2016年3月9日(水) オフの日

2016-03-10 00:03:49 | 日記
今日はオフの日。
天気も雨だったし、少し自宅でのんびりした。
明日からあさってにかけて、また夜勤。


以前にもこのブログで書いたけど、自分は映画ファン。
と言っても、邦画よりも、洋画が好き。
邦画は概してどうも面白いと思えない。
特に21世紀になってから、質が落ちているように感じる。
なぜなんだろう?

その理由が垣間見れるような記事に出会った。
一水会顧問の鈴木邦男さんのブログ「愛国問答」より。
(バリバリの右翼かと思いきや、鈴木さんは実に真っ当な意見を述べる人だと思う)

やはり、テレビ局がガンなんだね。
とにかくテレビに関わるものはすべて腐っていく、そんな雰囲気を感じ始めている。
なにしろ政府による「大衆洗脳装置」だからね。
局内の良識派はどんどん駆逐されていき、腐敗分子だけが残っていく。
そんな流れも見える。
やっぱ今のテレビ局は解体すべきだ。あるいは電波停止でもいいや。

テレビを通じて政府が狙っているのは
「一億総活躍社会」じゃなくて、「一億総白痴化社会」だろう。
そんな感じがしてならない。




鈴木邦男「愛国問答」 第193回
テレビでは流せない映画

「今、テレビで放映できない映画は作れないんです」と寺脇研さんは言う。一瞬、意味が分からなかった。テレビでは、いろんなドラマがある。連続ドラマもあるし、単発の2時間ドラマもある。映画以上に金をかけて作るものもある。しかし、映画は別だろう。テレビでは作れないものを作るのだろう。時間も金も、脚本も、テレビではやれないものを作る。映画だから、映画でしか出来ないものを作る。そう思っていた。だから、寺脇さんの発言には戸惑った。しかし寺脇さんは言う。

「昔はそういう壮大な野望をもって作られた映画もありました。でも今はありません。昔ヒットした映画で、今、テレビで放映されるものもあります。しかし今は、映画を撮る人が、後でテレビで放映されること(だけ)を考えて、作っているんです」。

頭が混乱した。僕の理解では、こうだ。映画は映画館で上映し、ヒットすることを考えて作る。出来たら外国の映画祭で認められ入賞することを考える人もいるだろう。ともかく、映画がヒットすることを願って作る。それがいい映画ならば、その結果として、何年か後にテレビで放映される。ビデオ、DVDにもなる。そう思っていた。これは出版状況と同じだろう。初め、単行本で出す。売れた本は何年か後に文庫化される。同じことだろう。

「いえ、違うんです」と寺脇さん。「ヒットして、その結果、テレビ放映、DVD化があるのではありません。初めからテレビになることを考え、テレビ局から金を出させるのです。それでやっと映画は作れるのです。だから、テレビで放映できない難しい映画、危ない映画、偏向した映画は初めから作れないのです」と言う。そうか、分かった。映画を作るには莫大な金がかかる。多くの協賛してくれる企業を集める。映画の最後にズラズラと出てくる企業がそうだ。さらに、映画館で上映し「1年後にテレビで放映する」ということで、放映料を前もってもらう。DVDにもする。その金ももらう。そうやって金を集めて、やっと映画の撮影に入る。こうなると金はあるが、いろんな制約もある。脚本にもクレームをつけられる。「ここでうちのホテルを使ってくれ」「ここでうちの車を使ってくれ」「交通事故のシーンはまずい。車が売れなくなる」…といった注文やクレームだ。その中でもテレビ局の発言権は大きい。出している金が違うからだ。「ここは分かりにくいから、とれ」とか、「この発言は危ない」とか。

ほとんどの監督がこういう方式で金を集めて映画を作っている。多くの制約を受けながら作っている。だから、昔のように、映画でしか出来ないような壮大な映画は作れない。若松孝二監督は、この方式を嫌った。「これでは自分の思い通りの映画を作れない」と言って、自分の映画を見たい人々(個人)から広く金を集めることを考えた。いろんな注文やクレームを一切言わない個人からだけ金を集めた。『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った時から、そうやった。たとえば3万円出してくれる個人を千人集める。3千万円だ。十分に映画は作れる。「今までやってきて、千人の支援者がいないようではダメだ」と言っていた。3万円を出してくれた人には、その分、前売り券を送る。だから、タダで金を出せということではなく、出資させるのだ。あの時は僕も無理をして3万円出した。壮大な映画作りに参加している、と心がおどった。監督の作戦は見事に当たった。そして、次からは金集めはグッと楽になった。『キャタピラー』『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』『千年の愉楽』と続く。

でも、「若松方式」は例外中の例外だ。みな、テレビ局に頼る。そして協賛企業を集める。「だから、今回の映画は大変でした」と寺脇さんは言う。「佐野和宏にほれ込んで、佐野に映画を撮らせたい。佐野の映画を見たい。それだけでプロデューサーを引き受けたんです」と言う。つまり、自分で金を集めたのだ。相当の部分を自分で出したようだ。これは偉い。文句なしに偉い。寺脇さんは、かつて文部省の官僚だった。辞めてからは、映画評論の仕事を中心にやっている。芝居もよく見ている。ある時、すごい劇団を見つけた。次回作を作りたいのだが、金がなくて難航していた。「どうしても見たい」と思い、一千万円をポンと出した。文部省を辞めた時の退職金だったのかもしれない。このことは寺脇さんの本で読んだ。すごい人だと思って、僕は感動した。文章を書いたり、トークしたり…そんなことで協力する人はいても、ポンと一千万出す人はいない。

寺脇さんが今回、プロデューサーとして参加した映画は『バット・オンリー・ラヴ』という映画だ。佐野和宏さんが主演・監督をやっている。長年俳優をやり、その後、監督をやっている。数年前、咽頭ガンで声を失った。この映画も声を失った男が奥さんと娘の間にはさまれながら、苦しみ、戦う映画だ。「これは俺しか演れない」と思い、主演と監督をやっている。

2月9日(火)、渋谷の映画美学校試写室でこの映画を見た。その後、場所を移して、佐野さん、寺脇さん、僕で座談会をやった。月刊誌『紙の爆弾』に載る予定だ。座談会でも、映画の中でも、佐野さんはボードを使って文字を書き、それで会話する。「字幕を入れろ」という声もあったが、拒否した。「表現が難しい」「暗い」「ハッピーエンドじゃない」と言う声も無視した。「自分の撮りたいように撮る」と自分の意志を貫いた。すごい映画だった。圧倒された。「だから、テレビではとても流せませんよ」と寺脇さんは言う。「なるほど、そうか」と納得した。「誰にでも分かりやすいもの」でなければテレビでは流せない。そんな「人畜無害な映画」を作るしかない。「それでは、自分のやりたい映画は作れないし、思い切った問題提起もできない」と寺脇さんは言う。
 
「自民党政治のようですね」と僕は言った。自民党とテレビ、巨大な権力に皆、すり寄ろうとする。又、「誰もが分かる」「あたり前」のものを作ろうとする。異物は最初から排除する。「日本人だから日本を愛するのは当然だろう」「伝統・文化は大切だ」…と「当然」「常識」だけを言ってくる。そして、たとえ話を使って「みんなが分かる政治」をやろうとする。政治も映画も同じだ。それを不思議とも思わず、支持し、安住している国民。こっちの方が問題かもしれない。




【時間も金もないので、どうせ読めないだろうけど、面白そうな本】

いくら邦画よりも洋画が好きと言っても、
この対談メンバーを見れば興味をかき立てられる。



『ドキュメンタリーは格闘技である
    原一男 vs 深作欣二 今村昌平 大島渚 新藤兼人 』
(著)原一男
筑摩書房

「ゆきゆきて、神軍」「さようならCP」など
異色のドキュメンタリーで有名な原一男。
彼と日本映画の巨匠が語る
映画・エロス・虚実についての極私的な対談集。