はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

うつろな楽園 その42

2013年10月05日 09時02分19秒 | 習作・うつろな楽園
そのかわり、聞こえてきたのは、自分たちを呼ばわる、なつかしい声だった。
まず、頬に風が当ることが新鮮だった。
ふだんは何気なく風や土のかおりを嗅いでいたが、今日こそ、それをありがたいとおもったことはない。
すでに日はとっぷり暮れており、視界は暗い。
林立する木々を背景に、ちらちらと松明の光が見える。
ここは新野の城外の林であるようだ。
林のなかには、同じようにハマグリの中にいた住人たちがいて、こちらはぽかんと辺りを見回している。
なかには察しのよい者もいて、林の向こうの劉備たちに気づき、さっそく逃げようとしていた。
怪物の遺体はどこにもない。
あの世界に置き去りになっているのだろう。

「張伸さま!」
悲鳴にちかい睡蓮の声に、趙雲はわれに返った。
見れば、木々の下に生い茂る羊歯の葉に埋もれるようにして、張伸が倒れ込んでいた。
その手には、欠けたハマグリの貝殻がある。
「張伸さま、しっかりなさってください!」
武兵もあらわれて、倒れている張伸を助け起こす。
すると、張伸はゆっくりだが目をひらいた。外傷はないようである。

松明を持った兵たちが、張飛や孔明、趙雲の名を呼ばわりながら、こちらに近づいてくるのがわかった。
それはとなりで見ていた孔明も同じだったようで、かれは前に進み出ると、張伸と睡蓮、そして武兵に言った。
「ここにいては捕まる。立ち上がって、どこへなりと行くがよい」
孔明の思いもかけないことばに、目をはっきりひらいた張伸のほか、睡蓮と武兵もおどろきの顔を見せた。
「張伸、おまえはだいそれた罪を犯した。本来ならばこの場でひっとらえ、しかるべき罰を与えるところだが、わたしは睡蓮におまえを助けてやると約束したのだ。睡蓮や武兵の力がなければ、怪物は倒すことができなかっただろう。その功に免じて、ふたりの願いを聞く。さあ、追っ手が来る前に、すぐに逃げるといい」
張伸は、苦しそうに呻きながら、答えた。
「わたしは、民を守りたかった。戦のない平和な世界へ連れて行ってやりたかった。こんなはずではなかったのに!」
「その理想を守りたければ、いまは戦うほかないのだ。われらの敵は、曹操だけではない。権勢のためならば血でおのれを汚すことも厭わぬけだものじみたこころ、そのものなのだ。そのこころに抗するのに、自分の手を汚さずに理想だけを追うことはできないぞ。
わたしも民を守りたい。平和な世界を実現してみたい。だからこそ、わたしは戦う。血でいかように汚れようともかまわない。その代償が、民を守ることにつながるのならばな。おまえはどうする」
「わたしは」
張伸は、それ以上のことばはつづけなかった。
劉備たちが近づいてきているというのもあったが、実際のところは、孔明のことばに反論する気力がもうなかったのだろう。
「行きましょう」
武兵にうながされて、張伸はうごきはじめた。
その背中を、睡蓮が労しいというように何度もさする。

去っていく三人の背中に、趙雲は言った。
「張伸、睡蓮を大事にしろよ。おまえの首の皮は、睡蓮がつないだのだ。これから先、つらいことも多かろうが、睡蓮だけは、なんとしても守れ。それがおまえのこれからの命題だ、きっとだぞ、張伸」
張伸は首だけうごかして振り返ると、わかった、というふうにぺこりと頭を下げた。
去り際、睡蓮が孔明のほうを向いて、言った。
「軍師さま、あたし、背の高い色の黒い女の人を見たことがあります。ハマグリの中ではなくて、色町で会ったんです。男の格好をしていたけれど、女の人だったとおもいます。名前は嫦娥といって、帯下医をなさっておりました」
「医者」
「黙っていてごめんなさい、それから、どうもありがとうございました」
そうして、三人は闇の向こうへ消えて、以来、二度と姿を見せなかった。

つづく…


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