の出生資料だろうと思います・・・
ただ、問題は、僕の両親は共に亡くなっているのだそうです。僕には兄がそうですが・・その兄も早くにこの町を離れてしまい、行方がわからないそうです。
だが、小さい町だから、みんな互いに顔見知りです。
先生が言うには、僕の母はとても優しい人で、確かにずっと学校で働いていた。ところが、父のほうはとても怠け者で、町のほかの男たちがみな都市へ出稼ぎに行くのに、父だけ出稼ぎに行こうとせず、町でアルバイトをしていた。
とは言っても、小さな町なのでアルバイトもろくになく、結局、母の給仕の収入で生計を立てていたという。父は仕事をしないから、しょっちゅう心のバランスが取れず、酒を飲んでは憂さを晴らしており、酔っ払うと、母と兄に暴力を振るったりするような人だったそのです。
校長先生は僕にいろいろなことを尋ね、僕が北部の孤児院で育てられたことを知ると、先生は興奮気味にクローゼットから大きい封筒を取り出してきて、僕に渡しました。その封筒は母が亡くなったとき、枕元に置いてあったものだそうです。
僕は震える手でその封筒を開けてみると、中には切符がいっぱい入っていました。この南部の小さな町から新竹県寶山郷までの往復の切符が、一往復ずつセットにして、全部綺麗に保存されておりました。
母は晩年に仏教を信仰するようになったそうで、母が一番誇りに思っていたことは、お金持ちの仏教信者たちにお願いして、百万元(約320万円)を寄付してもらい、それをカトリック教が営んでいる孤児院へ寄付したことだそうです・・・しかも寄付金を渡す当日、母も一緒にその孤児院に行き、それは、南部から仏教を信仰する一群の善男善女が大型バスで孤児院に来たことがあり・・・彼らはそのとき、百万元の小切手を徳蘭センターに寄付してくれました・・・
修道女たちは感激の余り、子供たちを集めて、彼らと写真を撮った。バスケットボールで遊んでいた僕も、そこに引っ張られて行き、しぶしぶ一緒に写真を撮ったのを覚えています・・・
なんと、そのときの写真も封筒の中に入っていたのだ。僕は校長先生に、どの人が母か教えてもらいました。母は僕のすぐそばにいたのです・・・
また、大学の卒業記念アルバムの中のある1ページのコピーも封筒の中にあり、それにはもっと感動しました・・・それは、卒業時にクラス全員で角帽をかぶって撮った写真で、僕もその中におります。 母は僕を捨てたにもかかわらず、ずっと僕に会いに来てくれていた事を知りました。ひょっとしたら、大学の卒業式にも来てくれていたのかも知れません・・・
校長先生は他の先生たちを呼んで来て、国立大学を卒業できたなんてすごいことだ、と僕のことを喜んでくれました。
僕はエレクトーンの蓋を開け、窓の外の冬の夕日に向かって、母の日の歌を一曲一曲弾き続けました・・僕は孤児院で育てられたけど、孤児ではない。僕には心優しい教養のある修道女たちがいて、母親のように僕を育ててくれました。
僕にとって、今日が母の日だ。切符がいっぱい詰まった封筒が、母の日を恐れる僕の心を癒してくれました・・・
これは中国のある孤児の話ですが、日本にも両親がいてもその愛情を実感できずに育った人もおると思います。でもこの孤児のようにきっと親は心の中ではわが子の行く末を見つめているのこもしれません・・・
(大紀元時報記事引用)
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