※
気がつけば、趙雲の地所だという、あの切り立った崖のある山のなかに、ふたたびやってきていた。
そうして、馬もろくに繋ぐこともせず、馬超は、まるで少年のように、柔らかな草の上に、飛び込むようにして突っ伏すと、どんどんと拳で地面を叩き、そして泣いた。
完全に混乱のなかにいた。
息が苦しくてたまらない。
なにひとつ、思い通りにならない。
戻らない時間、客将とは名ばかりの虜のような生活、心のかよわぬ妻。
ここは、この巴蜀の地は、まるで牢獄だ。
涼州の、あの果てない平原に戻りたい。
けっして『漢族』がいうような豊かさは、そこにはなかったけれど、だが、馬超にとって必要なものは、すべて平原にあったのだ。
こんなに鬱陶しい木々もなかった。険阻な山もなかった。太陽をはばむ、厚い雲もなかった。
果てしのない大地と、果てしのない空と。
なんということであろうか。やっと、いまになって気がついた。
わたしは、なぜ戦った。
功名心に踊らされたのだ。
周囲の期待にこたえてやろうと、力も足りぬのに奢って立ち上がったのだ。
神威将軍などとおだてられ、調子に乗って、多くの者を、まるで祭に引き出すようにしてかき集め、結果は、どうだ。すべてを失った。
だれも守れなかった。最愛の女、息子、父母、兄弟、大事な部下たち。
平西将軍などという地位も、豊かな生活も、なにもいらぬ。
返してくれ。
砂塵の向こうがわに、たしかにあった、ほんとうの生活にもどりたい。
※
そうしてひとしきり泣いたあと、急にしらけた気持ちに襲われた。
嘆いたところで、もはや戻ってくるものなど、なにひとつないのだという冷たい現実が、青草のひんやりとした感触と一緒に、胸の中にもどってくる。
平西将軍。蜀の客将、馬孟起。
生きる?
なんのために。
馬岱や、同じく生きのこった『家族』たちのためか。
たとえわたしが死んだとて、馬岱の方が、適応力が高い。
きっと蜀将のなかでも、うまくやっていけるであろう。
わたしは、あまりにいままで、生き過ぎていたのではないだろうか。
だれひとりとして、幸せにしてやれないまま、近づく者を、みな破滅に追い込んで、習氏や娘さえあんなふうに傷つけて、辛うじていまは、劉備のお情けで生きているだけ。
なんと虚しい。
わたしのやるべきことは、ここでは、ただ生きるだけか。
生きて、かつての栄光の残滓でもって、人を震え上がらせて生きるという、この虚しさに耐えることが、『生き残った』ということに対する罰なのか。
気づけば、馬超はなにか惹かれるように、体を起こし、目の前の風景を見つめていた。
そこには、巨大な斧ですっぱりと大地を切り取ったような、見事な崖の連なりが見えた。
奇景というものであろう。
ふしぎと、ここが地の果だといわれても、納得できそうな気がする。
馬超は、まるで引き寄せられるようにして、ふらふらと、切り立ったその影のふちに立った。
眼下には、殺風景な岩のつらなり。
ところどころに、それでも草花が生えているのが、たくましいといえばたくましい。
だが、それに励まされることはなかった。
崖のふちに立てば、風が真正面からやってくる。背後にある林にはえる、草花の揺れる音がさわさわと聞こえてくる。
目を閉じてみる。
風と、風の運ぶ、砂塵のにおい。
地平の彼方まで広がる青空が、なにも邪魔するもののない平原が、見えるような気がした。そうして、夢の中に消えてしまった息子の面影も、ふたたびよみがえるような気がした。
幻想にとらわれる。
風の向こうに、待っている。
父が、母が、弟たちが、そして董氏、秋が。
思わず足を一歩、前に出そうとした、ちょうどそのとき、背後より声がかかった。
「どなた? そこに、だれかいるのですか」
女の声である。
馬超は、沈思を破られ、目を開く。
と、同時に、自分が、自分でぎょっとするほど、ギリギリまで、崖のふちに足を進めていたことを知り、あわてて後退した。
声の主を見れば、これで三度目になるのであるが、あの盲目の女・青翠である。
あいかわらず、手には杖をもち、見えないであろうその目を、懸命にうごかして、人の姿を探ろうとしている。
見えていなかったのが幸いしたと、馬超は安堵した。
そうでなければ、口がさないものであれば、馬超が自殺をしようとしていたと、噂を好き勝手に立てるであろう。
青翠が、二度目の誰何をするまえに、馬超は、自分が泣いていないことや、声が震えていないことをたしかめてから、言った。
「安心せい、わたしだ」
とたん、青翠のほうも、またか、といった表情となるが、しかし、以前とはちがうことに、あきらかに怒っているようである。
「安心できませぬ。そちらは崖しかないところ。そのようなところで、なにをしているのです?」
「なにをもなにも」
説明はむずかしい。
馬超は、この娘に、いちいちおのれの心情を打ち明ける気にはならなかったから、適当なことを答えた。
「崖の風景がおもしろかったのでな、見ていたのだ」
「それだけでございますか」
娘の疑い深そうな声に、馬超は、いまだ平静さを完全には取り戻していなかったから、どきりとする。
まして相手は盲目だ。
どこか、巫師といっしょで、盲目である代わりに、人の心を読む力をそなえていたらいやだなと、馬超は奇妙な空想をはたらかせた。
「崖にある草花をとろうとしていたのではないでしょうね。そこにあるのは、めずらしい花だから」
「む? そうなのか?」
ただの花、というふうにしか見ないまま、切り立った崖に、それでも咲いている花を見下ろす。
薄い桃色の花弁をもつ、可憐な花であった。
名前はしらない。
「むかし、その花を採ろうとして、死んだ者がおります。ここは危険なところなのです。あまり足を運ばれないほうがよろしいでしょう」
ならば、おまえにとっては、もっと危険な場所ではないか、と馬超は思ったが、しかし習氏と娘のことを思い出し、今日はこれ以上、女と口論したくないなと考え直した。
「すまぬな、もう崖には近づかぬ」
すると、青翠はうんざりしたようにため息をついた。
「つまり、崖には近づかないけれど、またここにはくる、ということですか」
言外に、ここには来るなと言われたようなものである。
さすがにむっとする。
この山の持ち主は趙雲であって、この娘ではない。
それに趙雲は、ここに好きなときに来ていい、と行っていたのだ。
「悪いか。わたしはここが気にいったのだ。おまえこそ、そのような身で、なぜに毎日毎日、山を登る。よく、おまえの旦那がそれを許しているな」
馬超が言うと、娘の顔は、ますます、きついものに変わった。
「高大人は、関係ありません」
「おまえを囲い者にする予定の、ただ撫で回すだけの年寄りだったな。そいつからの迎えは、まだこないと見える」
言うと、娘は見えない目で、虚空をにらみつけ、そして唇をかみ締めつつ、言った。
「では、お答えしましょう。わたしがこの場所に来るのは、ここで父がわたしのために花を摘もうとして、命を落とした場所であるからです。
幼かったわたしは、崖にしか咲いていない花をねだり、父は、それにこたえて、その崖から手を伸ばしました。けれど、なかなか手が届かなかった。
わたしは、父の手伝いをしようと、父の背中を……押してしまったのです。父は崖に落ち、わたしもまた、父と一緒に落ちましたが、あの転落していくなかでも、父がわたしを身を挺してかばってくださった。
おかげで、わたしは視力をうしないましたが、こうして生きているのです」
「なんと」
「わたしが、この山に足を運ぶ理由が、おわかりにいただけましたか。わかったのなら、もう二度とこちらに近づかないほうがよろしいでしょう!」
「おい!」
青翠は言うと、くるりと背を向けて、馬超が呼び止める声をまったく無視し、やってきた道をくだっていった。
馬超は、しばらくぼう然と、その背中を見送っていたが、やがて、またも人を傷つけてしまったことに気づくと、ふたたび怒りがこみ上げてきて、地面を何度も思い切り踏み鳴らし、苛立ちを発散させた。
だが、もう崖に立とうとは思わなかった。
娘の心を、さらに傷つけてしまうような気がしたからである。
※
趙雲は、ふたたび地所に足を運んでいた。
例の錦馬超というあだ名をもっている鬼が、また来ていたら嫌だな、というのではなく、例のおおさわぎしてたばか者たちが、懲りずに、山菜取りに来ている里の娘でも襲うようなことがあったらいけないと、足を運んだのであった。
そうして、山の麓の家に愛馬をあずけて、山道を登ろうとしたところ、盲目の娘が、ひどく苛立った顔をして、降りてくるのに行きあった。
娘はかなりイライラしており、顔は、それこそ鬼のようになっている。
盲目の娘。
そうか、これが平西将軍がたすけようとしていた娘か。
と、ふと見ると、叢の影から、立派な黒馬が、山の斜面を難儀な顔をして(馬の表情を読むのは、趙雲は得意なのである)、その長い足を傷つけず、どううまく降りようかと苦心しているのに気がついた。
馬に気をとられているうちに、娘は、待たせていたらしい安車に乗って、去っていく。
「おい、どこからきた」
声をかけながら、答えるようにして鼻を鳴らす馬の轡をつかまえて、うまく茂みから山道に誘導してやる趙雲であるが、馬のつけている、そのあまりに特徴的で、派手な馬具に、すぐに思い当たった。
馬超の馬である。
どうやら、しっかり繫いでいなかったので、馬は勝手に動き回ってしまったものらしい。
勘のよいところで、趙雲は、馬超がいたということは、あの娘と会ったはずだな、とすぐに想像した。
と、同時に、馬超には複数の側室があること、なかなかの遊人であることを思い出し、悪漢から助けたことがきっかけで、馬超は、あの娘と逢引をする仲になったのだろうか、とも想像した。
そうして、その考えを振り払うように、首を振る。
人がどのような情事にふけろうと、知ったことではない。
しかし、あの娘の様子では、喧嘩でもしたのであろうか。
それもどうでもいいことだが。
ああ、ろくでもない秘密を知ってしまったな、と思いつつ、趙雲は、馬超の馬を、自分の馬を預けてある家に連れて行こうとするのであるが、そのとき、里の細道にはめずらしいことに、貴族のものとおぼしき安車が停まっているのに気がついた。
さきほどの娘の安車とは比べ物になならないほど、立派な四頭立てで、たいへん目立つ。
目立つ、ということで、趙雲は、ちらりと自分が手綱をにぎっている馬をちらりと見るが、馬はなにも答えはしない。当然ながら。
趙雲に見られたことに気がついたのか、その安車は、ゆっくりと、山から離れて行こうとする。
妙だ。
山を登らなければ、あの奇岩の連なる光景を目にすることはできない。
とはいえ、士大夫が詩の題材にするために、わざわざ足を運ぶようなところでもない。
趙雲は、しずしずと、山から離れようとしている安車のほうへと歩をすすめた。
つづく……
気がつけば、趙雲の地所だという、あの切り立った崖のある山のなかに、ふたたびやってきていた。
そうして、馬もろくに繋ぐこともせず、馬超は、まるで少年のように、柔らかな草の上に、飛び込むようにして突っ伏すと、どんどんと拳で地面を叩き、そして泣いた。
完全に混乱のなかにいた。
息が苦しくてたまらない。
なにひとつ、思い通りにならない。
戻らない時間、客将とは名ばかりの虜のような生活、心のかよわぬ妻。
ここは、この巴蜀の地は、まるで牢獄だ。
涼州の、あの果てない平原に戻りたい。
けっして『漢族』がいうような豊かさは、そこにはなかったけれど、だが、馬超にとって必要なものは、すべて平原にあったのだ。
こんなに鬱陶しい木々もなかった。険阻な山もなかった。太陽をはばむ、厚い雲もなかった。
果てしのない大地と、果てしのない空と。
なんということであろうか。やっと、いまになって気がついた。
わたしは、なぜ戦った。
功名心に踊らされたのだ。
周囲の期待にこたえてやろうと、力も足りぬのに奢って立ち上がったのだ。
神威将軍などとおだてられ、調子に乗って、多くの者を、まるで祭に引き出すようにしてかき集め、結果は、どうだ。すべてを失った。
だれも守れなかった。最愛の女、息子、父母、兄弟、大事な部下たち。
平西将軍などという地位も、豊かな生活も、なにもいらぬ。
返してくれ。
砂塵の向こうがわに、たしかにあった、ほんとうの生活にもどりたい。
※
そうしてひとしきり泣いたあと、急にしらけた気持ちに襲われた。
嘆いたところで、もはや戻ってくるものなど、なにひとつないのだという冷たい現実が、青草のひんやりとした感触と一緒に、胸の中にもどってくる。
平西将軍。蜀の客将、馬孟起。
生きる?
なんのために。
馬岱や、同じく生きのこった『家族』たちのためか。
たとえわたしが死んだとて、馬岱の方が、適応力が高い。
きっと蜀将のなかでも、うまくやっていけるであろう。
わたしは、あまりにいままで、生き過ぎていたのではないだろうか。
だれひとりとして、幸せにしてやれないまま、近づく者を、みな破滅に追い込んで、習氏や娘さえあんなふうに傷つけて、辛うじていまは、劉備のお情けで生きているだけ。
なんと虚しい。
わたしのやるべきことは、ここでは、ただ生きるだけか。
生きて、かつての栄光の残滓でもって、人を震え上がらせて生きるという、この虚しさに耐えることが、『生き残った』ということに対する罰なのか。
気づけば、馬超はなにか惹かれるように、体を起こし、目の前の風景を見つめていた。
そこには、巨大な斧ですっぱりと大地を切り取ったような、見事な崖の連なりが見えた。
奇景というものであろう。
ふしぎと、ここが地の果だといわれても、納得できそうな気がする。
馬超は、まるで引き寄せられるようにして、ふらふらと、切り立ったその影のふちに立った。
眼下には、殺風景な岩のつらなり。
ところどころに、それでも草花が生えているのが、たくましいといえばたくましい。
だが、それに励まされることはなかった。
崖のふちに立てば、風が真正面からやってくる。背後にある林にはえる、草花の揺れる音がさわさわと聞こえてくる。
目を閉じてみる。
風と、風の運ぶ、砂塵のにおい。
地平の彼方まで広がる青空が、なにも邪魔するもののない平原が、見えるような気がした。そうして、夢の中に消えてしまった息子の面影も、ふたたびよみがえるような気がした。
幻想にとらわれる。
風の向こうに、待っている。
父が、母が、弟たちが、そして董氏、秋が。
思わず足を一歩、前に出そうとした、ちょうどそのとき、背後より声がかかった。
「どなた? そこに、だれかいるのですか」
女の声である。
馬超は、沈思を破られ、目を開く。
と、同時に、自分が、自分でぎょっとするほど、ギリギリまで、崖のふちに足を進めていたことを知り、あわてて後退した。
声の主を見れば、これで三度目になるのであるが、あの盲目の女・青翠である。
あいかわらず、手には杖をもち、見えないであろうその目を、懸命にうごかして、人の姿を探ろうとしている。
見えていなかったのが幸いしたと、馬超は安堵した。
そうでなければ、口がさないものであれば、馬超が自殺をしようとしていたと、噂を好き勝手に立てるであろう。
青翠が、二度目の誰何をするまえに、馬超は、自分が泣いていないことや、声が震えていないことをたしかめてから、言った。
「安心せい、わたしだ」
とたん、青翠のほうも、またか、といった表情となるが、しかし、以前とはちがうことに、あきらかに怒っているようである。
「安心できませぬ。そちらは崖しかないところ。そのようなところで、なにをしているのです?」
「なにをもなにも」
説明はむずかしい。
馬超は、この娘に、いちいちおのれの心情を打ち明ける気にはならなかったから、適当なことを答えた。
「崖の風景がおもしろかったのでな、見ていたのだ」
「それだけでございますか」
娘の疑い深そうな声に、馬超は、いまだ平静さを完全には取り戻していなかったから、どきりとする。
まして相手は盲目だ。
どこか、巫師といっしょで、盲目である代わりに、人の心を読む力をそなえていたらいやだなと、馬超は奇妙な空想をはたらかせた。
「崖にある草花をとろうとしていたのではないでしょうね。そこにあるのは、めずらしい花だから」
「む? そうなのか?」
ただの花、というふうにしか見ないまま、切り立った崖に、それでも咲いている花を見下ろす。
薄い桃色の花弁をもつ、可憐な花であった。
名前はしらない。
「むかし、その花を採ろうとして、死んだ者がおります。ここは危険なところなのです。あまり足を運ばれないほうがよろしいでしょう」
ならば、おまえにとっては、もっと危険な場所ではないか、と馬超は思ったが、しかし習氏と娘のことを思い出し、今日はこれ以上、女と口論したくないなと考え直した。
「すまぬな、もう崖には近づかぬ」
すると、青翠はうんざりしたようにため息をついた。
「つまり、崖には近づかないけれど、またここにはくる、ということですか」
言外に、ここには来るなと言われたようなものである。
さすがにむっとする。
この山の持ち主は趙雲であって、この娘ではない。
それに趙雲は、ここに好きなときに来ていい、と行っていたのだ。
「悪いか。わたしはここが気にいったのだ。おまえこそ、そのような身で、なぜに毎日毎日、山を登る。よく、おまえの旦那がそれを許しているな」
馬超が言うと、娘の顔は、ますます、きついものに変わった。
「高大人は、関係ありません」
「おまえを囲い者にする予定の、ただ撫で回すだけの年寄りだったな。そいつからの迎えは、まだこないと見える」
言うと、娘は見えない目で、虚空をにらみつけ、そして唇をかみ締めつつ、言った。
「では、お答えしましょう。わたしがこの場所に来るのは、ここで父がわたしのために花を摘もうとして、命を落とした場所であるからです。
幼かったわたしは、崖にしか咲いていない花をねだり、父は、それにこたえて、その崖から手を伸ばしました。けれど、なかなか手が届かなかった。
わたしは、父の手伝いをしようと、父の背中を……押してしまったのです。父は崖に落ち、わたしもまた、父と一緒に落ちましたが、あの転落していくなかでも、父がわたしを身を挺してかばってくださった。
おかげで、わたしは視力をうしないましたが、こうして生きているのです」
「なんと」
「わたしが、この山に足を運ぶ理由が、おわかりにいただけましたか。わかったのなら、もう二度とこちらに近づかないほうがよろしいでしょう!」
「おい!」
青翠は言うと、くるりと背を向けて、馬超が呼び止める声をまったく無視し、やってきた道をくだっていった。
馬超は、しばらくぼう然と、その背中を見送っていたが、やがて、またも人を傷つけてしまったことに気づくと、ふたたび怒りがこみ上げてきて、地面を何度も思い切り踏み鳴らし、苛立ちを発散させた。
だが、もう崖に立とうとは思わなかった。
娘の心を、さらに傷つけてしまうような気がしたからである。
※
趙雲は、ふたたび地所に足を運んでいた。
例の錦馬超というあだ名をもっている鬼が、また来ていたら嫌だな、というのではなく、例のおおさわぎしてたばか者たちが、懲りずに、山菜取りに来ている里の娘でも襲うようなことがあったらいけないと、足を運んだのであった。
そうして、山の麓の家に愛馬をあずけて、山道を登ろうとしたところ、盲目の娘が、ひどく苛立った顔をして、降りてくるのに行きあった。
娘はかなりイライラしており、顔は、それこそ鬼のようになっている。
盲目の娘。
そうか、これが平西将軍がたすけようとしていた娘か。
と、ふと見ると、叢の影から、立派な黒馬が、山の斜面を難儀な顔をして(馬の表情を読むのは、趙雲は得意なのである)、その長い足を傷つけず、どううまく降りようかと苦心しているのに気がついた。
馬に気をとられているうちに、娘は、待たせていたらしい安車に乗って、去っていく。
「おい、どこからきた」
声をかけながら、答えるようにして鼻を鳴らす馬の轡をつかまえて、うまく茂みから山道に誘導してやる趙雲であるが、馬のつけている、そのあまりに特徴的で、派手な馬具に、すぐに思い当たった。
馬超の馬である。
どうやら、しっかり繫いでいなかったので、馬は勝手に動き回ってしまったものらしい。
勘のよいところで、趙雲は、馬超がいたということは、あの娘と会ったはずだな、とすぐに想像した。
と、同時に、馬超には複数の側室があること、なかなかの遊人であることを思い出し、悪漢から助けたことがきっかけで、馬超は、あの娘と逢引をする仲になったのだろうか、とも想像した。
そうして、その考えを振り払うように、首を振る。
人がどのような情事にふけろうと、知ったことではない。
しかし、あの娘の様子では、喧嘩でもしたのであろうか。
それもどうでもいいことだが。
ああ、ろくでもない秘密を知ってしまったな、と思いつつ、趙雲は、馬超の馬を、自分の馬を預けてある家に連れて行こうとするのであるが、そのとき、里の細道にはめずらしいことに、貴族のものとおぼしき安車が停まっているのに気がついた。
さきほどの娘の安車とは比べ物になならないほど、立派な四頭立てで、たいへん目立つ。
目立つ、ということで、趙雲は、ちらりと自分が手綱をにぎっている馬をちらりと見るが、馬はなにも答えはしない。当然ながら。
趙雲に見られたことに気がついたのか、その安車は、ゆっくりと、山から離れて行こうとする。
妙だ。
山を登らなければ、あの奇岩の連なる光景を目にすることはできない。
とはいえ、士大夫が詩の題材にするために、わざわざ足を運ぶようなところでもない。
趙雲は、しずしずと、山から離れようとしている安車のほうへと歩をすすめた。
つづく……