はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

短編・笛伶(てきれい) 後編

2020年05月05日 10時10分05秒 | 短編・笛伶(てきれい)



翌日、董和は、あらかたの仕事をすませてから、時間を見計らって、またも休昭の塾へとむかった。
親ばか、ここに極まれり、といった感である。
母を亡くした子へ、愛情を惜しみなく注いできた。
母親がいない分を、自分がこなさねばと信じており、董和がいま、塾へ足を向けているのは、母親代わりとしてである。
そう、そうなのだ。
自分に言い訳しつつ、董和は、昨日と同様に、休昭の塾の中へと入って行った。
最初は、休昭の様子が気がかり、ということで、細部に目が届かないでいたが、訪れるのが二度目になったいまでは、この塾が、なんとなく片付きが悪い場所だな、ということに気づく。
教室の高窓の下に、董和が引きずってきた木箱も昨日のままであったし、枯れ落ちた葉も、そのままに、日陰ではすでに腐り始めており、最近、掃き清めた気配がない。
煤けた雰囲気、とでもいおうか、それも、つい最近のこと、という話ではなさそうだ。
ふと、建物を中心に見回っていると、木陰に隠れるようにして、額に斑点のような染みの目立つ老人が、切り株にすわって、ぼんやりしているのに出くわした。
面構えからして、あまり律儀そうでもない。
これは狡い男だな、と董和は勘のよいところで判断した。
すると、そこへ、昨日見た娘が、駆け寄ってくる。
「じいさま、たきぎを集め終わったよ。次は?」
「あとは、見えるところを適当に片しておけばええ。ところでおまえ、玉の輿に乗るのにちょうどいい、めぼしい男は見つかったか」
またえらく、遠慮も恥もない問いかけだな、と、董和が呆れていると、娘も、まるで悪びれず、うん、と可愛らしい顔を頷かせた。
「うん、二人。どっちがいいと思う、じいさま。ひとりは董和って、むかし益州の太守をやっていた人の息子なの。気が弱くて面白くないし、男らしくないけど、いい暮らしはしてそうじゃない?」
「董和?」
とたん、老人は、毛虫が背中に張り付いていたときのように、嫌悪もあらわに顔をしかめた。
「莫迦いうな、おまえ、董幼宰といったら、そのむかし、ほかならぬ、このじっさまを、賭博の罪で牢にぶちこんでくれた男じゃないか。それに、あいつは、とんでもない倹約家のうえに、お殿様に嫌われているからな、禄もたいしたことない。駄目だ、駄目」
董和は覚えていなかったが、成都の令のときに、あちこち賭場を摘発したことがあり、そのなかの逮捕者の一人が、その男であったようだ。
老人のことばに、娘は、同じく顔を歪ませ、口を尖らせる。
「そうなの? 金、持っていないんだ」
「そうだ、莫迦、もうちょっと人を見る目を養え。おまえはな、頭はよくないが、器量はとびきりいいときている。ちょっとでもいい暮らしをしたいのであれば、若いうちに、分別がまだついていない若造を捕まえて、玉の輿に乗るんだ。苦労なんかしたくねぇだろう」
「なあんだ、それじゃあ、もう構ってやる必要はないか」
「うん? 向こうはすっかりその気なのか」
老人は、思わず董和が蹴り飛ばしてやりたくなるほど、いやらしい笑みを浮かべて、痩せた肩を揺らした。
娘は目を細めて、きつく言う。
「なにもさせてやってないよ。ただちょっと、声をかけてやって、掃除を手伝ってやっただけ。でも、もういいや、勘違いされたらいやだから、もう無視することにしよう」
「そうそう、それがええ」
騙された、とぶつぶつと頬を膨らませ、不平をぶつぶつ言う娘の顔は、たしかに愛らしいことは愛らしいけれども、まちがいなく老人の血縁であろうことは、すぐに知れた。
小ずるそうな目が、そっくりであったからだ。
ふと、その娘の顔が、見ているほうがたじろぐほどに、ぱっと明るい、愛らしいものに戻った。
「じいさま、もうひとり来た。楊家の跡取り息子なんだって。あれならいいでしょう?」
『あれ』、といわれた青年は、ほかならぬ、先日、休昭に仕事を押し付けて帰ってしまった、調子のいい男であった。
楊家の子息か、と董和は納得する。
父親は劉璋のお気に入りで、禄高も、董和などとは比べ物にならないほど高い。
楊家の息子を見つけ、うれしそうに手を振る娘に、楊家の息子も顔をほころばせて、近づいてきた。
聞こえないように、となりの老人が、ぼそりと娘に言う。
「うまく捕まえろよ」
「わかってる」
そうして、娘は、可愛らしい顔を微笑ませて、楊家の息子に、子犬のようにじゃれついていく。
楊家の息子のほうも、すっかり娘に参ってしまっているようで、『捕まる』のは時間の問題のようだ。

董和は、その様子に、暗然としながらも、どこかで安堵しつつ、ため息をついた。
特訓はたしかに無駄になってしまったけれど、こんな娘をまともに相手にして、振り回されたなら、休昭はメチャクチャになってしまう。
深入りする前に、娘のほうで逃げてくれるのであれば、ありがたい。
娘が言葉どおり、あれを無視してくれればよい。可哀相ではあるが、あれには良い薬となろう。
さてはて、気の重い、と、まるで自分が失恋したかのように、がっくりと気力が抜けてしまった董和であるが、ふと、董和とはちょうど反対側の物陰に、見慣れた影がひとつあるのを見つけてしまった。
ああ、と董和は、また、ため息をついた。

要領の悪い息子よ、おまえも全部見てしまったのか。

休昭は、家から大切に持ってきた笛の入った袋を片手に、物陰から、なんとも表現しようのない、沈鬱な顔をして、楽しそうにしている娘と、楊家の息子を見つめていた。
決定的な理由もなく、唐突に好きになったり嫌われたりするのが、男女の常であるとしても、この失恋は痛かろう。
泣くことも出来ず、表情を凍りつかせ、そのまま立ち尽くしている息子に、裏から回って、励ましてやろうかとも思った董和であるが、それではいけない、と、おのれを叱って、足を門のほうへとあえて向けた。
ここで可哀相だからと手を差し伸べてしまったら、休昭は、何事にも自分の力で立ち向かえない男になってしまうだろう。
あれは、気が弱いのはたしかだが、芯のしっかりした子だ。
一人でも立ち直れるであろうと、信じてやらねば。
そうだ、帰りに市場に寄っていこう。
そしてじいやと一緒に、あれの好物でも作ってやろう。
こういうときは、美味いものを食べるのが一番だ。
そうして、董和は塾を後にした。





休昭は、がっくりと打ちひしがれた格好で、いつしか河原にやってきていた。
父の董和が、自分がまだ幼少のころに、よく遊びに連れに来てくれた河原である。
董和が、草笛を上手に吹くので、それがとっても格好よく見えて、自分も笛を吹きたいと思った。
董和は、激務のあいだを縫うようにして、息子に笛を教えた。

幼かったから、単なる激務ではないこと、命を狙われたり、脅迫を受けたりすることも、たびたびであったことは、あとから知った。
父がたまに、鎧装束に身を固めて出て行くことがあったが、あれはなぜだろうと思っていた。
暗殺されそうになって、怪我を負ったこともあるという。
それでもよく任務を勤めたので、人から慕われている。
あまりに仕事に励みすぎて、豪族たちの恨みを買い、讒言されて、巴東に左遷されたときなどは、数千もの民があつまって、劉璋に留任を願い出てくれた。
どこへ行っても、民から慕われる、立派な父だ。自慢の父である。
それは、いまだって変わらない。
父の身分が不当に低いことは、父のせいではないし、うちが貧乏なのも、父の働きがないからとか、無能だから、というわけではない。
だから、父を恨むのは間違っている。
おのれの女人を見る目がなかったのだ。
まさに『分別がなかった』だけのこと。

ふう、と暗く切ないため息をついて、休昭は、ずっと手に持っていた笛の袋を見た。
聞いてさえもらえなかった。
父が懸命に自分を稽古してくれたことを思うと、家に帰って、なんと言えばよいのかと、涙が出そうになった。
が、そこをぐっと堪えて、袋から笛を取り出す。
もう、これからは笛を吹かない。
これを最後にしようと、休昭は、娘の前で吹いてやる予定だった曲を吹き始めた。
董和がここで、同じように幼い息子に、草笛で聞かせてくれた、思い出深い古謡である。

夕暮れの河原に、風と一緒に踊るようにして、休昭の笛の音は響き渡った。
帰り支度の釣り人や、河原に散策に来ていた者などが、その音色に耳を傾けている。
人が集まってきたので、休昭はいささか照れつつも、つづけて懸命に吹いた。
そのときには、もう娘のことは頭になく、董和の、音楽とは、真心をこめて、天に向け、我はここにありと訴える厳かなものだ、という言葉が浮かんでいた。

演奏が終わると、周りで聞いていた人々は、口々に、うまいねえ、どこの楽人さんだろう、と休昭を褒めちぎった。
これほどに人から賞賛されるのは、勉強外では、はじめてのことであったから、おおいに照れつつも、休昭は素直に礼を言った。

その中で、ちょうど河原に散策にやってきたところらしい、自分とほぼ同年の少年が、にこにこと、人懐っこそうな顔をして、近づいてきた。
「なあ、きみ。きみはいつもここで演奏をしているのか。今日は練習かい。だとしたら、わたしは、ずいぶんよいところへ居合わせたのだな」
と、少年は、朗らかに、得したなぁ、などと言いながら笑う。
「とても素晴らしい演奏だったよ。もしや、宮城の楽人なのかい。その年でたいしたものだ。まだ十三、四だろう? え、ちがうのか、十六。ふぅん、それでは、わたしより二つほど下だな。
楽人じゃない? ならば、尚更すごいことではないか。きみ、それで身を立てたらどうだい」
「身を立てるつもりはありませぬ、笛は、これで仕舞いと思って吹いておりました」
すると少年は、ガハハと、華奢な見た目に似合わぬ豪快な笑い方をして、休昭の肩を叩いた。
「たった二つ年上だというだけだ、そんな改まった口調はよしてくれ。しかし、これで仕舞い、というのは、悪い冗談だな。さては、だれかと喧嘩でもして、自棄を起こしているのではないかい?」
終始、笑顔以外の表情を浮かべない、なんとも明るい雰囲気の少年は、どうだ、というふうに首を傾げる。
休昭は、元来人見知りがはげしいのであるが、少年の空気に引き込まれ、言った。
「そんなところだ。笛を見ると、思い出してしまう人が出来たので、もうやめようかと」
「なんだ、それは身内かい。それともだれか亡くなったのか。だったら、口は出せないが、もしや別な理由なのだとしたら、わたしは、きみが笛を吹くのをやめるのをやめさせるね。なぜだろうという顔をしているな。そりゃあ、きみは、わが家の恩人だからだよ」
「なにもしていないよ」
「いいや、いまさっき、きみはものすごいことをしてくれたのだ。実を言うと、わたしは家出中なのだ。つい先だって、荊州からこっちにきたばかりでね、荊州と言うのは、東呉の孫氏と曹公と劉左将軍とがごちゃごちゃと覇権争いをしていて、住むには落ち着かないところなのさ。
わたしには父母がなくて、伯父ひとりが親代わりなのだが、伯父上は、戦乱ばかりの荊州に住むのがすっかり嫌になって、わたしと一緒に益州に来たのだよ。ところがだ、まるでわれらが大好きなのか、今度は益州をくださいな、と、劉左将軍が益州からこっちに軍を率いてやってきている、というじゃないか。
だったら、荊州に帰るべきだとわたしが言ったら、伯父上は、危険だから駄目だと言う。
そこで喧嘩になってね、こうなったら一人でも、故郷に帰ってやろうと思っていたのだが、慣れぬ土地ゆえ、見当違いのところにきてしまった。さてどうしようかなと思っていたら、きみの笛の音が聞こえてきた、というわけだ。
で、ここで繋がるわけだよ。きみの笛の音を聞いていたら、伯父上は、わたしをここまで連れてくるのに必死だった。
もし伯父ひとりであったなら、荊州を動かなかっただろう。伯父上は、曹操が大きらいでね、わたしがこのままどこかに仕官する場合、曹操に仕官するのは嫌だと思って、一緒に族姑を頼ってここにきたのだ。
つまりは、すべてわたしの未来を思ってのことだった。
その苦労が突然思い出されてね、わたしは生意気を言ってしまった。家に戻って、伯父上に謝らねばという気持ちになった。
もしきみが、笛でわたしの心を立ち返らせてくれなかったら、もしかしたら、わたしは家出したはいいが、道に迷って、路傍の行き倒れになっていたかもしれない。
だから、きみはわたしの恩人というわけだ。で、恩返しをするために、わたしはきみが笛をやめようとするのをやめさせる、と言っているのさ。そんなに上手なのだから、勿体ないよ、きっといつか、きみの役に立つ」
よく喋る少年の、明るくはきはきした言葉を聞いているうちに、休昭は、胸のうちにあった陰鬱な気持ちが、ひとつひとつあぶくのように弾かれていくのをおぼえていた。
「ところでね、図々しいついでに頼みがあるのだがね、どうも、完全に道に迷ったようなのだ。きみの家の近くまででいいから、道案内を頼まれてくれると、たいそう助かるのだが」
「いいけれど、家の名前は?」
休昭が尋ねると、少年は、またも明るく声を立てて笑い、言った。
「すまない、言い忘れていたな。わたしの名は費文偉という。伯父の名は費伯仁だ」
「なんだ、近所じゃないか。わたしは董休昭。董幼宰の息子だよ。伯父君から、なにか聞いていないかい。うちの父と、きみの伯父君は、すでに知り合いのはずだよ。このあいだ、囲碁を一緒に打ったそうだから」
ああ、と文偉は、ぱっと顔を明るくする。
「そうか、きみは、あの董幼宰さまのご子息か。だったら、なおのこと、これは運命にちがいない。わたしたちは友達になろうじゃないか。
さて、日も暮れてきたことだし、どうだろう、道すがら、きみが笛をやめようと思った理由など、教えてくれたら面白いのだが」
「あまり面白くはないよ」
つい数刻前まで、休昭はひどく傷ついていたのだが、文偉と対峙しているあいだに、なぜだか傷がすっかり癒えてしまった。
さすがに胸は痛むけれども、娘のことを、文偉にならば、言えると思った。

そうして、新しくできた友達と一緒に、休昭は、父の待つ家へと帰っていったのであった。


おわり

御読了ありがとうございました!

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/07/30)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。