ナショナリズム
トカ
グローバリズム
とか
いろいろ言いますが、私にはよくわかりません。
以前、犯罪は人と人の境界線が崩れた時に起きるという
自分の説について書きましたが、
グローバリストが世界を支配するという
構造と
ナショナリズムが 他の国を拒絶したり排除したりという
構造
について
なんとなく
思うことがあってメモっておきます。
猫のヒトビトという題名にしたのは
猫を飼う、あるいは猫に関わる人々が
多頭飼い(崩壊までいかなくても)になっていて(私もそうですが)
その生活が猫中心になっているのが不思議に思ったからでした。
壁紙が剥がれ、ゴミだらけ、毛だらけ、ホコリだらけで物が散乱した家に
猫を何頭も飼っているお宅、家の周りが猫缶の空き缶だらけになってたり
猫砂などの物資で溢れていたりという風景
なぜ、人々は、こうも猫に人生を明け渡してしまうのか
それが不思議だったので、その謎を解き明かしたいという気持ちがありました。
自分も猫を飼ってみてやっぱり生活が猫中心になっていて
猫砂が散乱していたり、ゲロで汚れていたり
ゴミだらけ、かつぶしだらけ、という状況で「平気なふりして」暮らしているんですよ。
客観的にみたら「もうすこし環境をまともにして気分良く暮らしたら?」と
思われる環境で日々猫との暮らしを継続している。
なぜなんだろう?
実はブログをもう一つもっていまして、
(書くといっても私の場合即興でおもいついたままなんですが)
自分で読んでみて「なるほどなあ」と
思うのですが、
日本人に限らず、「他人の喜ぶように」が中心になってしまって
自分の暮らしも自分の国も、自分の大切なものも「なくなってしまう」
という精神構造があると思うのです。
猫と人間という関係性だけでなく
国と国という関係の中で、境界線を無くして、誰かの言いなりになってしまい
最終的には自分の大切なものを失ってしまう。それにさえも気付かない。
本来、国と国との関係も
人と人との関係も「ちょうどいい距離感」と
「きっちりとした境界線」があったほうがいい。
人種差別とか、国境はないほうがいいなどと言う人もいますが、
人種差別を肯定しているわけでも、鎖国を推奨して他国を排除する考え方を肯定しているわけでもなく
自己というものがしっかりあって、それをまもる という事こそが
相手を尊重する という事に繋がるのではないかと
思うのです。
自己と相手が溶け合って、お互いにコントロールするのは「共依存」です
そうではなく
自己をしっかりもって、相手を尊重する
そこには境界線もある
なぜなら「相手の文化」と「自分の文化」は違うからです。
大切にしているものがお互い違うのであれば、誰かを変えるのではなく
お互いに「尊重する」ということ。
関わるという事は、影響を与え合うことだけれど、
お互いに尊重しあうという事がなければ付き合うことは出来ませんから
やはり距離を置くという事や境界線をきちんと設けることが
必要になると思います。
よりよい未来のために。
私たちは時折、境界線を設けるのを忘れてしまう。
自分がなにものか なにを欲しているか 自分がなにをしたいか
どうありたいか
それを
見つめる時期なのかもしれない。