はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

黒棗の実 2

2018年06月22日 14時15分06秒 | 黒棗の実
巫、と聞いて、允の脳裏をかすめたのは、やはり安のことであった。
安の母親が、安の病気の平癒のため、巫を呼んだと話をしていなかったか。
それに、允には、巫が、医者を兼ねているという話に気を引かれた。
成都も、まじないや巫女に頼る気風があったけれど、医者は医者として、ちゃんと別に存在しており、巫女の煎じる薬は、士大夫の階級では軽んじられる傾向にあった。
古い書物には、巫は山に入って薬草を採ると記述がある。
古来より、巫は医術をも心得え、生と死のふたつの世界の知識をもつ、神秘の存在であったのだ。

「薬って、その山菜がそうなの? そんなにたくさん摘んで、どこまで行くの?」
允はすこしだけ巫に近づいた。
沓で踏みしだく青草のやわらかい感触が心地よい。
巫は、允に籠の中を見せて、相変わらず笑みを浮かべながら答えた。
「どこへ行ったものかね。まだ決めていないのだけれど、きっと南に行くことになるだろうね。この薬は、自分たちで飲むためだけじゃなく、途中で旅人に売って、こちらの路銀を稼ぐためのものでもあるのだよ」
籠の中には、さまざまな種類の草が入っていたが、どれがどんな効能があるのかは、允にはさっぱりわからなかった。
「あ、棗だ。これなら知っている。うちの家にも生えているもの。好物なんだ」
棗は食べると甘酸っぱい。
小腹がすいた時にもいで食べられるし、干したものは、薬にもなるし、おなかを壊した時にも役に立つ。
「あげてもよいけれど、これはまだ青いから、酸っぱいよ。ほら、こっちをあげよう」
と、白装束の巫は、懐から、棗の実を干したものを允にくれた。
その手は、節くれだっていたが、不思議とじいやのように手荒れがなかった。
「ありがとう。干したものを黒棗というのだよね」
「さすが董都尉のお子だ。よく知ってなさる」
「父上を知っているの」
父が有名なのは、允にとって、誇りである。
顔を輝かせた少年に、巫は、優しい笑みを向けた。
「お父上が好きなのだね。可愛がってもらっているかい?」
「もちろんだよ。普通はそうだろう」
「おやおや、簡単に『普通は』、などと口にしないといい。幸せに育った者は、どうも無頓着でいけない。世の中にはね、子が親に、可愛がってもらえないことが普通な家だって、たくさんあるのだから」
「ごめんなさい……むつかしくて、よくわからないけれど」
「素直なお子だ。董都尉の評判はすこぶるよいようだけれど、坊やを見る限り、人物も確かなようだ。よい父上に育てられたのだから、ちゃんと孝行なさいよ」
「うん、そうする。父上のように立派な人になって、父上が自慢できるような子供になるのが、わたしの夢なのだ」
「立派な人とは恐れいる。坊や、このあたりに暮らしていると、どうもピンと来ないけれど、中原のあたりでは、毎日黄巾賊とやらが、村々を荒らしまわって、天子様の言うことを聞かなくなっているそうだよ。その隙に、有象無象の輩が、我こそはと名乗りをあげて、天子様の御位を狙っているそうな」
「その話は聞いているよ。父上も、天下が悪くなったので、荊州から巴蜀に来たのだから。巴蜀はだいじょうぶだよ。父上が、だいじょうぶだと思ったのだから、だいじょうぶなのだ」
允はそう言って、むん、と胸を張って威張った。
允にとっては、父親の言葉や判断は、すべて福音なのである。
「お父上は、いつか司馬相如のごとく、巴蜀を出て、天子様にお仕えするようにと言わないかい?」
允は、沈思熟考な性格をみせて、しばらく考えてから、答えた。
「ううん、言わない。父上が言う立派な人というのは、お金がある人や、地位の高い人ではないよ。だから、天子様のお側に仕えられる人間になれ、なんていわない」
「では、どんな人間が立派だと?」
「自分の為すべきことをきちんとやって、正直に生きる人、人を弾劾しない人、欲張らない人。お天道さまにいつでも顔向けのできる人が、立派なのだって。
大きな功績を残したとか、お金をたくさん持っているひとも、たしかに立派かもしれないけれど、本当に立派なのは、毎日をこつこつと真面目に暮らして、不平も不満もいわないで、家族をたいせつにする人なのだって」
「おやおや、董都尉は、家もそっちのけで、仕事に打ち込む御仁だと聞いているよ」
揶揄された允は、むっとして反論する。
「そんなことはない。父上は、立派な人だよ。みんな言っているもの」
「そうだろうか。だれがそう言っているのだい」
允は、考えて、それから答えた。
「ええと、じいやとか、じいやとか、じいやとか……」
「じいやという人は、何人もいるのかね」
「だって、だれ、って聞かれても、その人の名前がわからないのだもの。答えられないよ。でも、父上が成都の令をやめてこちらに来るときに、たくさんの見送りの人たちが集まって、かならず帰ってきてくださいと、みんな泣いていたよ。立派な証拠じゃないか」
「その人たちは、たまたま、董都尉にうまく助けてもらえた人なのだろう」
「たまたま、って、なにさ」
「たまたまは、たまたまだよ。人助けというのはね、なまじな覚悟ではできないものだよ。助ける相手のすべてを引き受ける覚悟で手を差し伸べるのが、ほんとうの人助けさ。
董都尉は、たまたま仕事で人を助けているだけで、仕事の範囲ではない人は、助けないお人ではないのかい? 世間でよくいう義人とやらには、多いのだよ、そういうエセ義人が」
「父上は、エセ義人なんかじゃないぞ! ニセモノは、自分のことを偉いとか、賢いとか宣伝するものだけれど、父上は、逆に、いっつも、わたしは莫迦だ、莫迦だ、って嘆いてらっしゃるもの」
「なぜ、董都尉は、自分を責めなさる?」
「ええと、ええと、よくわからないけれど、父上は神さまではないから、目の前の、いちばん近くにいる人しか助けることができないからだって。一人を助けていると、そのあいだに、ほかの困っているひとは、後回しになってしまう。
助ける相手を選んでいる自分は、天を恐れぬ愚か者だ、天下の乱れを直さねば、困っている人が減らないとわかっているのに、どうしたらよいのか、手立ても浮かばない、って嘆いてらっしゃるもの。そういうのを、エセ義人とは言わないでしょう? 山奥に住んでいる貴方なんかに、父上のことがわかるものか」
「言ってくれるものだね。わたしたち巫というのは、たがいに繋がりがあってね、おまえたちの知らないような情報も、いろいろと握っているのだよ」
「ふうん。よくわからないけれど、なら、ほかのお山に住んでいる巫にも、父上はエセ義人なんかじゃないと伝えておくれね。悪い嘘がたって、このまま成都に帰れなくなったら悲しいから」
「成都に帰りたいのかい。なぜ」
「父上はなにも言わないけれど、じいやが、父上は天下に必要なお方だから、このまま巴郡に埋もれてはいけないと、いつもそう言っているもの」
「ふうん、じいやさんがね。じいやさんは、ご主人の気持ちを代弁しているだけかもしれないよ」
「そうではないというのに。わたしの父上は、安くんのお父上とはちがうのだ。成都に帰りたい、帰りたいと愚痴ばかり言うくせに、ろくに仕事をしない大人とはちがうのだから」
すると、とたんに巫は愉快そうに笑った。
「そうかい、坊やにも、あの男は、ろくでなしに見えるのかい」
允は、素直にうなずいた。
「自分の奥方をぶつなんて、最低だよ」
「うん、最低だね。まったくだ。面白いお子だね。素直かと思えば、なかなか毒舌を揮うじゃないか。安は、坊やと仲良くできて、楽しかっただろうね」
巫の言葉に、允は怪訝に思ってたずねた。
「これからも仲良くするよ。だって、わたしのたった一人の友達なのだから」
「ああ、そうだね。そうだといい。ところで坊や、つい長話をしてしまったけれど、わたしはそろそろ出立の準備をしなければならない。ここで坊やとはお別れだ。
帰りは、いま通ってきた小道をおゆき。野うさぎが使っている獣道だけれど、坊やならば難なく通れるだろう。
さて、約束をしてほしいのだけれど、わたしと会ったことを、誰にも言ってはいけないよ。お父上にも言ってはならない。約束できるかい? 約束できるなら、ほら、黒棗をもうすこしあげよう」
と、巫は、黒棗の実を、さらに允に渡した。

好物でつられたわけではないが、允はもともと律儀な性質であったから、巫の言葉に従うことにした。
そして、貰った黒棗を、錦の袋に入れると、大事に懐にしまった。
錦の袋は、亡き母の形見の衣の一部を使って、伯母がこさえてくれた小物入れである。
「さようなら、坊や。約束を守ってくださいよ」
巫は念を押して、允を見送った。





屋敷に帰ってきた允は、あちこちに草と泥をくっつけて帰ってきたので、じいやにひどく怒られた。
しかし、董和のほうは、允のやんちゃを面白がって、どこへ行ってきたのかと尋ねた。
允は、巫との約束をおぼえていたから、安らしき少年と市場で出会って、山へ追いかけていったことまでは話したが、巫のことは話さなかった。
「ご子息は、まだ具合が悪いのか。長患いにならぬとよいな」
董和が言うと、傍らで、允の汚れた衣の始末をしていたじいやが、口をはさんだ。
「あの王県令は、よろしくないお方でございますね。患っているお子と、身ごもっていなさる奥方を屋敷に残して、ご自分は、妓楼に繰り出して、ドンちゃん騒ぎをなさっているとか」
「お会いしたことはないが、県令の奥方というのは、たいそう美しい方だそうだな。允や、もし奥方にお子が生まれたら、おまえの友達も増えるだろうよ」
そうか、安には兄弟が増えるのだな、と允はうらやましく思った。
「ああ、別なことを考えながら筆を動かしていたら、また損じてしまった。允や、この紙はおまえにあげよう。書き方の練習をするときに使いなさい」
董和は、筆を置いて、机にひろげていた紙を、允に与えた。
それは成都にいる高官に宛てた手紙の下書きで、何度も書き直した後があった。
文字の隙間に、允は自分の字を書くことができる。
父の字が手本にもなり、ちょうど良いのである。
「旦那様は、坊ちゃまに甘い。そのような高級品を与えてしまわれるとは」
「よいではないか。どちらにしろ、ほかに使いようがないのだからな。おや、允、おまえ、誰の顔を書いているのだね」
董和に見咎められ、允はびくりとして筆を止めた。
それこそ、何の気もなしに、允は、昼間にあった、あの不思議な巫のことを思い出し、その顔を描いていたのである。
とはいえ、允には絵心がなかったので、紙の上の顔は、まるで巫に似ていなかった。
允から紙を取り上げ、顔をまじまじとながめた董和であるが、軽くため息をついて、決まり悪そうにしている息子に言った。
「おまえはわたしに似て、絵心がないようだな。これは市場であった人の顔かい」
允は、どぎまぎしながら、こくりと頷いた。
罪悪感がちりりと胸を焦がした。
「今の世に、画才があっても邪魔なだけか。おまえは、わたしと一緒で、天賦の才能とやらがない凡人のようだから、こつこつと、毎日を精進せねばならぬぞ」
「はい。立派な人になります。父上の誉れになります」
「気負うことはない。健やかに暮らしておくれ。そうしたら、父もおまえを誉れに思うだろう」
董和はそんなことを言って笑ったが、允には、父の言葉の意味が、よくわからなかった。





さて、翌朝、王県令の使者が、董家に飛び込んできた。
妓楼から帰ってきた王恵であるが、戻った屋敷には、身重の妻も、病に伏せている子供もおらず、もぬけの殻であったらしい。
あたり一帯を探したけれど、いついなくなったのか、家令もだれもわからない。
そこで、探したところ、安にそっくりな子を連れた者が、川を渡ったということが知れた。
そこで、手配をして追いかけたところ、子供はいなかったが、安に似た子を連れていた者は捕らえることができた。
いま、縄にかけて、連れてきている、さっそく裁いて欲しいというのだ。
父と共に、表に出た允は、それこそ引っくり返りそうになるほど驚いた。
馬上にて、ぐるぐるに縄で縛られていたのは、ほかでもない、昨日の巫であったからである。

つづく……


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