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ひとことも口をはさまず、ふむふむと肯きつつ、すべてを聞き終わった孔明は、目をきらりと輝かせる。
そして、打ち明け話をしたことで、また盛り上がり、お互いの肩を抱き合って、おいおいと泣き伏せる村人たちに言った。
「死ぬことはあるまい」
すぐさま、花嫁の母親が、甲高い声で反駁する。
「まさか、死ぬなど早まるな、生きて耐えよ、などとおっしゃるのではないでしょうね?」
「耐えることもない。要は、衣が出来上がればよいのであろう」
「しかし、娘に機は織れませぬ」
「地主は、衣を用意しろ、と言ったが、かならず花嫁に織らせろ、とは言わなかった。そうであろう?」
言いつつ、孔明はにんまりと笑う。
孔明は、なにか策があるときの、自信満々の顔をしている。大波津波、どんとこい、といった顔だ。
「その作りかけという衣を見せてはくれぬか。それと機屋へ案内してほしい」
「構いませぬが、貴方様は?」
村人たちの問いかけに、馬良が意気揚々と名乗ろうとすると、いつのまにか入ってきていたのか、趙雲がそれを手ぶりで止めた。
そして代わりに答える。
「我らは休暇中のただの小役人だ。しかしこのような不正は許せぬ。我らが尽力し、おまえたちをかならず助けるがゆえ、安心するがいい」
趙雲が戦場で兵卒たちに下知するような、重々しい声で言うと、村人たちは、おおー、と安堵のため息をついた。
おいしいところを攫われた気がするが、馬良は思わぬことの成り行きに戸惑いながらも、久しぶりに小憎らしいほど自信にあふれた孔明にほっとしつつ、花嫁の案内に従って機屋へと向かった。
※
織機を見るや、孔明はううむ、とうなった。
「最新型だな」
馬良には、ごくごくふつうの織機にしか見えない。
織り機など、どこの家のものも同じ、と思っていたのであるが、どうも違うようである。
孔明は、素人目にもよく手入れがされているとわかる織機に近づくや、『最新』の部品らしいものをしげしげと観察する。
「あたくしの娘は当代一の名人でございますから、その腕に見合った道具をと思って、用意してやったものでございます」
と、花嫁の母は、得意げに説明する。
孔明は振り返ると、感心したように肯いた。
織機のおかげで、花嫁の母と孔明の間に、あっというまに共闘意識が芽生えたようである。
孔明は気骨あふれる職人が大好きなのだ。
「その織りかけの衣が、例の衣でございます」
なるほど、といいつつ、孔明はその、雪原のように清い白い衣を手に取る。
白い衣に、巧みに鳳凰の絵図が織り込まれたものだ。
単色のものならばともかく、鳳凰の絵図を織り込むために、下絵のなにもない状態の布に、織女の頭の中にある図像をそのまま腕に託して、糸をさまざまに換えて、徐々に徐々に積み重ねるようにして、織っていくのだ。
大変な根気を必要とする作業である。
「たしかに花嫁は名人のようだな。手を加えるといっても、あとは完成させるばかりの状態ではないか。夫人はきっと気に入るだろうな」
ちらり、と孔明は花嫁の母の後ろで、ものめずらしそうにしていた趙雲に目を走らせる。
「たぶん」
と、短く趙雲は答えた。
趙雲は、奥向きの全体のことは語っても、孫夫人個人に関しては、あまり話題にしたくないらしい。
孔明は、いったいいかなる策でもって村人たちを救うのであろうかと、期待をもって見つめていた馬良であるが、何を思ったか、孔明は上衣を脱ぐと、ぺたりと床に座り、
「では、この場をしばらく借りよう」
といって、たすき掛けをはじめた。
「亮くん、なにを始める気かい」
うろたえて尋ねる馬良に、孔明は不思議そうに言う。
「なにって、機織さ」
「きみが?」
「そうだよ」
「なぜ?」
あきれる馬良に、むしろ孔明は柳眉をしかめて、
「なぜって、それこそなぜだい? 五日の間に衣を完成させなければ、花嫁は、地主のドラ息子の下に行かねばならない。そうなるくらいなら死ぬと言っているのだよ。
そして、肝心の花嫁は怪我を負っていて機織ができない。ならば、だれかが代わりに機を織らなければならないじゃないか」
馬良は、孔明に策があり、と見たとき、これはきっと、証文の嘘を暴いて、役人たちを引き連れて、地主のところへ堂々と赴くのだろうと思った。
そうして、シラを切ったうえに、「者ども、この小役人どもを始末してしまえ!」と開き直った叫びに応じてわらわらと食客どもが襲ってくるのを趙雲が退治し、そこではじめて、我は諸葛孔明なるぞと地主に対して、その名を明らかにし、地主はすっかり恐れ入って、村人たちはおおよろこび…といった講談ふうの展開を想像したのだが。
主役になる人物は、こうしている間にも、細長い指先を器用に動かし、ちまちまと糸を操り、起用に途中で止まっている機織のつづきをはじめている。
その慣れた一連の動作を見て、花嫁の母は、「なかなかですわね」とつぶやく。
なんだ、この地味な展開は。
「なんだって君が?」
「他にいないだろう。良くん、機織を甘く見てはいけない。機織というのは、職人の感性を極限まで要求される非常に繊細な作業なのだ。いわば芸術といってもよい。
見たまえ、この鳳凰の高貴かつ神秘的な表情を。これほどの腕を持つ娘の作業の続きをするのだよ。生半可な職人に続きをまかせるのは、雪原の上を泥だらけの足で踏み荒らすようなものではないか。
この娘は天才なのだ。字すら満足に読めない娘が、天啓を得て作った物なのだよ。なんという素晴らしい奇跡だろう。
このひどく退屈で陰惨な農村社会にあって(ここで戸口に押しかけていた村人たちは、一様にムッとした顔をしたが、孔明はまるで頓着せずに、つづける)夜闇にきらめく星のような光明が存在する。だからわたしは世の中に絶望することができないのだ。
この作業の続きを為しえるためには、天才に対抗しうるだけの、極上の感性と知性が必要なのだ」
「それが君ってわけかい」
なにをあたりまえな、という顔をして、孔明は答える。
「他にいるかね」
いるんじゃなかろうか。臨烝あたりに。
という言葉を、馬良は呑み込んだ。
「しかしいつの間に、機織なんて覚えたのだ」
すると孔明は目を細める。
「ほう、君のその顔から察するに、機織というのは女の仕事と思い込んでいるようだね。
しかし、一度ぜひやってみたまえ、こんなに熱中できる作業はほかにない。最初は、老眼が進んで、細かい作業がつらい、と言っていたばあやの手伝いのつもりで覚えたのだが、要領をおぼえると、止まらなくなってしまうのだよ。
崔州平には、そんなのは、いい嫁を貰ってしまえば、意味のない技術だ、暗記のひとつでもしたほうがよっぽどためになる、などと言っていたがね、そんなことはない。現にいま、こうして人助けに役立っているのだからね」
「たしかにそうかもしれないが」
「こんなに楽しい作業を独り占めして申し訳ないくらいだ。君にも教えてあげたいところだが、いまはそんな余裕ではないようだ。
それとすまないが、そろそろ話しかけないでくれないか。この作業は特に集中を要する。ちょっと注意を逸らしただけで、全体がぶち壊しになってしまうからね。
いままでは完璧な仕上がりなのだ。天才と同じ質を保たせるには、それを上回る集中力で臨むべきなのだ」
孔明は、一気にまくしたてるようにして言うと、ぴたりと黙り、目の前の織機に真摯な顔を向ける。
置いてきぼりにされた馬良がぽかんとしていると、戸口のほうで馬のいななきがする。
見ると、趙雲が、自分の黒馬に乗っているところであった。
「どちらへ行かれますのか?」
まさか、孔明に呆れて帰ってしまうのか、と思った馬良であるが、そうではないらしい。趙雲はあたりまえのことを口にするように、言った。
「糸を仕入れてくる」
「へ?」
「糸が足らぬと言っていただろう。ちょっとひとっ走りして、糸を仕入れてくる。季常どの、俺が戻るまで、すまぬが、あれのお守りをたのむ」
趙雲に、あれ、と言われた孔明は、ふと織機から顔を上げ、機屋の中から声をかけてくる。
「子龍、糸の種類は花嫁から聞け」
「もう聞いた」
ではさらば、と言うなり、趙雲は、ぱっぱかと駆け出していき、馬良がお気をつけて、と言おうと我に返ったときには、もう見えなくなっていた。
薄暗い機屋に座り込み、眼をきらきらと輝かせて機織に夢中になる孔明と、キツネにつままれたような面持ちでそわそわと落ち着かないそぶりの村人のなかにぽつりと残され、馬良は、とりあえず、今夜の宿はどうしよう、と考えていた。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)